第21話 コンクール(序)

「…よし、午前はここまでにしようか」

先生は楽譜に書き込みを入れると、私に笑顔を向けながら明るく言った。

「はい、先生」

私も手元の楽譜に、先生の書き込みと同じことをメモると、笑顔で返した。

今日は十一月の第一日曜日。いつもの様に先生のお家にお邪魔して、午前中から稽古をつけてもらっている。

そしてこれも習慣化した事、つまりは昼の中休みにお菓子作りをする為に、私達は揃ってキッチンに向かった。私がエプロンを身につけている間、先生はすでに用意してあった材料をテーブルの上に取り出していた。今日作るのはチョコクッキーだった。

今でも週三のペースでここに来ていたが、学校がある都合上、午前と午後のレッスンがあるのは毎週日曜日のみだった。だからこうしてお菓子作りを習うのは、日曜日だけとなる。それでも毎週毎週違うメニューを教えてくれるので、後どのくらい先生の頭の中にレシピがあるのか、気になるのと同時に尊敬するばかりだった。こんな注釈は要らないだろうが、勿論ピアノの次にだ。実は今までのメニューは全て、自作のノートにつけていた。普通のキャンパスノートだ。表紙には『簡単!お菓子レシピ!』と、そのまんまの題名を、色んな色のマジックペンで書いていた。今までピアノのレッスン用には作っていたが、頭で覚えるのが限界に感じ、とうとうお菓子用にも作ってしまった。大体いつもオーブンを使う事が多かったので、その間にメモるのだった。

先生は私の前にボールを置くと、その中にホットケーキミックス、サラダ油、砂糖、そして溶き卵を入れた。

「…よし!じゃあ琴音ちゃん、かき混ぜて」

「はーい」

私は言われるがままに、丹念にかき混ぜた。その間に先生が私の隣で、包丁を使って丁寧に板チョコを刻んでいた。粉っぽさが無くなり、生地が出来あがってくると、先生は自分が刻んだ板チョコをボールの中に加えた。またかき混ぜるように言うので、私がまたかき混ぜている間、先生は天板にクッキングシートを丁寧に敷き詰めていた。先生がチョクチョク、ボールの中を監視していたが、ある程度までいくと笑顔で頷いたので、私はテーブルの上に置いた。私が顔中に疲労感を滲ませつつ、大袈裟に両手をプラプラさせて見せると、先生はその様子を見て無邪気な笑顔を見せていた。私もクスッと笑うのだった。

先生と私は用意されたビニール手袋をはめて、二人一緒にボールの中の生地を適量取って、クッキーの形になるように天板の上に置いていった。勿論ある程度くっ付かないほどに距離をおいてだ。生地全部が無くなるほどに作ると、先生はそれをオーブンの中に入れた。そして500wに設定し、十五分に設定すると、スタートボタンを押した。後は焼きあがるまで待つのみだ。その間先生と一緒に、流し台でボールなどを洗い流して、先ほども触れたように空いた時間で、改めて先生の口からレシピを言ってもらい、それをメモするのだった。

オーブンから、焼き上がりを知らせるチャイムが鳴った。ちょうど私がメモを取り終わった頃合いだった。先生がオーブンに寄ろうとしたので、私も慌てて付いて行こうとしたが、先生は優しい笑顔で押し留めた。ノートと筆記用具を片せという事だった。私が言われた通りに整理をしていると、先生がオーブンの扉を開けたので、キッチンに焼けたチョコレートの甘い香りが充満した。とても優しい香りだった。片し終えると、私は早足で先生の元へと行った。ちょうど先生は大皿の近くに、まだ余熱を発している天板を置くところだった。先生の隣から中を見ると、そこにはよくお店などで見るオーソドックスなチョコレートクッキーが、所狭しと出来上がっていた。感動しているのも束の間、先生は笑顔で私に菜箸を渡してきた。私も笑顔で受け取ると、二人でクッキーが崩れないように食べる分だけ大皿に移した。残りは先生と私とで分ける予定だ。出来上がった約半分を取り分けると、私がそれを食卓に持って行った。先生は私の分の牛乳、自分の分のコーヒーを運んでくれた。

そして二人して向かい合って座ると、先生が胸の前でパンッと大きな良い音を鳴らしながら両手を合わせて、頭を軽く下げながら言った。

「じゃあ早速、いただきまーーす!」

私も先生を真似て、胸の前で両手を合わせると、明るい調子で続いた。

「いただきまーーす!


「…はぁ、美味しかったぁ!」

私は牛乳の入ったコップを持ち、中身を飲み干すと言った。二人合わせて正味三十個以上はあったろうが、綺麗にペロリと完食してしまった。今更ながらお昼ご飯が手作りお菓子だけっていうのは、不健康極まりないのだろうが、毎週土曜日のお昼だけだから…と、私と先生は誰に言うのでもなく言い訳をするのだった。

「やっぱり手作りは良いねぇー。…普通のクッキーでも美味しく食べれるし」

先生はコーヒーを啜りながら、心身ともにリラックスした調子で応えた。

普段こうして食べてる間は、音楽の話からは離れて、主に普段の私の生活について、先生が色々と質問してくるのを答えることが多かった。尤も学園生活の話のついでに、どうしても音楽関係の話に成らざるを得なかったけど。やはり藤花の話中心になってしまうのだった。

藤花はすっかり私と同じ中一だというのに、初演の大成功のお陰か、頻繁にと言っても月一くらいだったが、その若さで独唱する機会が多くなっていた。前にも何度か言ったように、私も何度か藤花の練習に付き合ったりしていたが、私が言うのは変かも知れないけど、メキメキと実力は向上していく一方だった。ただでさえ元々上手かったのに、技なり表現力なりが凄みを増していっていた。これでも、ほぼ独学だと言うから恐れ入る。私に見せる練習の、そのまた裏での普段の生活の中で、どれほどの努力をしているのかを思うと、聞いてもあの無邪気な笑顔で誤魔化されるのが分かっているから聞かないけれど、同い年とか関係無く感銘受けずには居れなかった。

…ついつい藤花の話で長くなってしまった。これも何度か言った通り、同じ音楽という芸の道を志している者が、こんなに身近にいるのが嬉しくて、ついつい繰り返し話したくなってしまうのだ。許して欲しい。先生も今だに私から藤花が独唱する日程を聞き出して、わざわざレッスンを休みにした日曜日に会って、四ツ谷の教会まで聞きに行くのも習慣化していた。教会ではいつも律と落ち合っていた。初めての時は、当然律にキチンと先生を紹介した。最初はいつもの無表情ながら戸惑っていたみたいだったが、事情や先生の経歴などを軽く伝えると、むしろ好意的に先生を受け入れてくれた。独唱が終わってからも、都合がつくようならば、わざわざ藤花に挨拶しに行った。藤花も初めて私の先生だと紹介すると恐縮していたが、先生が余りにもあっけらかんと褒めるので、初めは赤くなって照れながらも、どうやら先生を気に入ってくれたようだった。律の場合と違って、前評判を伝えてあったのが良かったのかも知れない。

…また話が長くなってしまったが、何が言いたいのかというと、この日も途中からずっと藤花の話題で持ちきりだったという事だ。それがひと段落してからの会話となる。

私はふと時計を見た。昼の一時五分前だった。午後のレッスンは一時半から始めるのが習慣だった。特に決めていた訳ではなかったが、自然とそうなっていた。まだレッスン開始まで今日は三十分以上と、だいぶ時間が余っていたので、今までの会話の流れでも不自然じゃないと、私はこれを機会に、あの話題を振ってみることにした。

「…そういえば先生」

「…ん?なーに?」

先生はテーブルの隅に置いてあった雑誌をパラパラと捲っていたが、私が話しかけると大きくそのページを開いたまま、私に微笑みかけてきた。

私は今までの事も含め、急にこの話を持ちかけるのに流石に気が引けて、なかなか口から言葉を紡ぎ出せずにいたが、今しかチャンスは無いと思い切って話しかけた。

「…あのね、先生…先生に聞いて欲しいことがあるんだけど…」

「何よ急に?そんな改まっちゃって。…どんな事でも良いから話してご覧なさい?私とあなたの仲でしょ?」

先生は普段の柔和な笑顔を見せた。私はおかげで漸く決心がついた。最後の一押しを貰った。

「…私ね、そのー…コンクール…にね?…で、出てみようかと…お、おも、思っているんですけど…どう思いますか?」

何とか決心して言った割には、結局こんな調子で辿々しくなってしまった。ただ話し方はどうあれ、何とか思いの丈は言えた。

私は言い終えると俯いた。後は先生のリアクションを待つだけだ。

「…」

しかし、暫くしても何の反応もなかった。私は痺れを切らして、ゆっくりと顔を上げた。そして先生の顔を見ると、先生は大きく目を見開き、私の事を凝視していた。おそらく私が言ってから、ずっとそのままの状態でいたのだろう。目が乾くのを心配してしまうくらいに、瞬きが少なかった。

と、私と目が合い数秒ほどすると、先生は静かにコーヒーを、目を閉じながら味わうように啜り、ゆっくりとカップを置くと、私の方に冷静な眼差しを向けてきながら、静かに口を開いた。

「…今の話は、本気なの?」

「…は、はい…」

私は普段と違う雰囲気を身に纏う先生に圧倒されつつも、目を逸らさず何とか短く返事をした。先生は表情を変えずに続けた。

「そう…でもまた急にどうしてコンクールに出て見る気になったの?…今まであれだけ拒み続けてきたじゃない…?」

尤もな反応だった。前にも何度か言ったような、コンクールに出たくない理由を、先生にも伝えてはいた。

もちろん、『人前で自分の姿を、動物園のパンダみたいに晒し者にされるのは、死んでもゴメンだ』という風には流石に言わなかったけど、オブラートに包んでそれとなしに話していた。そんな私が急にこんな事を言い出したのだ。先生は私の性格を熟知している。一度言ったことを訂正する事を、信念を曲げるような事を言うのを、何よりも嫌がる事を分かっていた。だからこそ、こんなにしつこく確認を取ってくるのだ。それはそれで、先生が私の事を、本質的な部分まで理解してくれていることは喜ばしいことだったけれど、正直心の何処かで、コンクールに出たい旨を言えば、何だかんだ先生は手放しで喜んでくれるものと期待していただけに、この尋問はかなり私には重く辛かった。

「そ、それは…」

先程までの、クッキーを作って食べたような明るい雰囲気は消え失せて、どんよりとした重苦しい雰囲気の中、私は絞り出すように俯きつつ先を続けた。

「…た、確かに人前に出るのは…うん、今でも正直…い、嫌だけど…でも!」

私は勢いよく顔を上げ、先ほどから変わらぬ、私の事を見定めるかの様な、静かな表情のままの先生を、強い視線で見つめ返しながら続けた。

「先生も知ってる様に、色んな同世代の子達と親しくなって、その子達がまた自分の好きな事に全力で努力して、大会に出たり人前に出て頑張っているのを見て、そのー…私は今まで嫌な事から色んな理由を付けて、逃げていただけの甘えん坊だと気づいたの!そのー…先生も知ってる藤花や律、…後話した事があった裕美や紫達のお陰で!みんなそれぞれの場所で頑張っているのに、私だけ逃げ続けるのは恥ずかしいと、単純に思えたの!…それだけ…です」

途中までは自然と熱くなって語気荒く話していたが、最後の方で不意に先生の無表情が怖くなって、途端に熱が引き、何とかボソボソ声になりながらも言い切るのがやっとだった。そしてまた少し俯いてしまった。また先生の反応を待つ他なかった。でも、理路整然では無かったかもしれないが、言いたい事、伝えたい事は言えた様な気がする。

「…」

先生はまた無言で暫くいたが、ふとまたコーヒーを一口啜ると

「…琴音ちゃん、顔を上げて?」

と、先程とは打って変わって、あまり聞いた事のない、慈愛に満ちた声音で私に話しかけてきた。

これは二度しか無かったが、前回は…そう、受験の影響で両立出来なければピアノを休止しなくてはいけない旨を、先生に話し、私自身は絶対に嫌だと駄々をこねた時に、話しかけてくれた時以来だった。

私は恐る恐る顔を上げると、思わずギョッとしてしまった。先生は優しく微笑みかけてきていたが、目には涙を多く湛えていた。今にも何かの拍子に、こぼれ落ちて来てしまいそうな程だった。前回も涙を湛えてはいたが、今ほどでは無かった。

私が呆然していると、先生はそのままの表情で、ゆっくりと話しかけてきたのだった。

「…そうか。…ようやく決心してくれたんだね」

先生は目を細めて笑った。その反動で、とうとう涙が流れ落ちてしまった。

先生は少し照れ臭そうに拭いながらも続けた。

「…私はどうしても琴音ちゃんに、コンクールに出てみて欲しかった。…それはね?これは勝手な言い方だけど、琴音ちゃんと初めて会った時、その時のあなたの様子が、幼い頃の私とかぶって見えていたからなの」

「…え?」

私は思いがけない告白に、思わず気の抜けた声を出してしまった。そして瞬時に、義一のことを思い出していた。義一も私に対して、今先生が言った事と同じような事を話していたからだ。

先生は私が声を上げても、先を話さない事を確認すると、そのまま先を続けた。

「初めてあなたが瑠美さん…お母さんに手を引かれてこの家にきた時、私はまだここの家に来て、一ヶ月も経ってないくらいだったわ。…私がここでピアノ教室を開く顛末になった話は、知ってるよね?…うん、そう。正直まだ自分の夢自体を諦めきれずに、まだ自暴自棄になってたままだった。…でもあなたを瑠美さんが紹介して来た時、ふと、瑠美さんの後ろに隠れてモジモジしている姿を見て、何だか懐かしい気持ちになったの。…でね、すぐに思い至ったわ。…まるで昔の自分みたいだなってね?」

先生は一息つく様に、また一口コーヒーを啜った。私は黙ったままジッと話の先を待った。突然の身の上話が始まったので、先程までの恐縮加減は影を潜め、好奇心が湧いてきてしまうという、悪癖が出て来てしまっていた。先生は続けた。

「…うん。でね、この直感は段々と正しいんだと確信に至るようになったの。…琴音ちゃん、あなた初めてここに来てから、今よりも多いペースで来ていた事は覚えてる?」

「…え?は、はい、…確か週四以上は来ていたと思います」

そうなのだ。前に軽く触れたように、覚えておられるか分からないが、義一と初めて法事の為にお寺で出会ってからすぐ、その後に先生のところに通うようになったのだ。義一に出会ってから、再会後ほどでは無いにしても、友達付き合いが苦手になってしまっていた。毎日のように同級生達と遊んでいたのに、放課後はすぐに家に帰る事が多くなっていった。それを心配したのかどうかは兎も角、そんな時にお母さんが私に『もし友達と遊ぶ用事がないなら、試しにピアノでも習ってみない?』と提案されたのがキッカケだった。私は何も考えず、当時は何故こんなに人付き合いが苦手になったのか、自分でよく分かっていない上、その分からない状態にストレスが溜まり、そのはけ口を探していた事もあったので、すぐに了承したのだった。

私は先生にコクンと小さく頷いた。先生も微笑みつつ頷いた。

「でね、そのー…琴音ちゃんと私の中だから言えるんだけど」

先生は頬を掻きながら、言いづらそうに苦笑を浮かべていたが、私が変わらず真っ直ぐな視線を向けていたので、後ろを押されるかの様に先を続けたのだった。

「…あんなにほぼ毎日私の所に来るって事は、放課後に遊ぶ友達が控えめに言って…そのー…少ないんじゃないかって思ったの」

「…」

私は気にせずに先を話して欲しいと、その意思表示のために、気を悪くしたかの様に取られないために、少し顔に微笑みを湛えて見せただけだった。先生は私の心中を察したのか、同じ様に微笑んだ。

「…それってね、ズバリ当時の琴音ちゃんと同い年の頃の私と、状況を含めてソックリだったのよ」

先生は気持ち嬉しげとも取れる様な調子で言った。

「…え?」

私はさっきと同じ様に、間抜けな声を上げるだけだった。我ながらリアクションのボキャブラリーが少ないなとは思うが、『え?』としか言えないのだからしょうがない。

何せここまで私の話を聞いてくれた人なら分かってくれると思うが、先生はピアノの先生であるのと同時に、私が思い描く”理想の女性像”そのものだった。絵里は違うのかと言われると困ってしまうが、何にせよ、周りの大人の女性達の中では一番本当に”格好いい”女性だった。私の為も含めて、言ってはくれないけれども、夢破れた今でも鍛錬を欠かさず積んでいたり、それに驕り昂ぶる事も無く謙虚な姿勢で居るところなど、過去の栄華…それも取るに足らない、たまたま運良く他人にチヤホヤされただけの思い出にしがみ付く、浅ましい人間達が多い中で先生は、本当に努力を積み重ねる事で手にした本物の栄華に、自身を寄りかからせる様な事は無かった。それが何とも言い難いほどに、格好付けていないのに格好良かった。そんな憧れの先生が、私と自分を重ねて、しかも似ているだなんて言ってくれてる事自体、初耳なのも含めて益々唖然とする他なかった。

先生はこれについては察しきれなかったのか、また苦笑いを浮かべつつ続けた。

「…まぁ私に急に似ているだなんて言われても、困るだろうけれどね」

「…!そ、そんな事…!」

私は慌てて訂正を入れようとしたが、受け入れてくれなかった。先生は表情そのまま、向かいに座る私の唇に人差し指を軽く当てた。私は大人しく黙る他なかった。

先生は何事もなかったかの様に続けた。

「…私も琴音ちゃんと初めて会った時ぐらいの歳の時は、学校に友達が…いなかった訳では無かったけど、その友達の家まで遊びに行くほどの子は居なかったの。…だからいつも放課後は、一人ぼっちで帰っていたわ。…でね、幼稚園の頃から習っていたピアノに、寂しさを紛らわすかのように、のめり込んでいったの」

…私とおんなじだ。寂しかったかどうかはともかく。

「お陰でというか、自分で言うのも恥ずかしいけれど、メキメキと上達していったわ。それに背が急にある時期から伸び出していって、ピアノを弾くのも楽になっていった気がしていったから、余計に弾くのが楽しくなっていって、益々のめり込むようになったの」

これも私と同じだ。私も先生に昔褒められた事があったと、軽く触れた事を覚えているだろうか?その時は身長が伸びたのは、私の努力のおかげでは無いから素直に喜べなかったが、確かに今まで届かなかったポジションに容易に届くようになって、今まで苦労して弾いていた難曲が、楽々弾けるようになり、それが嬉しく楽しくて、余計にのめり込んでいったのを覚えている。こればかりは肉体的特長と絡んでくる話だし、中には体が大きくなって運指がうまいこと出来なくなる人も居るから単純には言えないが、少なくとも私、それに先生は、それが上手いこと作用してくれたみたいだった。

「その時ね、ある日先生が提案してきたの…」

先生はテーブルに肘をつくと、視線を斜め上に向けて、どこか遠くを見るような眼差しになりながら言った。

「…そう、あれは私が小学校四年生の頃だったかなぁ?先生が突然私に、コンクールに出てみないかって誘ってきたのよ。…私は最初は断ったんだけどね?…どっかの誰かさんとは理由は違ったけど」

先生は意地悪くニヤケながら言った。私は途端に恐縮しつつ「…ごめんなさい」とだけ言ったが、先生は腕を伸ばし、私の頭を優しく撫でながら笑顔で言った。

「あははは!御免なさいね?冗談のつもりで言ったんだけど、流石に今のは私が空気を読めていなかったわ。…えぇっと…あぁ、そうそう!私の場合はコンクールに出る程の実力があると、自分で思っていなかったのよ。…勇気が無かったの。でもあまりにも強く薦めてくるもんだから、根負けした形で出る事にしたの…あっ!ちょっと待ってもらえるかな?」

「は、はい」

私が答えると、先生は一度ニッコリと笑い、席を立つと何処かへ行ってしまった。階段を上る音がするから、二階に上がったのだろう。ドアを開ける音、ガサガサ何かを漁る音、また階段を降りて来る音、それらを何するでもなく、ただジッとしたまま聞いていた。時刻はもう、一時半を過ぎようとしていた。

「…ごめんねぇ、お待たせして?」

「あ、いえ…」

先生は微笑み返しながら、また向かいに座った。手には綺麗に装丁された大きな本を持っていた。どうやらアルバムの様だった。先生がおもむろにページを開こうとしたので、私は慌て飲み物を脇にやった。先生は私にお礼の意味で微笑むと、一つのページを大きく開いて、私がよく見える様にひっくり返して見せてくれた。それを身を乗り出す様に覗き込んで見ると、そこには煌びやかなドレスに身を包み、ホールの壇上に一つだけ置かれたピアノに向かって、一心不乱に弾き込んでいる一人の少女の姿があった。その一枚の写真をジッとみて居ると、先生はいつの間に淹れたのか、コーヒーを飲みながら言った。

「…その不器用に、全身に力を無駄に入れて、余裕も無く厳しい表情で弾いてるのが、私よ。小四のね」

「…へぇー」

先生は自嘲気味に紹介してくれたが、まず私は写真の女の子が小四だという事実に驚かされていた。…小四?いやいや、少なくとも中学生…いや高校生くらいにも見える。顔付きは今と然程変わらなかった。

慌てて付け加えれば、当時の先生が老けていた訳ではなく、むしろ今の先生が老けなさ過ぎるだけの事だ。

そう。動画じゃ無い、動かない静止画にもかかわらず、その写真からは躍動する両腕両手をはっきり感じ取れ、今にも動き出しそうに思えるのと同時に、何とも言えぬ、大人の女性でも中々身に付けられていない色香を、写真からこの少女は醸し出していたのだ。一口に言えば、”完成”されてる作品を見ているかの様だった。

私があまりにも凝視していたので、先生は少々照れていた。

「…もーう、そんなにジッと見られたら恥ずかしいわ。…でね」

先生は一つページを捲った。そしてその中の一枚に、指を指した。それはどうやら表彰式の写真らしく、先生の胸には金メダルの様な物が掛けられ、両手にはトロフィーを抱えていた。そして同じ写真の中に、胸に銀メダルを提げて、先生のよりも一回り小さなトロフィーを抱えた、仏頂ズラの女の子が写っていた。先生よりも少し小柄だった。先生の指はゆっくりと、その女の子の顔に移動した。

「…その子とね、このコンクールで初めて出会ったの」

先生の声は、郷愁を含む穏やかさに満ちていた。

「…このコンクールはね、結構歴史があるもので、一番古いんじゃなかったかなぁ…あ、いや、それはともかく、全国規模でやってるヤツでね?北海道から九州沖縄まで、全国津々浦々同年代の子供達がしのぎを削り合いながら、決勝まで上り詰めていくの。…でね、この子は関西の地方予選から勝ち上がって来た子なのよ。決勝は東京の晴海にあるホールで成されたんだけど、そこの楽屋で初めて出逢ったの。…第一印象は、最悪だったなぁー」

先生が苦笑まじりに言うので、思わず「何でですか?」と口を挟んでしまった。

すると先生は、今度は意地悪く笑いながら答えた。

「…決勝はね、全国各地から一人ずつしか出れないから、人数少なくてね、用意された楽屋が一つだけで、そこで参加者十人くらいが一緒にいるのよ。それでね、各自各々本番に向けて色々と準備をしていたの。私も予め提出していた曲目を、楽譜を見つつ最終確認をしていたら、ふと私の側に立つ人がいたの。顔を上げるとそこにいたのが…」

先生は仏頂面の女の子の顔を、指でトントン叩いた。

「この女の子だったのよ。『…何?』私は戸惑いつつ聞いたわ。まさか本番前に、他の出場者に声をかけられるなんて、思っても見なかった事だったから、自分でもちょっとツンとした態度で接しちゃったかなってすぐ後悔したけど、でもしょうがないと開き直っていたの。因みにこの子の事は知ってたの。関西方面ではピアノファンからしたら、当時から有名人でね?このコンクール優勝の最有力候補だったの。私も先生にビデオを貰ってね、…ふふ、当時はビデオだったのよ。それを繰り返し見たりしていたから、私の方では知っていたの。他のみんなもそうだったみたいでね、この子が私に話しかけたもんだから、参加者の視線が一斉に私達に向いたの。そんな様子には目もくれずにね、この子いきなり私に冷たい視線を送って来ながら、こう言い放ったの」

先生は腰に手を当てて、ジト目を私に送ってきた。恐らくその子のモノマネなのだろう。

「『…沙恵さん、アンタが何者かは知らないけれど、私絶対に負けないから!』ってね。周りの子達は勿論、私もビックリしていたの。何でこの子は私の名前を知っているのかなってね?…勿論プログラム表とかには、出場者の名前が書かれているから、名前自体は知っていてもおかしくないけど、名前と顔が一致する筈が無かったのよ。…まだ本番前だと言うんで、名札に近いものは、まだ衣装に付けていなかったし。…それを有名人に、しかも下の名前で名指しされるなんて、何が起きたんだろうと呆然とする他無かったわ。でもそれからは話しかけて来なかったから、私も平常心を取り戻して、冷静にコンクールに臨めたんだけどね。…後は端折って言うけど、何と私がこのコンクールで優勝してしまったの。その結果を楽屋のモニターを見つめながら皆で聞いていたんだけれど、その発表があった瞬間、他の出場者たちが私の周りを取り囲んでね、一緒になって喜んでくれたの。あれは嬉しかったなぁ…。『良くやった!』とか何とか、そんな類の言葉をくれていたわ。でもふとね、人の隙間から向こうを見ると、さっきの女の子が呆然としたまま、モニター画面を見つめ続けていたのよ。静かにほっぺに涙を伝わせながらね。…噂で聞いてたんだけれど」

先生は一息つくように一口コーヒーを啜ると、ため息まじりに言った。

「…私に対してしたような態度は、初めてじゃないみたいでね?何かと色んなコンクールに出ては、その時の優勝候補者に近寄っては、挑戦的な暴言をよく吐いていたらしいの。それでいつも優勝しちゃうもんだから、他の常連の参加者からしたら、鼻につくムカつく奴だっていうのが共通認識としてあったようなの。だからあの時、他の参加者達が私の周りを取り囲んだのだって、その子をやっと打ち負かしてくれたっていうだけだったのよ。それを証拠にね?」

先生は暗い表情になった。

「…私がその子の方に視線を向けるとね、私を囲んだ同い年の男女が口々に悪口を言い始めたのよ。…『いつもあんな態度を取っていたから、バチが当たったんだ』とか『いい気味だ』とかね。私は聞いてて、段々イライラしてきたの。勿論そんな態度を取っていた事は知っていたし、それ自体はどうかとも思ったけど、それでも私は一緒になって悪口言おうとは思わなかった。…だって、先生がくれたビデオに映るその子の演奏は、誰よりも洗練されてて、優雅で、私も思わず見惚れてしまうほどだったんだもん」

先生は当時を思い出しているのか、遠い目をしていた。

「…コンクールの演奏だってね、順番が丁度私の一つ前だったんだけど、舞台袖で待っている間、プロのスポーツ選手みたいに準備運動をずっと続けていたの。…ふふ、ドレス姿のままでね。腕だけじゃなくて屈伸したりするもんだから、その度にドレスの裾がめくれるんじゃないかって、私としてはヒヤヒヤ見ていたの。…でもアレは大事な事なのよねぇ。ピアノっていうのは琴音ちゃん、あなたにこんな事一から話す事は無いんだけど、優雅に演奏してるように見せているからそう見られないけど、広義で打弦楽器と言われるくらいなもんで、かなり力や体力のいる楽器でしょ?」

確かに、先生はいつも準備の重要性を説いていた。だから毎回ここに来ると、まず先生と組んで、準備体操を一通り十五分くらいかけてしてから、先生の作った練習曲を弾いてウォームアップをするのだった。

「だからその子のやり方は、かなり理に適っていたのよね。私はそれを見て、『なるほどなぁ』って一人感心してね、その子の出番の間、私もずっと準備運動をしていたのよ。それが今まで続いているって訳!」

先生は私に満面の笑みを向けた。私も静かに笑い返した。

「人一倍努力しているんだから、他の人よりも実力あって当たり前。実際この際だから言うけどね、初めて他の参加者の演奏を聞いたけど…私が言うのもなんだけど、てんでなっていなかったの。演奏自体よりも動きを大きく見せたりするのに躍起になっていたり、何だか格好付けてるだけの演奏ばかりだったのよ。動作大きくって言うのはね、大きく顔で表情を作ったりなんかして、悲壮感を音よりも顔や体全体で、演奏家自身で表現しようとしていたって事なの。…それはともかく、『人一倍努力しているんだから上手いんだという、その当たり前に目を瞑って、普段の態度がキツかったり悪かったりする事を引き合いに出して、貶めようとするなんて愚の骨頂じゃない! 私からしたら、そんなの細かすぎるしどうでもいい事。もしそれが気に食わないんだったら、あの子以上に努力して見せて、実力を追い抜いて見せてから文句を言いなさいよ!』って、私は一人静かに周りを取り囲む子達を睨みながら、心の中で毒づいたの。でね、ふとその中の一人と目が合ったから、その人を無言で押し退けてね、一人で俯いているあの子の元に歩み寄ったの。皆は何事かと私のことを視線で追っていたわ。あの子は当然悪口が聞こえていたみたいで、肩を震わせつつ俯きながら泣いていたわ。これは優勝できなかった悔しさの涙か、自分よりも格下だと思っていた人達に、公然と悪口を言われての悔しさの余りの涙か、もしくは両方か、判別は出来なかったわ。それはともかく、私が近寄ると、涙でくしゃくしゃになった顔を無造作に私に一度向けるとね、目を乱暴にこすりながらソッポを向いたの。私はでも意地になってね、前に回り込んでね…握手を求めたんだ」

先生は私に握手を求める恰好をした。そしてすぐ手を引っ込めると、今度は柔和な笑みを浮かべつつ続けた。

「丁度手をね、俯いているその子の顔の前にくる様に出したから、ゆっくりと顔を上げて私を見たわ。その顔には、一面に驚きと戸惑いを浮かべていたわ。…目をこーんなに見開いてね?」

先生はワザとらしく、指で両目を大きく開かせて見せていた。

「私はそんな様子に構わずにね、手を差し出したまま、ただこう言ったの。『…今回は私が優勝したけれど、私はまだあなたに勝っただなんて思っていないわ。…だからこれからも、お互いに負けない様に頑張って行きましょう?…ね、京子さん?』てね」

先生はここまで言うと、またコーヒーを飲んだ。私はふと今先生が言った、『京子』という名前に引っかかった。聞き覚えがあったからだ。よくある名前と言えばそれまでだが、話の流れ上、もしかしたらという事もあって、先生に聞いてみることにした。

「…先生、その”京子さん”って…」

私がおずおず聞くと、先生はニンマリと意地悪そうに笑いながら、少し勿体つけて答えた。

「…そうよぉ、フルネームは矢野京子っていうの…知ってる?」

知ってるも何も、ピアノをする人からすれば、すごい有名人だった。フランスを中心に活動しているピアニストだった。たまにクラシック雑誌の表紙を飾っていた。演奏力は当然ながら、その雑誌の中のコラムが、ウィットや、フランスに因んで言えば”エスプリ”が効いてて、私はとても好きだった。一つ簡単に例えを言えば、クラシックの雑誌なのに、歯に衣着せぬ物言いで、平気で今の業界批判を延々と書き連ねていたりしていた。まぁこれは、それを載せる事を許す雑誌社の懐の深さを褒めるべきかもしれないけど。

「も、勿論知ってます!…へぇ、先生とそんな繋がりが」

「…ふふ、見直した?」

先生はウィンクして見せながら、悪戯っぽく言った。

「い、いえいえいえいえ!そ、そんな!これとは関係無くっ…」

私は慌てて否定にかかったが、先生が優しく唇にまた指を優しく当ててきたので、黙った。

先生は優しく微笑みつつ、先を続けた。

「でね、さっきの続きだけど、私がそう言ったらあの子ったら、しばらく何を言われたのか分からなかったみたいに呆けてたんだけど、プッと吹き出してね、大笑いをするのを我慢する様に私から顔を逸らして肩を震わしてさ、笑いが収まると私に向き直ってね、まだ涙で顔はクシャクシャだったけど、とびきりの笑顔を私に見せてくれながら、右手を出してくれたの。でね、目だけ薄目を使いつつ、太々しく言って来たの。『…あったりまえでしょ?私だって”今回は”負けを認めてあげなくもないけど、これで終わりじゃないんだからね。…次は返り討ちにしてあげるわ!』そう言うと京子は私の右手を勢い良く掴むと、力強く握手してきたわ。…痛いぐらいにね」

先生は苦笑いで、右手をプラプラさせて見せた。

「私もお返しと、目一杯強く握り返したわ。…もうね、お互いピアノで鍛えあげられていたから、握力が女子にはあるまじきレベルにあったのねぇー…。一分も握り合っていなかったんだろうけど、お互いに根負けして手を離してさ、こうやってプラプラさせてたの。でね、お互いに相手の様子を見ると、示し合わせる事もなく、今度は大声で笑いあったの。…他の子達は、相変わらず呆然と私たちの様子を見ていたけどね」

先生は話している間、今まで私が見たことの無いくらいに、リラックスした笑顔を浮かべていた。私に対してなのか何なのか、それは分からなかったけれど、何か憑き物が落ちた様な表情を浮かべていた。

「…それからね、勿論向こうは…確か神戸だったかな?で、私は東京でしょ?そんなにしょっちゅうは会えなかったけど、当時はお互いに、親に無理を言って携帯を買って貰ってね、それで毎日メールをし合っていたの。…これ言うと、他の人には不思議がられるんだけど、決して繋がりが途切れることは無かったの。…むしろ京子は今日はこんな曲に挑戦しただとか、一々そんな進捗情報を自慢げに送ってきたからね、私も負けじと、今まで以上に練習に打ち込む様になったの。まぁそれからは…何やかんやあって、高校卒業を境に私はドイツ、京子はフランスに”武者修行”に行くことになったの。…で、未だに付き合いが続いているって訳」

先生はそう言うと、言いたい事は言い切ったのか、満足げにコーヒーを味わう様に啜るのだった。私は初め何の話だったか忘れかけていたが、それよりも先生の身の上話をじっくりと聞けて、それはそれで大満足していた。私はそのままにしておく気だったが、先生はアルバムに写る、先程の二人の写真をみると、ハッとした様な表情になり、私に照れ臭そうに話しかけた。

「…まぁ長々と私の身の上話をしてしまったわけだけれども…何が言いたかったかって言うとね?…私は小学校の頃一人ぼっちだった。さっきも言った様に、会話をするぐらいの子はいたけど、あくまで”同級生”止まりで”友達”では無かった。…私はだから、大好きなピアノにのめり込むしか無かったんだけど、こうしてコンクールに出てみて、そこで初めて心から信頼出来る…照れないで堂々と言える”親友”に出会えたの。…もう二十年以上も続くね」

先生は優しい視線をアルバムに落としていた。私も何するでもなく、同じ様に見ていた。

と、不意に先生は私に顔を向けると、少し寂しげな表情を浮かべつつ、口調は柔らかく言った。

「だから話を戻すと、あなたが小学生の時、何度もコンクールに出てみないかって聞いたのはね、勿論その実力を身につけていたからというのもあったんだけど、もう一つの大きな理由は…」

「…え?」

私はボソッと声を出してしまった。先生が不意に、テーブルの上に無造作に置いていた私の手を、優しく上から包む様に触れたからだ。先生の手は、若干ひんやりとしていて、何だか心地良かった。

先生は手をそのままにして、私に薄眼で微笑みかけてきながら言った。

「あなたがもし、当時の私と同じ様に孤独だったとしたら、それを癒してくれる…ううん、同じ様な孤独を抱えている、同じ目標を持つ”同士”の様な人と、出逢えるんじゃないかって思ったのよ。その孤独を癒し分かち合える様な…私達みたいにね?」

先生はまた、視線をアルバムに落とした。

先程はあの、コンクール表彰式の写真に写る京子さんの表情が、仏頂面に見えていたのだが、今こうして先生の話を聞いた後に改めて見てみると、顔が曇っている事は曇っていたが、口元をよく見ると緩んでいるのが分かった。どこか満足げにも見えたのだった。

「でもあなたは違ったみたいね…」

先生は、私から手を離しながら言った。

「あなたは一人なんかじゃ無かった。…あなたは気付かれてないと思っていたかも知れないけど、先生をナメちゃダメよ?…あなたが練習後たまに、どこかへ寄り道してるの知ってたんだから」

そう言う先生は、悪戯っぽく笑っていた。反対に私はドギマギしていた。

何故バレたんだろう?

「…な、何故分かったんですか?」

「…ふっふっふー、それはねー?」

先生はニヤケつつ、人差し指を立てて、ノリノリでそれを左右に揺らしながら答えた。

「玄関先まで送っていたのは知ってると思うけど、実はあなたが道を曲がって姿が見えなくなるまで、見送っていたのよ」

「…え?」

私は思わずまた声を上げてしまった。

考えてみれば、玄関先まで出てきて見送ってくれた先生に手を振ってからは、いつもその後は振り返らずにいたかも知れない。

私はきっと申し訳なさが顔に出ていたのだろう、先生は明るい調子で話しかけてきた。

「別に気にしてないわよー?私が好きでしていただけなんだから!…でね、ある時同じ様に見送っていたら、あなたは曲がる道の辺りで、不意に周りをキョロキョロし出したの。私は何だろうと思ったけど、そのまま何気なく見ていたら、あなたがふと、帰り道と反対方向に曲がって行っちゃったから、なんだか不安になって、慌てて後を追ったのよ」

「…」

私はもう何もリアクションが取れなかった。頭をフル回転していたからだ。

一体いつの事だろう?…もし義一さん家に行く時だったら?…どうしよう。

私が内心混乱している事は、当然知り得ない先生は、呑気な調子で話を続けた。

「そしたら小さな公園に入って行くじゃない。…何の用だろうと、公園の入り口の草陰から中を伺ったら、なんとあなたと同い年くらいの短髪の女の子と、親しげに話しているじゃないの。…ちょっと私がいた場所が遠かったから、話自体は聞き取れなかったけど、あなたが友達と親しげに話しているのを見て…うん、心からホッとしたし、嬉しかったの」

先生はまた私に微笑みかけていた。

「それから私は、そーっとバレない様に後にしたの。…御免なさいね、スパイまがいのことをしてしまって」

「あっ、い、いえ、私は別に…」

先生が突然謝ってきたので、私も慌てて気にしてないと返した。

…そっか。義一さんの事じゃなくて、裕美の事だったかぁ…。そういえば、今だに二人は会ったことないもんね…。

私が義一の事では無かったことにホッとしていると、先生はまた、静かに微笑を顔に湛えながら、話を続けた。

「…でね、それからは…なんと言うかー…そこまで積極的にコンクールに出る事も無いかと思い始めたのよ」

確かに、一時期…そう、言われてみれば裕美に出会ってからは、受験の事もあっただろうけど、受験が終わってからも、コンクールの話を先生からして来なくなっていた。

「…こればかりはねぇ、最後は本人の意志が当然大事だから、私の時とは違うと分かった今、無理して薦める理由も無くなったのよ…。勿論”何故か”急にピアノの練習に、益々熱が入った事には驚いたと同時に嬉しかったけど、それはてっきり、あの藤花ちゃんに良い影響を受けたからだと思っていたから、今日こうしてあなた自身から、コンクールに出たいだなんて言われるなんて、思っても見なかった…」

「…!せ、先生…」

先生はまた目頭を押さえていた。また両目には涙が溜まってきていた。

私は狼狽つつも、その先の言葉を待った。先生は少し照れ臭そうに笑いながら続けた。

「…ふふ、今日はなんか変ねぇー。…私、こんなに涙脆いはずは無かったんだけど…誰かさんが不用意に、嬉しいことを言ってくれたからかな?」

先生は瞼をゴシゴシ擦ったので、目の周りは若干赤みを帯びていた。

「…さて!琴音ちゃん?」

先生は気を取り直す様に明るい声を上げると、今度は普段のレッスン時の様な、真面目な視線を私に向けてきながら言った。

「コンクールに出るのはいいけど…準備やら何やらで大変よ?…瑠美さん達ご両親にも話さなきゃだし。…まだ、この事は話してないんでしょ?」

「は、はい…」

「…だよね。…もしそれで許しが出ても、大体のコンクールは課題曲があったりで、普段私達がしてる様な、好き勝手自由にやってる様には出来ないよ?…どんなに好きじゃ無い曲目でも、完璧に近いくらいに弾けるまで練習をしなくちゃいけない…それに耐える覚悟はある?」

先生は今日一番の強い視線を向けてきた。妥協や逃げを許さない眼差しだった。

私はこの先生の射竦める様な視線が、正直苦手だった。私自身は素直に真正直に生きてるつもりでも、先ほどの義一の件があったりで、隠し事が少なくとも一つあるせいで、”本当に”胸を張れるかと言われれば、怪しい点があるのは否めなかった。それを見抜かれている気にさせられていたからだ。

でも今回ばかりは違った。揺るぎない確かな覚悟だったからだ。元々前にも言った様に、何度も薦められていた時から、心は徐々にだが突き動かされてはいた。それでも後一歩が踏み出せなかった。でもまず裕美に出会い、中学に入ってから藤花、律、意味合いは違うが紫とも出会って、本人達は当然意図なんかしていなかった訳だけど、その普段の姿勢に最後の一押しを貰ったのは確かだった。だからあながち、先生の指摘も見当違いでは無かった。

私はある意味、先生に初めてコンクールに出る様に薦められてから、何年も悩み続けてきたのだ。ここまで熟成された覚悟や想いは、ちょっとやそっとじゃ揺らぐ気がしなかった。

私も同じ様に強く見返しながら、口調もハッキリと答えた。

「…はい!その覚悟も踏まえた上での事です…」

私はおもむろに立ち上がると、テーブルを廻って向かいの先生の前まで行き、深々とお辞儀しながら強い口調でダメ押しした。

「だから、不束な弟子である私ですが、これからもずっと、私にご教授ご鞭撻の程、よろしくお願いします!」

私は目をギュッと強く瞑った。しばらく辺りは沈黙に包まれていた。いや、微かに時計が時を刻む、リスミカルな音だけはしていた。

長く感じたが、おそらく一分も経っていなかっただろう。ふと、先生は何も言わず椅子から立ち上がると、私の肩に手を置いた。

私が思わず顔をあげると、目の前には優しく微笑む先生の顔があった。そして静かに口を開いたのだった。

「…琴音ちゃん、よく言ってくれたね…私は嬉しいよ」

先生は、とても晴れやかな笑顔を見せていたが、ここでふと、意地悪くニヤケつつ、腰に両手を当てながら、若干前傾気味に言った。

「…さて、”不束な弟子”と言うからには、”師匠”としてビシバシしごいていくから、覚悟しなさいよぉー?」

「…!は、はい!…え、えぇっと…し、師匠!」

私が慣れない調子で”師匠”呼びすると、師匠の方でも慣れないのか、照れ臭そうにほっぺを掻きながらボソッと言った。

「…はぁ、私が弟子を持って、師匠なんて呼ばれる様になるなんてねぇー…。京子が聞いたら、爆笑するだろうなぁ」

そう言う師匠はどこか誇らしげで、普段よりも生気に満ちた顔色になっていた。


「さてと…あっちゃあ」

師匠はふと時計を見た。私もつられて見ると、なんと午後の三時に差し掛かろうとする所だった。

「…すっかり時間が経ってしまったわねぇー…。誰かさんが急に決心を露わにするもんだから」

「ふふふ、御免なさい師匠」

私はジト目を送ってくる師匠に、おどけて見せながら返した。この場には、発言がすぐに冗談かどうか分かるくらいの、緩やかな空気が流れていた。

師匠は笑顔で返すと、私と自分のグラスとカップを取ると、流し台の方へ歩みながら言った。

「…さぁーってと!後二時間くらいしかないけど、今日の分の課題は済ませてしまいましょう!…少しでも実力を向上させないとね?」

最後に流し台の方から振り返り、悪戯っぽく目をギュッと瞑りながら言った。

私も満面の笑顔で「はい!」と答えるのだった。


「じゃあ、今からでも間に合うようなコンクールを探しておくから、琴音ちゃん…いや琴音、あなたは今まで通り…ううん、今まで以上に研鑽を積みなさいね?」

「はい!分かりました、師匠!」

私はいつも通り、玄関先まで見送りに出てくれる師匠に向かって、元気に返事をした。

今は夕方の五時を少し過ぎた頃。目の前は車一台通れない様な裏路地だったが、チラホラ家路を急ぐ人々の姿があった。

先生は周囲を見渡しながら照れ臭そうに、ほっぺを掻きつつ苦笑交じりに言った。

「…私も、これから琴音に”師匠”って呼ばれるのに慣れなきゃいけないなぁ」

「…ふふ、早く慣れてくださいよ?し・しょ・う?」

「…もーう、大人をからかうもんじゃありませんよ?」

「すいませーん」

私が平謝りで返すと、師匠はプッと吹き出して笑うので、私もつられて笑った。

そして笑顔で手を振りあうと、私はいつもの様に裏路地から表通りへと向かった。念の為、曲がるところで振り返って見ると、案の定、師匠がまだ腕を組みつつこちらを見ていたので、私は大きく最後に手を振った。百メートルほど離れていたから、ハッキリとは見えなかったが、師匠も笑顔で、胸の前で小さく手を振ってくれていた。私は名残惜しそうにゆっくり表通りに入りながら、見えなくなるまで手を振り続けた。




それから次の週の木曜日の夜。私はお父さん達と食卓を囲んでいた。

あまり詳しくは聞いていないので、ハッキリとは言えないが、私の住む地区の医者というのは木曜日が”休診日”と一般的になっているらしく、病院は別だろうとも思ったが、 お父さんは自主的に休みを取ろうとしている様だった。 とは言っても、全く顔を出さないという訳にもいかないらしく、昼から午後にかけて顔を出していた。だからこうして、夕食時には家族揃うことが出来ていた。

いつも通り、お父さんの号令と共に夕食を摂った。その間ずっと、お母さんが喋り倒しているのも日常通りだった。

そして食事が終わり、お母さんが洗い物をしている間、お父さんはお母さんに注いでもらったビールをチビチビ飲んでいた。私はさっき話した、京子さんがコラムを載せている音楽雑誌の最新号を読んでいた。

「…あ、そうだ。琴音、ちょっといいか?」

「…ん?なーに、お父さん?」

私は雑誌から顔を上げると、お父さんを見た。お父さんは、まだビールが少し残るグラスを弄びつつ続けた。

「…前にもチョロっと言ったと思うが、今度初めてお母さんと”学会旅行”に行ってくるんだけど」

「うん、そんなことも言ってたね」

私は今更感を出しながら返した。

そう。当然これは説明がいるだろう。まぁ、簡単な事だ。要はお父さんは、私が小五の時に院長を引き継いだ訳だが、それからは毎月に一度、”学会旅行”と称して、東京近辺の温泉地やリゾート施設に、一泊から二泊の旅行をしに行っていたのだ。これは私の住む区にある、様々な病院の幹部クラスが総出で参加するというものだった。お父さんはまだ副院長の頃は、そんなのに出席するのは面倒だと、いつも代役を立てていたのだが、流石に院長ともなると”サボる”訳にもいかないというんで、イヤイヤながらも毎回出席していた。その内容を軽く聞いた限りでは、私達の”研修会旅行”や”修学旅行”と大差ない様だった。要は”らしい”建前ありきの、親睦旅行の様だった。それが証拠に、毎度の思い出話は旅館の美味しい食事と、一日中ゴルフをしていたというものだったからだ。

…話を少し戻そう。お父さんがわざわざ”お母さん”の名前を出してきたのには、理由があった。お父さんとご一緒する先生達は、いつも夫人を同伴していたようだった。お父さんもお母さんを同伴したがっていたし、周りの先生達もお母さんの事を知っているというんで、毎回毎回せっつかれていたらしい。因みに何故お母さんの事を、他の病院の幹部達が知っていたかというと、前にチラッと触れたが、たまにお父さんが家に人を呼んでいたという話をしたと思う。それがこの先生達だったのだ。で、毎回毎回お母さんがビシッと着物を着付けて応対していたもんだから、見た目と、品のある所作振る舞いが印象に残っていたらしく、…これは我が母親の事だから恥ずかしいのだけど、お父さんの弁を借りれば”隠れ”お母さんファンが多いという話だった。そのお母さんの話に尾ひれが付いて、瞬く間に区内の医者連中に評判が広まったという事らしい。誰かが着物姿のお母さんの写真を見せたらしく、余計にファン(?)達は、実際に見たい願望に取り憑かれてしまった様だった。

でも暫くは”どうしても”オアズケにならざるを得なかった。何故かというと、お父さんの院長就任と、私の受験とが被ってしまったからだ。お父さんもお母さんを誘う様な真似は、そもそもしなかったが、お母さん自身もその旅行に対して関心を見せなかった。

…受験のことで、私はお母さんを悪く言い過ぎた点もあったかも知れないが、基本的にはお母さんには何も不満など無かったし、それは今でもだ。

同じ様な事を何度も言ってるようだが、お母さんなりに”院長夫人”としての役回りをこなしているだけだという事は、子供ながらに分かっているつもりだ。ただ、理解してあげたくないだけだ。正直私とは何にも関係がないことだからだ。…それは置いといて、自分で私に受験するように仕向けた負い目か、その間は色々なことを我慢してくれていた。これも前に触れた、花火大会に行くことだとか、これは言わなかったが旅行にも行かないことだとかだ。

小学校の時の話を覚えておられる中には、察してくれていた人もいただろう。そう、私達家族は、夏休みや冬休みなどの大型連休中のどこかで、一週間ばかり旅行に行くのが習慣化していた。私も毎回楽しみにしていたが、誰よりも楽しみにしていたのがお母さんだった。大人なのに、子供の私よりも出発一週間前くらいから、口から出る話題は旅行先の話で持ちきりになる程だった。そんなお母さんが、娘の受験の為に大好きな旅行に行かずに我慢してくれていた事には、納得いかない気持ちは残るけれども、素直に感謝をしていた。…まぁ、親なんだから当たり前だろうという、余計な一言は付け加えさせて貰う。

で、漸く私の受験が終わり、お母さんとお父さんの都合が合いだしたのが、今回という事のようだった。わざわざこんな言い方をしたのは、今回だけではなく、これから毎月出来るだけ同伴する様に、お母さんの方でスケジュールを組み直したからだった。お母さんは実家の呉服屋を、たまに手伝っていたが、その都合がついたという話だった。


「ちゃんと一人でお留守番できるか?」

お父さんは字面では心配する父親風に見えるが、これはいわゆる”テンプレート”を言っただけだった。私はそんな事は見え見えだったので、敢えて反発せずに素直に答えた。

「大丈夫だよ。あれからお母さんに炊事、洗濯、お掃除、お片付け、その他諸々をしっかり教えて貰っているし…ね、お母さん?」

「うん、そうねぇー」

洗い物などの片づけが終わったのか、お母さんは日本酒の入ったグラスを手に持ち、こちらに近づいて来るところだった。そして私の隣に座ると、顔はお父さんの方に向け、手で背中をさすってきながら続けた。

「やっぱり私の娘だからかなぁ?物覚えが凄くいいのよ。…凄く勉強熱心だしね?」

「でっしょー?」

私は大袈裟に胸を張って見せた。するとお母さんがクスクス笑い出したので、私も一緒になって笑い返した。お父さんは目を瞑りビールをチビっと飲んだが、表情は緩んでいた。

そう。また話が逸れるようだが、お付き合い願いたい。師匠の所でも話したが、お母さんに色々と教えて貰う上で、それ用にもう一つノートを作っていた。これにも表紙に、色んな色のマジックペンで名前を書いた。”家事指南書”だ。我ながら古臭くて、無駄に格式高くて気に入っている。…別に同意を求めている訳ではないので、感想は胸に秘めといて下さい。

…ごほん。これは師匠の所で話しそびれたが、この何でもノートを作る習慣。これは明らかに義一の影響だった。ご存知のように初めは当然、会話をしながらメモを取ることからだった。それは今でも続けているし、そのメモはとっといてあるので、もう大分手元には、真っ黒に字で埋め尽くされたメモ帳が、数冊あった。正直かさばるし、置き場所に困るようなら、その内対処をしなくちゃだけれど、今の所は捨てる気が一切起きないのだった。使い切ったメモ帳を覗くたびに、妙な達成感に包まれるのが嬉しいっていうのもあったし、…やっぱり何よりも、あの”宝箱”での義一さんとの濃密な時間の軌跡が記されているのだと思うと、とてもじゃないけど手放す事など考えられなかった。

…また逸れた。話を戻すと、炊事から何から何でもノートに書き付けてあるので、何か困った事があっても、それを見返せば切り抜けられそうだった。料理のレシピまで事細やかに書いていた。


「…この子ったら、私の話している側からノートを取り出して、アレコレ細かく聞いて来るもんだから、私も一から勉強し直しちゃったわよ。…実家のお母さんにも聞いてね?」

「…どうりで、最近、前以上に美味しくなったのか」

お父さんはしみじみと言いながら、お母さんを見た。するとお母さんは少しツンとして見せながら

「…それってあなた、前までは”そんな”でも無かったってことー?」

と語尾を伸ばしながら聞いた。するとお父さんは表情を変えることなく、スパッと言い切った。

「…ん?何を言ってるんだ?お前のご飯が美味しくない訳ないだろう?」

そう言うと、お父さんはまたチビっとビールを飲んだ。お母さんは若干顔を赤らめながら、しどろもどろになっていた。赤いのは日本酒のせいだけではないだろう。

「もーう…、たまーにそういうことを言うんだから…」

お母さんは、お父さんに聞こえるかどうかってくらいの音量でボソッと言うと、日本酒をこれまたチビっと舐めるように飲んだ。隣で聞いていた私は一人クスッとすると、目の前のお茶を二人に合わせるように、チビっとだけ飲んだ。

この場で私がなぜクスッと笑ったかの理由を、知るものはいないだろう。…何故私が両親を見て、義一と絵里を思い出していたかなんて。

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