第22話 聡
「…ごめんっ!今日急にクラブでミーティングが入っちゃって、行かなきゃいけなくなっちゃったの」
「あら、そうなの?…まぁ、そういうことなら仕方ないわね。…また、今度にしましょ?」
「本当にごめーん。じゃあ、また今度ね?」
「えぇ」
ガチャッ
ふぅ…、急に暇になっちゃったなぁ。
今日は日曜日。お父さん達と”学会旅行”について話してから、三日後の事だ。今朝は早起きしてしまい、起きて軽く近所を散歩してから、師匠に出された課題曲の練習を、間に朝食を挟みながら五時間ばかり済ましてしまった。今日は久し振りに休みを貰い、その代わりに宿題を課せられたのだった。それらをこなして終えたのは、十一時半くらいだった。防音を施された練習部屋から出ると、人の気配が無かった。一瞬不審に思ったが、すぐに思い至った。今日お母さんは、私と朝食を摂った後、実家の呉服屋を手伝うために、浅草橋に行っていたのだった。私は私で、午後に裕美と会う約束をしていたのだったが、丁度用意されていた昼食を食べ終え、洗い物をしていると電話が来て、今に至るというわけだった。
…さて、今日はどうしようかしら。
時計を見ると、まだ十二時半だった。今日は裕美と会って、地元をブラブラする予定だったから、オジャンになった後の事は考えていなかった。このまま家で本を読んだりして、のんびり過ごしても良かったのだが、元々外に行く予定を今更変えるのも気持ち悪かったので、当てもなく外に出て見る事にした。
「…いい天気」
私は小さなカバンに最低限の物だけ入れて、身軽な格好で外に出た。十一月も半ばだが、秋晴れと言うには余りにも日差しが強く感じた。夏とまでは当然言わなくても、秋らしいかと言えばそうは言えない、なんとも表現し難い陽気だった。一瞬紫達と会う事も考えたが、みんなそれぞれ離れて住んでいるし、仮に急なお誘いに乗ってきたとしても、私自身が電車を使ってまでは外には行きたくなかった。…まぁ、女心と秋の空はホニャララって言うし、そういうことで納得してもらえませんかね?
…などと心の中で、どうでもいい事に思いを巡らせながら歩いていた。
図書館は?と聞かれそうだが、今日は絵里がシフトに入っていないことを知っていた。確か絵里も今日は、目黒にある実家で、日舞の指導を行なっているはずだった。
この問題、…絵里の実家の日舞教室と、お母さんの行ってるところが同じかどうかということ。これもいつか機会があれば、確認してみたいところだったが、急ぐ話でもないので、しばらく保留しておくつもりだ。
義一の家。…フラッと立ち寄る体で行っても良いんだろうし、義一自身からも遊びに暇つぶしにきて良いと言われているから、行く選択肢もあったけれど、何だか行こうとは思わなかった。ついつい義一の所に行くと、普段漠然と感じている疑問点がフツフツ湧いてきて、それを話したくなってしまうのだ。これは今更言うことではないかも知れないけど。昔絵里に言われた事も影響しているのだろうが、ある程度自分なりに疑問点、その論点を整理しないままに義一の家には、気楽な気持ちでは近寄れなかった。”友達”だというなら気にせず寄っても良いんだろうけど、やはり義一さんは私にとって”友達”であるのと同時に”師”でもある、つまり”師友”だったから、何の心の準備をしないままには、何だか行けなかった。…これがある意味、義一と再会した後、お家に伺う初めの数回の間、まず玄関前で気持ちを落ち着けてからインターフォンを押す時の、小学生の私の心理だったかもしれない。今では合鍵でインターフォンを鳴らさずに、遠慮せずに入るのが習慣化していたが、心境としては何も変わっていないと思う。
だから私は本当に行き場が無かった。仕方なしにブラブラ歩いていると、土手の下に出た。他の同年代の子の場合は知らないが、私はやっぱりこの土手が一番お気に入りだった。考えてみたら、小学生の頃はよく一人でここに来ていたが、間に受験を挟んだりして、そして今は昔以上にピアノに打ち込んでいるもんだから、レッスンが終わると直接家に帰っていたのもあって、正直ここに来るのは久しぶりだった。
土手の上に出て見ると、眼下には休日のせいか、老若男女問わず多くの人々が、思い思いに過ごしているのが見えた。斜面に腰掛けている人も多い。散歩している人もいれば、走っている人、ロードバイクを走らせている人など、言い切れない程だった。グランドでは私と同い年くらいの子達が、白球を追いかけていた。
…そういえば、ヒロは今日土手で練習しているって言ってたなぁ。
私はいつも腰掛けている場所まで行き、ハンカチを軽く敷いてから座った。そしてグランドの方を無心になりながら見ていたのだった。でも、前にも言ったように、そこまで野球に興味がない私は、念のため持って来ていた本をカバンから取り出すと、それを読み始めた。若干陽の光がページに反射して眩しかったが、それ以上に時折吹いてくる涼しい風のおかげで、陽射しの温かみとのバランスがとても気持ち良く、思った以上に集中して読書が出来ていた。
それからどれくらいの時間が経っただろう?私が集中して読んでいると、不意に遠くから私の名前を呼ぶ声がした。一々確かめなくても分かる声だった。ヒロだった。
「おーい、琴音ー!…こんな所で何してんだよ?」
声が遠くでしてからも、無視して本に目を落としていたが、不意にページに影が出来たので、顔を上げざるを得なかった。ヒロは私の脇に斜面に対して、バランスよく立っていた。ユニフォーム姿だった。夏休みに会った時に来ていたのと同じ物だった。胸には中学名がアルファベットで書かれている。スライディングしたりしたからなのか、土埃で汚れていた。肩にはあの時と同じ大きなスポーツバッグを掛けていた。
ヒロは前屈みになると、私の手元を見ながら言った。
「…何だよ、こんな良い天気だっていうのに、わざわざ土手まで来てまで本を読んでいるのかよぉ?」
「…そうよ?むしろ良い天気だから、ここで読んでいるんじゃない。…悪かったら外でなんか読まないわ」
私は何だか非難めいたことを言われたと思ったので、少しつっけんどんに返した。
ヒロは私の言葉には肩を大きく竦めて見せただけで、苦笑を浮かべていたが、私が許可する前に、勝手に隣にドスンと無作法に座った。私は少し体を避けながら、引き気味の表情でヒロを見たが、ヒロはヒロで何も言わず、向こうで流れる川を見ているだけだった。
暫くそのままだったが、私の方が沈黙に耐えられなくなって、思わず話題を振ってしまった。
「…あなたは今日練習だったのね?」
「…ん?あぁ、このあいだ言ったようにな」
ヒロはさも疲れたといったリアクションを取りながら答えた。
「…その格好を見る限り、中学の方みたいだけど、何で今日は土手でやってるのよ?いつもは中学のグランドを使うんでしょ?」
私がそう聞くと、ヒロは良くぞ聞いてくれましたと言いたげに、顔中に不満を満たしながら答えた。
「…そうなんだけれどよぉ、なんかサッカー部がグランドを占拠しててさ。…俺達のスペースが無いってんで、こうして追い出されるようにここで練習してたんだよ」
「…へぇー、そう」
私は言葉少なめに、テンション落として応えた。何度も言うように、正直興味が無いのだから、これ以上に言うべき言葉が見つからなかったからだ。
そんな私の冷たい反応は慣れているヒロは、構わず話を続けた。
「…まっ、俺はこのグランドの方が、ガキの頃から使い慣れているから、全然構わないんだけどな」
「そう言えばそうね」
私は流石に悪いと思い、取り敢えず軽く笑顔を作って見せて上げながら応えた。
それからも、おそらく数分くらいなもんだろうが、そのまま目の前の景色を見つつ、とりとめのない会話をしていた。その合間合間に私たちの後ろを通る人に、ヒロが話し掛けられていた。私もチラッと振り向いて見ると、今ヒロが来ているユニフォームと同じものを着ていた。どうやら同じ中学の部活動仲間らしい。
ヒロは私と一緒にいるところを、色んな言い方でからかわれていた。「彼女か?」とかまぁ、そんな類のものだ。私は取り敢えず、ヒロの友達だからってんで、否定もせずただ挨拶のつもりで小さく頷いただけだった。それがまた誤解の元だったらしい。私の反応がどうやら、ヒロの彼女と肯定したように受け取られたらしかった。ヒロはその度に顔を赤らめながらムキになって否定していたが、『みんなコイツの見た目に騙されてるけど、こんな見た目をしてても中身は”チンチクリン”なんだぞ?誰がこんなメンドくさいチンチクリンを…って、イテテテ!』『誰がチンチクリンよ』と、そうヒロが言った時だけは、わざわざ立ち上がってヒロの耳たぶを引っ張ったのだった。そんな私達の様子を見ると、その部員達は微笑みをこちらに向けてきながら、川の反対側を降りて行ってしまったのだった。
「…行ってしまったわね」
私はまた綺麗にハンカチを引き直してから座った。ヒロもまた私の隣に座った。
「…はぁ、明日学校でちゃーんと誤解と解かなきゃな」
ヒロはため息交じりに言った。私はその様子が可笑しかったので、クスッと笑った。ヒロもしょうがないと、帽子を取り、坊主頭を掻きながら笑うのだった。
とその時、ヒロは私の背後に視線を流すと、スクッと立ち上がり深くお辞儀をした。
「あっ!監督。お疲れ様です!」
「おう!…何だ森田、まだここにいたのか?」
「…監督?」
私はヒロの方を見つつ、その向こうの人物を見た。日差しを背にしていたので、若干逆光になっており、すぐにはその人物の様相は把握出来なかったが、徐々に目が慣れた。
その人物も、ヒロと同じユニフォームに身を包んでいたが、お腹が前にせり出していて、如何にもな中年男性の体型だった。頭は角刈りにしていて、顔含む肌の露出している部分は、こんがりと良く日に焼けていた。私はふと、この人物を見た時妙な懐かしさを覚えていた。見た目は大分膨よかになっていたが、声の感じなど昔と何も変わっていなかった。
しかし、まさか…
と思っていると、その人物から私に声をかけてきた。
「…って、あれ?…お前、まさか…琴音か?」
男は逆光でも分かる程、驚きの表情を浮かべていた。私もゆっくりと立ち上がり、お尻を軽く叩きながら、戸惑いつつも返した。
「もしかして…聡おじさん?」
すると男は満面の笑みを浮かべながら、私の近くに歩み寄って来た。
そして私の両肩に手をかけると、明るい調子で言った。
「…しばらく見ねぇ間に、大っきくなったなぁー、琴音」
「…久しぶり、おじさん」
私も何とか笑みを作りながら応じた。
…流石に覚えておられる人は、いないかも知れない。私ですら、我ながらよく思い出せたと感心していたくらいだった。このおじさんはそう、私が小二の頃、直接は会った事のないお爺ちゃんの七周忌の時に、お寺で会った人だ。あの時のお父さんの紹介をそのまま引用すれば、お爺ちゃんの妹さんの息子だという話だった。つまりはお父さん、そして義一にとっての従兄弟となる。あの法事以来、一度も会っていなかったが、こうして不意打ちのように再会しても、おじさんの身に付けている従来のキャラの濃さのおかげか、見た瞬間と言っていいくらいに、すぐ思い出せた。
聡はニコニコしっ放しのまま、今度は私の肩を強めに叩きながら、愉快そうに言った。
「はははは!久しぶりってもんじゃねぇよぉ。そうだなぁ…どんくらいだ?」
とぼけたことを聞いてきたので、私はジト目を向けて見せながら、呆れた調子で答えた。
「…もーう、自分で振ったんだから、ちゃんと答えてよ?えーっとねぇ…私がまだ二年生の時だったから…大体五年くらい?…かなぁ?」
「…何だよ、生意気なことを言う割には、お前だってハッキリしたこと言えてねぇじゃねぇか」
そういう聡の顔は先ほどから変わらない。私は何も返さずクスクス笑うだけだった。
「…お、おい琴音」
「え?」
私達のやり取りを、ヒロは呆然としながら側で見ているだけだったが、私の隣にピタッと着くと、聡と私の顔を交互に見比べながら聞いてきた。
「お、お前って、監督と知り合いなのか?」
「…知り合いっていうか」
私は聡との関係性を、軽く掻い摘んで説明した。その間見る見るうちに、ヒロは目ん玉を大きく見開かせていった。よっぽど驚いていた様子だった。
説明し終えると、相変わらずヒロは私達二人の顔を見比べつつ言った。
「…はぁー、世間は狭いなぁ。まさか監督とお前が親戚同士だったなんてよ」
「はははは!それを言うなら森田…」
聡はヒロを見ると、意地悪くニヤケ顔を作りながら返した。
「俺からしたら、お前と琴音が仲良しだという方が、世間が狭いというもんだけどな?」
「仲良しではないよ」「仲良しなんかではありません!」
私とヒロは同時に、似たようなセリフで答えた。その後すぐ私達は顔を見合わせて、薄目を向け合っていたが、その様子を聡は愉快だという調子で豪快に笑っていたのだった。
「…はぁーあ、さてと!お二人さん、そろそろ帰るか?」
「え?今何時?」
私が慌ててスマホを取り出そうとした。今日は腕時計を身に付けては来なかったのだ。
すると聡は自分の腕にしていた時計を見ると、すぐに答えてくれた。
「今か?今はぁ…昼の十四時を回った所だな」
「あ、そうなの?うーん…」
私は腕を組み少し考え込んだ。まだ家に帰るには早過ぎると感じていたからだ。
どうしよう…。折角おじさんに久し振りに会えたんだから、このまま帰り道一緒にしてもいいんだけど…早過ぎるしなぁ
などと考えていると、聡は私の顔を覗き込むようにしながら聞いてきた。
「…ん?何だよ?この後何か用事でもあんのか?」
「…え?あ、いや…用事なんかないけどー…」
私がまだウジウジしているのを見て、聡はフゥーっと長く溜息をついてから、私に向かって優しい笑顔を見せながら聞いてきた。
「…じゃあー、何だ…アレだ、この後用事がないんだったらよ、琴音、お前これからちょっと食事に付き合え!」
「…へ?」
我ながら間の抜けた声が出た。私がなおキョトンとしていたが、聡は構わず続けた。
「何しろ五年ぶりだからなぁー。すっかりおっさんの俺の五年は、大した変化なんぞ起きないが、お前はすっかり大人…いや、”大人っぽく”なりやがったからよぉ。この五年間、どんな経験を積んで、どんな出会いがあって、どんな友達が出来たのか話してくれよ?」
言い終えると、聡は年に似合わない様な少年の様な笑顔を私に向けてきた。それによって私の戸惑いの感情は、吹き飛ばされた様だ。
「…うん、じゃあそうする。…お食事に付き合ってあげるわ」
私はワザと高飛車に返した。
「…お前がこの五年間で、どうしてそんなに小生意気な小娘に育ったのかも聞かねぇとな?」
聡は苦笑まじりに返してきた。私はまた微笑み返すだけだった。
「…ねぇ監督ー、…俺は?」
ヒロは今までのやり取りをおとなしく黙って聞いてきたが、我慢出来なくなったのか、自分の顔に人さし指を向けながら、期待に満ちた表情を浮かべつつ聞いていた。
すると聡は帽子の上からヒロの頭を掴むと、乱暴に帽子ごと撫で回しながら笑顔で答えた。
「…馬鹿野郎、今日は姪っ子と久しぶりの再会なんだぞぉー?そんな感動場面に水を差すんじゃねぇ。…今日のところは大人しく帰りな?」
「…はーい」
ヒロはブー垂れながら、唇を尖らしつつ答えた。聡はヒロの頭から手を離すと、私にした様に、ヒロの顔を覗き込みながら後を付け加えた。
「…それによ、他の部員にはしないで、お前一人にする訳にもいかねぇだろ?だから、今日の所は我慢しな?」
そう言うと、聡はヒロの返事を聞かずにドンドン歩いて行ってしまった。私とヒロは顔を一度見合わせると、何も言わないまま後を追ったのだった。
「…へぇー、お前ら小一からの付き合いなのか?」
聡は隣を歩く、私とヒロの方を見ながら聞いてきた。
ここは土手を下りてから、駅まで一直線に続く通り上だった。あの花火大会の時、ズラッと屋台が並んでいた通りだ。今は当然何も店は出ていなかったが、珍しく車の通りも少なかった。今歩いている所は、歩道らしい歩道が無く、白線が引かれているだけで、普段はあまり歩きたくない通りだった。車の往来に気をつけていないと、いけなかったからだ。もう少し駅に近づいていけば、整備された歩道が出てくる。そんな通りを歩いていた。
「…まぁね。腐れ縁ってやつよ」
私はヒロの方をチラッと見てから答えた。するとすかさずヒロが私に反応してきた。
「…何だよぉ、腐ってんのか?まだまだ発酵段階じゃねぇのかよ?」
…ふーん、中々頭を使った様な、捻りのある返しをしてきたわね?
などと意味なく感心しながらも、私からもすかさずジト目を向けながら返した。
「…そんな段階はとっくに過ぎてるでしょ?…それに念の為に言ってあげるけど、発酵食品だって、ちゃーんと腐るのよ?」
と噛んで含める様に言うと、ヒロはツンと私から視線を逸らしながら応えた。
「分かってるわ、そんぐらい!…馬鹿にしやがってぇー」
「…プッ、あははは!」
私とヒロのクダラナイやり取りを見ていた聡は、吹き出すと大きく笑っていた。
「…あーあ、何だお前ら、本当に仲が良いんだなぁー。…まるで夫婦漫才を見ているみたいだ」
「…誰と誰が夫婦よ、まったく」
「そ、そ、そうですよ監督!誰がこんなチンチクリンと、ふ、夫婦なんて…」
「…あなた、私を”チンチクリン”呼ばわりするの、定着したり誰かにさせたりしたら許さないからね?」
私はヒロを思いっきり睨みながら、私なりにドスを利かせつつ言った。この時には、ヒロが無駄にオロオロしながら、聡に反応した事には突っ込まなかった。
「私達の事よりさ、おじさん?」
「ん?」
私はさっきから気になっている事を聞いてみた。
「おじさんこそ、ヒロとはどういう関係なの?」
私がそう言うと、聡とヒロは一瞬顔を見合わせた。そしておじさんは、途端に意地悪な笑みを顔に浮かべると、ねちっこく言ってきた。
「…なーんだ、まだ気づいていなかったのか?”アイツ”がお前の事を仕切りに褒めるもんだから、何も言わなくても察すると思ったのによ」
…あいつ?
「…ねぇおじさん、アイツって一体誰の事を言ってるの?」
私はすかさず聞いてみたが、聡は微笑み返すだけで、それには答えてくれなかった。代わりにニヤケつつ、ヒロの方を見ながら言った。
「…このユニフォームを見てもわからねぇか?森田と同じユニフォームを着てて、”監督”だなんて呼ばれてるんだから、わかりそうなもんだけどなぁー」
中々勿体ぶって、種明かしをしてくれなかったが、私だって初めからそれぐらいは察してはいた。ただそれを、聡の口から聞きたかっただけだったのだ。
まぁ、そんなことを一々言っても詮無いことなので、そのまま何食わぬ顔で返す事にした。
「…もしかしておじさんって、中学校の先生なの?」
私が”ワザと”辿々しく聞くと、聡は満面の笑みをたたえながら、一度大きく頷き、明るい口調で答えた。
「…そう!そのとおーーり!やっと分かったか」
聡はやれやれという風に、顔を横に振りながら言ったので、流石の私もソレをスルー出来る程大人では無かっから、少し意地になりながら返したのだった。
「…初めから分かっていたけど、おじさんと”学校の先生”が繋がらなかっただけだよ」
私は少し意地悪めに言い切った。すると聡は帽子を脱ぎ、頭をポリポリ掻きながら苦笑交じりに返した。
「…それを言われるとキッツいなぁー。中々痛い所を突いてきやがる」
おじさんは、まるでそう見えない風で答えていた。顔はにやけっぱなしだ。
「俺は森田の通っている”第二中”で、現代文を教えてるんだ。まぁ、古文、漢文も教えてはいるんだが、割り振り的には現代文を中心にだ。そんで…」
「わっ!」
ヒロは、不意に聡に肩を組まれたので、思わず声を上げていた。聡はそのまま私に視線を流してきながら続けた。
「コイツのクラスを担任しているんだ。なっ、森田?」
「…相変わらず、スキンシップ過剰なんだからなぁー、”片桐”先生は」
そう言うヒロの顔は苦笑いだった。
「…?…あっ」
そうか。いや、何で私と名字が、親戚同士なのに違うのかと一瞬訝ったが、考えてみなくてもすぐ分かることだった。お爺ちゃんの娘が親ということは、どこかに嫁いで産まれたのが聡という訳で、名字が違うのは不思議じゃないどころか、よっぽどの偶然が無い限りは寧ろあり得なかった。
そんな事を、ふと考えていると、聡は私が声を上げたのに気付いて、笑顔のまま私に聞いてきた。
「…ん?どうした琴音?」
「…え?う、ううん、何でも無いよ!」
私は誤魔化す様に、明るい声で応えた。
聡は納得いかない表情だったが、フンッと短く息を吐くと、何事も無かったかの様に、それからは学校でのヒロの事を話してくれた。ヒロはその間ずっと、居心地悪そうな表情を浮かべて、話を聞いていないフリをしていた。私はその様子を愉快げに横目で見つつ、聡の話を聞いていたのだった。
「じゃあ監督、俺はここで」
「おう、また明日なー!気をつけて帰れよー!」
ここはヒロの家の玄関先だ。前にも何度か言ったが、ヒロの家は駅から程近くにあり、丁度土手から駅までの道なりの途上にあった。
ヒロは自宅玄関前で帽子を一旦脱ぎ、頭を深く下げてお辞儀していた。先程は”片桐先生”呼びをしていたのに、また”監督”に戻っていた。
そしてふと私の方を見ると、何気ない、いつもの調子で声をかけてきた。
「じゃあ琴音、お前もまたな!」
「えぇ、またね」
私が素っ気なく返し、聡を促して行こうとすると、不意にヒロは、思いっきり悪戯っ子な笑みを浮かべつつ言い放った。
「…あんま監督に”なんでなんで攻撃”をして、困らせるんじゃねぇぞ?…”チンチクリンなお姫様”?」
「…あ?あなた今何か言っ…」
「じゃあなー!」
「あっ!ちょ、ちょっと…」
バタン
ヒロは私が文句を言う前に、家の中にスルリと逃げ込むと、バタンとドアを閉めてしまった。
私は少し呆然と閉められたドアを見ていたが、大きくため息を吐きつつボヤいた。
「…はぁーー、まったく、やってくれるわね…今度会ったら、タダじゃおかないから」
「…やっぱりお前ら、仲が良いんだな」
一部始終を見ていた聡は、口元にゲンコツを当てつつ、笑いを堪える様にしながら言った。
「…おじさんねぇ、”仮にも”教師をやっているんだったら、今の私達を見て、仲が良いとは言えないと思うんだけど?」
私は恨めしそうに、聡にジト目を送りながら言った。
すると聡はまた帽子を脱ぎ頭を?きつつ、苦笑を浮かべながら返した。
「…本当、アイツの言う通り、向こうっ気の強いガキに育っちまったもんだなぁ…え?お姫様?」
「…」
聡がまた謎の”アイツ”というワードを出してきたので、頭ではそっちが気になって仕方がなかったが、口からは全く違う言葉が出てきた。
「…いくらおじさんでも、”お姫様”呼びは許さないからね?」
私はなるべく、ドスを利かす事を意識しながら言った。
「あははは!悪い悪い!まぁ、いつまでもここで立ち話は何だし、そろそろ行くか?」
聡は疑問形を向けてきたにも関わらず、私の返答を聞く前にどんどん先へと歩いてしまった。
「…はぁーあ、まったくー…。しょうがないんだからぁ」
仕方がないので、私も苦笑を浮かべつつ、後について行ったのだった。
言っていなかったが、私と聡が向かっていたのは、前に私、義一、絵里とで行った、あの駅中のファミレスだった。そこに向かう途中、聡はさっきの続き、ヒロの学校での話を聞かせてくれた。
野球部では当然レギュラーでは無かったが、あの通り、野球部特製のユニフォームを着れるほどの立ち位置らしかった。私は当然ピンときていなかったが、聡の話し振りから察するに、まだ一年生のペーペーが着れるというのは、ヒロ入れて後一人しかいないみたいだった。どれほどの倍率か分からないが、部員がどんなに少なくても、野球が出来る人数は最低いるはずなので、まぁ…中々といった所の様だった。
聡は監督としてはヒロに期待している風なことは言っていたが、担任としてはもう少し勉学に励んで欲しいと、”何故か”私に訴えてきた。私に言われても困る。私はヒロにとって何者でもない、”ただの小一から続く腐れ縁の幼馴染”だと返した。その返答には、聡はただ単純に、優しく微笑むだけだった。
「…じゃあ、それで」
「では、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
そう言うと、店員さんは一礼してから何処かへ行ってしまった。
聡はメニューを戻しつつ、私に聞いてきた。
「…本当に良いのか、そんなサラダだけで?」
「うん。私実は、お昼済ましてあるもの」
何も遠慮している訳ではなかった。ただ単純に、お腹が空いてなかっただけだった。
「…そっか」
聡は微笑みながら返した。
久し振りの来店だった。もしかしたらこのファミレスに来たのは、あの卒業式以来かも知れない。…そう聞くと、まだ一年も経っていないから、そんなでもないと思われるかも知れないけど、そもそも私達家族は、誤解を恐れずに言えば、ファミレスとは縁が遠かった。何か食べに行くかと家族間で話が出ても、選択肢にファミレスが出てこないのだ。何もお高く止まっていた訳ではないだろうが、事実としてそうだった。そんな中でも、このファミレスは例外として、思入れが深かった。勿論卒業式の時に来たからでは無い。たった一度とはいえ、義一達三人で来たという事。絵里と会話した内容が濃かった故だった。…もし叶うなら、もう一度このファミレスに、三人で来たいと密かに思っていた。
「…お待たせしました」
先ほど注文を取りに来た店員さんが、商品名を言いながら私の前にサラダを置いた。そして間髪入れずに、聡の頼んだ鉄火丼が出て来た。それを聡の前に置くと、注文が以上かを聞いてきたので、聡が応じると、店員さんは伝票を置いて帰って行った。
「…さーて、じゃあ頂きまーす!」
「…頂きます」
聡は明るい声で挨拶すると、鉄火丼をかき込む様に、ハイペースで平らげていった。私はその様子を、サラダにフォークを刺したのを忘れたまま見ていたのだった。気持ちの良いほどの食べっぷりだった。そして私が何口か食べるか食べないかというくらいに、聡はドンブリを、ご飯粒残さずに綺麗に完食した。そして今は味わう様に、味噌汁を飲んでいる。
「…ふー、こんなファミレスでも、鉄火丼は何故か美味いんだよなぁー。俺の舌に合ってんのかな?」
聡は私が聞いてもいないのに、鉄火丼の感想を言ってきた。そういう言い方されたら、聞いてあげない訳にもいかなかった。
「…おじさんはいつもファミレスに来ると、鉄火丼を頼むの?」
私がそう聞くと、聡は味噌汁の入ったお椀を一度置いて笑顔で答えた。
「あぁ、そうさ。普通に考えりゃ、こんなナマモノ、こういうチェーン店で頼むのは地雷に見えんだけどよ、何故かどこで食べても、そこそこに食えるんだよなぁー」
「…ふーん」
聞いといてなんだが、やはり特段興味があった訳では無かったので、軽く流した。
すると聡は残りの味噌汁を一気に飲み干すと、ニヤニヤしながら私に振ってきた。
「…ま、お前んとこみたいな良い所の奴等は、こんな事は知らないんだろうけどな」
「…」
普通に聞いたら、かなりの嫌味を含む言い方だったが、何となく久し振りの再会とはいえ、あのお寺の情景を段々と思い出してきており、これは私なりの観察による分析だが、聡自身、私のお父さん含む”望月家”の雰囲気に、良い印象を持っていない様に見受けられていた。なので、この時点ではまだハッキリと確信した訳では無かったが、恐らく私と聡の心情は、同じくしているんじゃないかと推測していた。
だから私は、それに対して嫌な顔をせずに淡々と返したのだった。
「…うん。確かにあまりお父さんとお母さんとは、こういうところに来ないから」
「やっぱりそうかい」
聡も自分で嫌味を言った自覚が無いのか、私に合わせる様に淡々と言ったのだった。
「…さてと」
聡は空になった私のお皿を見ると、視線をドリンクバーの方へ流した。
「やっと飲み物取りに行けるな?」
聡は私に、出来もしないのにウィンク紛いのことをしてきた。
「…ふふ、そうだね」
私も笑顔で応えた。
注文を取ってもらった後、早速飲み物を取りに行こうとしたら、何やら大学生くらいの集団で渋滞していて、とてもじゃないが、その中に入って行く気が起きなかった。聡を見ると、どうやら気持ちは同じな様で、苦笑いを浮かべていた。
私のサラダが来る間、軽く言っていたが、もしただイタズラに屯しているだけだったら、注意しに行くつもりだったが、ただ単純に人数が多すぎて、うまいこと流れなかっただけだと見て、押しとどまった様だった。それでも私には、『…しっかし、あんだけ大きくなって、あんなに非効率にしか動けないのは、色々と問題ではあるけどな』とボヤいたので、私はただ笑顔で頷いて、同意の意を示したのだった。
それから私は数あるティーパックの内からダージリンを、聡は単純にホットコーヒーを取ってきた。
お互い席に着くと、何も言わずに各々一口飲んだ。そしてこれまた同じ様に一息つくと、まず聡が私のカップを見ながら言った。
「…しっかし、当たり前だけど、月日が経てば変わるもんだなぁー。お前に対する一つの記憶として、あのお寺で不味そうにお茶を飲んでいたってのがあったが、結構すすんで今ではお茶を飲んでいるらしいじゃねぇか?」
「…え?…あぁ、うん、確かに昔は苦手だったけど、今じゃこの渋味みたいのが好きになっちゃったんだよねぇ…」
と私は記憶を手繰る様に応えた。が、その前に引っ掛かった…というか、先程より気になっている事を含めて、聞いてみることにした。
「…ねぇ、おじさん?」
「ん?」
聡はコーヒーに息を吹きかけつつ言った。
「何だよ?」
「…あのさぁ、”アイツ”って誰のこと?」
「…」
聡は答えてくれなかったが、私は構わず続けた。
「さっき聞いても答えてくれなかったけど、やっぱり気になるよ。…その人って誰なの?何で私のことを知ってるの?」
私は畳み掛けるように聞いた。そのまま先は喋らず、聡の顔をまっすぐ見つめていた。
肝心の聡はおもむろに腕を組むと、何やら考えているポーズを取っていたが、急にパッと目を開けると、私に人懐っこい笑顔を向けてきながら、明るい調子で話しかけた。
「…普通のガキだったら、そのまま流してしまうってのに、アイツの言う通り、お前はちゃーんと覚えていて、疑問をそのままにしとかないんだな。…ウンウン、感心感心!」
と一人満足げに頷いているので、私は焦ったそうに先を促した。
「もーう…そういうのは良いから、早く教えてよ。…誰なの?」
「…誰ってお前、…もう気づいているだろ?」
聡はそう言うと、私にニヤケ面を晒しながら続けた。
「勿論…義一だよ」
「…」
やっぱり。勿論聡の言う通り、そうじゃないかとは薄々思ってはいたが、正直義一と聡とが容易に繋がらなかった。あのお寺での二人の会話を聞く限り、仲が良いのは分かってはいたが、それはたまに会うという前提の元での話で、あの日の二人しか知らないが、冠婚葬祭以外にも親しくしてるという風景が、思い浮かべられなかった。だから本当の所を確かめたくて、何度も聞いたのだった。
「…やっぱりね。…でも何で二人でそんな話をしていたの?そんなにしょっちゅう話しているの?」
私は攻撃の手を緩めることなく、また質問をした。それでも聡は相変わらず笑顔を絶やさなかった。聡は一口コーヒーを啜ると答えた。
「…あぁ、しょっちゅう会ってるぞ。そうだなぁー…とは言っても月に二、三度といったところか」
「…結構会ってるね?」
私は何気ない調子で返した。でも私は少し複雑な気持ちでいた。何せ義一からこの話を、一度たりとも話してもらった事がなかったからだ。勿論会う度に、その間どんな人に会ってたかなんて、束縛の強いメンドウ臭い彼女じゃないのだから、一々報告する必要は無いのはそうなのだが、何だか…うん、複雑だった。
そんな私の心中を知る由もない聡は、もう私から聞かなくてもツラツラと話し続けていた。
「お前の親父とは本当に会わなくなっちゃったけどな。義一と会うとよ、ここ数年はずっとお前の話ばかりだよ」
「…へぇー」
私はなるべく声のトーンを変えないように気を付けながら答えた。さっきまでの複雑な感情、それは勿論今も変わらないのだが、何だか義一が私の知らない所で自分の話をしてくれていると知っただけで、我ながら単純だと思うが、嬉しく思い少し心が軽くなっていくのを感じていた。
「…例えばどんな話?」
「そうだなぁ…」
聡は顎に手を当てると、思い出すように目を瞑っていたが、すぐに目をまた開けて、笑みを浮かべながら答えた。
「もう色々だよ。お前に下の名前で呼ばせてるとかな。…まぁ正直初めて聞いた時は引いたが、理由を聞いたら、まぁ…変わり者同士、それで良いのかなって納得したよ。後は…なんだ、お前に色んな本を貸してあげてるって話だとかな。…そうそう、最近で言えばお前にドーデの本を貸したってんで、その話になったんだが、義一が『昔教科書で読んだよねぇ』なんて懐かしがっていたからよ、『…すべてかどうか知らんが、今はもう教科書にないぞ』と教えてやったんだ。アイツ…笑っていたが、寂しそうにしてたなぁ」
聡はそうしみじみと言うと、またコーヒーを啜っていた。
…なるほど。これもまさかとは思っていたが、あの情報源はおじさんだったのか。
私は独り合点していたが、これを黙っているのもなんだと思い、そのまま口にした。
「…そうか、前に義一さんがその事を、先生をしている人に聞いたって教えてくれたけど、その”学校の先生”っていうのが、おじさんの事だったんだね?」
そう言うと、聡は少しハニカミつつ返してきた。
「なんだ?アイツ、そんな事をお前に話していたのか?俺の名前は伏せて?…相変わらずアイツは、変なところに気を回すんだからなぁー…別に俺の名前を伏せとく必要なんぞ無いだろうに」
「…ふふ、確かに」
私は聡の発言に、全面的に同意だと言う意味を込めて、微笑んだ。聡もそれを見て笑い返すのだった。
「他にも色々話してくれたぞ?ピアノが大好きで、いつもウチに来ると弾いてくれるだとか、それに何より…」
聡は先程までのガサツな笑いは潜めて、優しく微笑みつつ、私に指を差しながら続けた。
「…何でも疑問に思ったら、どんな些細な事でも有耶無耶にせずに妥協しないで、しつこい位に質問攻めして来て”くれる”ってな」
聡は点々の所を強調しつつ言った。
「俺と会う度に、この間はコレを聞かれた、アレを聞かれたって愉快げに言うんでな?『…なーんだ、昔のお前と同じじゃねぇか?』って言ったんだ」
「…義一さんはなんて?」
私は待ちきれないような調子で先を促した。聡は表情を変える事なく続けた。
「そしたらな、『…うん、よく似てるんだ。…怖いくらいにね?』ってガキっぽく笑いながら言うんだよ。俺は少し驚いたね」
「え?何で?」
私がすかさず口を挟むと、聡は今度は眉毛を片方だけ上げて見せつつ答えた。
「…アイツはあの通り、いつも感情を表には出さないようなキャラだがよ、アイツが唯一って言っても良い嫌がる事が、誰かと比べられる事なんだ」
「…ふーん」
私は初めて聞いたが、何となく分かる気がしたので、声を漏らす所で止めた。
聡は続けた。
「勿論、ちゃーんと吟味した上で比べられるなら構わないんだが、アイツはああなんだとか、いわゆるレッテルを貼られて片付けられるのが耐えられないって事らしい」
「…私もだな」
私は独り言のように言ったが、聞こえていたらしく、聡は何も言わず微笑んでから先を続けた。
「まぁ俺もアイツの性質は分かっているつもりだから、何も言わなかったが、あまりにそのまま額面通りに受け取るもんだから、驚いたって話さ」
「…ふーん」
私は先ほどと同じ様に、理由の定かではない嬉しさを堪えるために、ワザとツンとした態度で返した。聡はそんな私の事をとっくに見抜いているのだろう、何も言わずに笑顔を私に向けて来るだけだった。
「…しっかし」
聡は空気を入れ替える様に、態度を先程までの”ガサツな”調子に戻しつつ言った。
「まさかあの時会った琴音が、ここまで大きくなるなんてなぁ」
聡はさっきも言ったのに、また同じ事を言った。
「あん時は見るからに”良いとこのお嬢様”って格好していたし…正直、直接会うまでは義一の言う事を信じれなかったんだよ。…こんな質問魔になってるとはな」
「…良かったね?おじさんのクラスに私がいなくて」
私は聡が本気で言っているわけではないのが、久しぶりに会ったというのに分かったので、軽口を叩いて見せる事が出来た。久しぶりに会ったのに、初めからタメ語で話せた点など、これは偏に、聡が纏っている雰囲気に寄る所が大きかったのだろう。久しぶりという感覚を、意識的かどうかは兎も角、感じさせず容易く私の”心の壁”を壊してくれてた様だった。…尤も、あのお寺でのやり取りの時点で、壁が崩れていたと言えばその通りだが。
聡は私の軽口を聞くと、一瞬困った様な表情を見せていたが、すぐに明るい笑顔を見せて返してきた。
「あははは!もしかしたらそうだったかも知れねぇが、お前もアイツと同じで、普段はなるべく質問魔を抑えているんだろ?聞いたぞ?」
聡は何だか、秘密を暴いてやったぞと言わんばかりの笑みを浮かべていた。
私は敢えて”参った”という風に肩を大袈裟に下げて見せた。
「…まぁね。でもね…ただ一つ間違えている点があるわ」
「…ん?何だろう?」
聡は興味深げに、考える表情を作りつつ聞き返してきた。
私は意地悪く思いっきりニヤケて見せつつ答えた。
「…私はあのお寺の時点で、質問魔だったのよ」
「…そういやお前の親父は元気にしてるか?」
あの後一頻り笑い合ったが、ちょうど二人共飲み物が無くなったので、同じ物をお代わりしてまた席に着いた所だ。
「…うん。元気にはしてるよ」
私は普通に答えたつもりだったが、聡には何かが引っかかったらしい。
「…その言い方だと、元気でいるのが不満みたいだぜ?」
「え?あ、あぁ、いやぁ、そんなつもりじゃ…」
私は慌てて訂正しようとしたが、聡の笑い声に遮られてしまった。
「あははは!冗談だ冗談!…そっか、元気にしてるか。…なら良い」
聡はお代わりしたばかりで湯気の立つコーヒーを、ズズッと啜ってから返した。
「うん。おじさんは知ってるか知らないけど、今お父さんは院長していて、色々と毎日忙しくしているよ。…今度学会旅行なるものに、お母さんと連れ立って行くらしいし」
「…そっか、アイツ今や院長先生だもんなぁ」
聡は私の顔を見ていたが、目つきは何処か遠くを見るように、気持ち細めていた。
と、そう言った直後、視線や目つきはそのままに、私に向かってしみじみと言った。
「…しっかし、お前も苦労するなぁ」
「…ん?何の事?」
私も聡に倣って紅茶を飲んでいたので、すぐには答えず、ワンテンポ置いてから聞き返した。
「何って…当然、義一とお前の親父との事さ」
聡は先程までの陽気さとは打って変わって、真面目な表情で言った。
「…」
私が黙ったままでいると、聡はそのまま先を続けるのだった。
「…ほんと、あの二人には困ったもんだよ。…まぁお前も知っているだろうが、一方的に栄一が義一を毛嫌いしているだけなんだが」
不意にお父さんの名前を出したので、一瞬違和感を感じながらも続きを待った。何せ私が知る限り、お父さんの事を下の名前で呼ぶのを、聞いた事がなかったからだ。
私は良い機会だと思い、この数年、ずっと気になっていた、義一にすら詳しく聞けなかった事を聞いてみた。
「…あの二人って、昔から”あぁ”なの?」
「…ん?そうだなぁー…」
聡は言いづらそうに逡巡していたが、ホッペを掻きつつ、苦笑まじりに答えてくれた。
「そうさなぁ…。子供の頃なんかはあそこまででは無かった筈だがな。…うん、義一が中学に上がるか上がらないかって時に、栄一は医大生になったんだが、その頃くらいから栄一の方から毛嫌いし出したんだ」
「…その原因って、おじさん分かる?」
私は好奇心のあまりに暴走しないよう気をつけながら、ゆっくりと言葉を吐いた。
聡は少し首を傾げたが、すぐに表情はそのままに続けた。
「…いやぁ、俺も直接聞いたわけでもないから、”コレ”という風に決め付けは出来ないけども…うん、これはお前の爺ちゃん、つまりあの二人の父ちゃんが俺にふと話してくれたんだがな?」
聡はここで一息入れるように、コーヒーをまた一口だけ啜ると先を続けた。
「何でも中学に入りたての時に、担任に爺さんが呼び出された事が何度かあったらしくてな。この話はその最初の時の話なんだけれどよ、爺さんは何事かとイソイソと学校まで行ったんだ。 そしたら学校の正門前で義一が待ってたみたいなんだ。担任に親父が来るまで待つよう言われたらしい。この日は土曜日だったらしく、授業が午前までだったんだな。みんな生徒が帰って、部活動の生徒以外は校舎にいない状況だったようだ。それで誰もいない義一のクラスに行くとな?その教室の真ん中に、四つの机だけを向かい合わせてくっ付けて、その一方に担任が座っていたらしい。担任は爺さんの顔を見ると、笑顔で丁寧に迎え入れたらしいんだな。で、爺さんと義一は促されるままに担任の向かいに座ったらしい。で、この担任の先生ってのが、まずはってんで、雑談ぽい事を話しだしたらしいんだなぁ。爺さんの病院の事とか。でも爺さんとしては早く聞きたいわけじゃんか。長男はこんな事無かったのに、なぜ次男坊のために呼び出されなきゃいけないってのがさ?」
「うん」
私は無駄な相槌は打つまいと、ごく短く返しただけだった。聡は続けた。
「爺さんは担任の話を遮るように聞いたらしいんだ。『…先生、うちの子が何かしましたか?学校にご迷惑かけるような事を』ってな。…これは爺さんの弁だが、当時の爺さんとしては、晴天の霹靂だったらしい。昔から少々変わった点はあったが、人に迷惑かけたり傷つけたりする様な子では無いと思っていたから、急に呼び出しを食らって、どんな悪さをしたのかと、行きの電車の中ではヒヤヒヤもんだったらしい」
私は聞いてて、ふと前に絵里が私に話してくれたエピソードを思い出した。あの大学での”告白話”だ。多くは言うまい。
「そしたら担任は爺さんの隣に座っていた義一を見ながら、こう言ったらしいんだ。『いえいえ、問題という問題は起こしていませんよ。喧嘩沙汰なども無いですし、普段の学校生活自体は何も問題ありません』」
「…へ?じゃあ何で…あっ」
気付いた時には遅かった。無意識に”なんでちゃん”が起き出してしまったようだ。段々相手に心を開いていくと、気が緩み、ついついこの子が起き出してしまう隙を作ってしまうのだった。 私は慌てて口に手を当てたが、その様子を聡は微笑んで見ていた。
口を挟まれて気を悪くするどころか、何だか”いつもの”といった風で、何も意外に感じていないようだった。
でも少々呆れて見せながら続けた。
「もう少しだから、ちょっとの間黙ってて貰えますか、お姫様?…あははは!そう睨むなよぉ。冗談冗談!…えぇーっと?何だっけ…あぁ、そうそう、まぁ今のお前みたいに、爺さんもそう聞いたんだな。『では何で私は呼び出されたんですか?』ってね。そしたら担任は困り顔を作って答えたらしい」
聡はここで一呼吸置いた。聡自身も困り顔を作っていた。
「『…いやぁ、望月君は授業態度に難がありましてね?…あぁ!いやいや!変に騒いだりして授業を妨害して来るわけではないんです。寧ろそうしてくれた方が対処し易いと言いますか…幾らでも方法はあるのですが、望月君の場合は違うんです』『…と、言いますと?』この辺は爺さんもかなり焦ったかったらしい。何を言いづらそうにしてるんだってな。…まぁ、先に同じ教師の俺が軽く代弁すると、中々そんな義一みたいな生徒はいないから、対処法が分からない。でも自分は教師としてのプライドもある。…そのプライドが高ければ高いほどに、認めたくないんだなぁ…一人の生徒に対応出来ない自分を」
「…」
私は聡と久しぶりに会ったせいか、さっきからずっとあのお寺での事を思い出していた。そして今は、義一との初めての会話の内容を思い出していたのだった。
「それはさておき、その担任はこう答えたらしい。『…望月君は出席番号順で窓際の列に座っているんですが、私だけではなく他の先生の授業中、ふと気付くとずっと窓の外をボーッと見ているんです』てな」
「…それだけ?」
私はふと『…あ、私と同じ様な座り位置だ』などと呑気な事を考えていたが、名字が同じなのだから当たり前(?)だと納得していた。が、その理由を聞くと、思わず声をあげない訳にはいかなかった。聡の方でも苦笑を浮かべている。
「そう、それだけ。爺さんも俺に対して話してくれた時、苦笑いだったよ。…でもな、流石に爺さんはそう言えなかったらしく、仕方なくその場で義一に聞いたらしい。『そうなのか?』って。義一は義一で『うーん…まぁ』って、肯定とも否定とも取れない風に答えるだけだったらしい。その後爺さんはふと、窓の外を見てみたようだ。その学校は都内屈指の国立の進学校だったんだが、校舎はちょっとした高台にあってな? 窓の外には遠くに都心のビル群が見えていたらしい。まぁ見晴らしが悪いとは言わんが、そう何度も見惚れるほどでは無かったらしいんだ。『なーんだ、そんなに見るものも無いのに、うちの子は何を授業中だというのに呆けていたのか?けしからーん!』と、普通の家庭ならそうなったんだろうが、爺さんは違った。爺さんはまぁ当たり前だが、親父としてよーく義一の習性を知り尽くしていた。…いや、それだけではダメだが、決定的なのは、爺さん自体が義一の習性を面白がっているという点だった。で、その習性ってのはな…」
聡はここで一度溜めると、勿体振りながら言った。
「…当時の家の軒先で、よく一人でボーッと何かを見るんでもなく、何時間も飽きもせずに空想に耽っているって事だった」
「…ボーッと何時間も」
私はただ聡が言ったことを、鸚鵡返ししただけだった。何か返した方が良いと思ったからだった。でも頭の中は、まだ写真などで見た事のない、幼少の頃の義一の姿を想像し、その子が日差しの温もりの中、縁側でボーッとしている姿を思い描いていた。
私の呟きをどう解釈したのか、聡は優しく微笑みつつ、先を述べた。
「…そう。昔からそんな義一の姿を見ていたから、担任に言われた時、爺さんとしてはある意味ホッとしたらしい。『なーんだ、そんな事か』ってな」
…私のお父さんだったら、何て思うだろう?
「爺さんに俺は、『何で義一がそんなボーッとふけているのを、そのままにしてたんだ?』って聞いたんだよ。俺はその時には教育実習を済ましていて、来季から今勤めている学校に、国語教師として行くことが決まっていたからな。そしたら爺さんは陽気に笑って言ったんだよ。『…他の子の場合は知らんが、あの子はアレで良いんだよ。アイツはその前に色んな本を読んだりしていて、それからインスピレーションを導き出し、それをただの”思いつき”として終わらせる事をせずに、そこから思索を深めていくんだ。あの土手近くの倉庫、お前も知ってるだろう?あそこに連れて行って、コレクションの蔵書をその場で読んだり、持ち帰ってから読んだりした後は、いつも縁側でボーッとしてたんだ。小学校の頃からな?俺も初めはこの担任の様に少し不安になってな、何を呆けているのかそれとなしに聞いてみたんだ。そしたらさ、急にある本の一部分を暗唱して見せたかと思うと、何やら疑問点があったらしく、俺が質問したってのに、逆に『父さん、ここの部分どう思う?』だなんて聞いてきたんだ。 俺はその時は何とか、それらしい考えを答えられたが、それからだね、…アイツには何か一つの事を、思索し続けられる天分がある。それを俺含む凡人が、他の子と違うからって、邪魔しちゃダメだ。ほっとかなくちゃって思ったんだ』ってな」
ここまで長く、お爺ちゃんの言葉を引用した聡は、また少し温くなったコーヒーを一気に飲み干すと、何も言わずまたお代わりを取りに行った。
その間私は、聡の言葉を何度も反芻していた。
…お爺ちゃん、会えなかったけど、そこまで義一さんの本質をしっかり見抜いて、それを生かしてあげようと苦心してあげてたんだね…。
私は遺影でしか見たことがなかったお爺ちゃんに初めて、畏敬の念を覚えていた。
「よっこいせっと…」
聡が戻ってきたが、カップを二つ持ってきていた。「ほら、お前の分」とぶっきら棒に渡してきたのは、私の分の紅茶だった。私は「ありがとう」と短く言うと、笑顔でそれを受け取った。
「…ふぅ、さてどこまで話したっけかな?…あぁ、そうだ」
聡は手元のカップをテーブルに置くと、また話し始めた。
「それからは教師側と爺さん側とで埒が明かない感じだったから、爺さんが無理やり担任の前で、これから気を付けます的なことを言わせて、その場は落ち着いたらしい」
聡はここまで言うと、またコーヒーで一息付けた。
聡はカップを置くと、ニコリと優しく笑いながら続けた。
「でな、帰りは親子二人仲良く帰ったらしいんだが、流石の義一も申し訳なく思ったのか、口数が少なめだったらしい。それを見た爺さんが焦ったそうに、こう言ったんだとよ。『…お前は気にしなくて良い。…お前はお前の道を行け』ってな」
「…お爺ちゃん」
私は先程も言った様に、すっかりお爺ちゃんの懐の深さ、器の大きさに畏敬の念を禁じ得て無かったから、思わずそう呟いたのだった。
そんな私の様子を微笑ましげに、ただ見ていた聡だったが、ふと意地悪くニヤッと笑うと先を続けた。
「でもな、このセリフには先があるんだよ。そう言った後で爺さんはこう付け加えたんだと。『…ただし、決して妥協なんかするなよ?…やるからには死ぬ物狂いでやれ』ってな」
「…義一さんは 、それに対して何て答えたの?」
「アイツはただ単に頷いただけらしい。でも爺さんはそれで満足と笑顔で頷き返したんだってさ。それからはまた普段通りに戻ったらしいんだが…問題はこの後だ」
聡は見る見るうちに表情を曇らせていった。
「…うん」
私もその表情に導かれる様に、顔を強張らせた。…忘れていなかった。何故こんな話を、前置きとして聡が振っていたのかを。いよいよ核心部分に触れるんだと、身構えた。
聡は少し声のトーンを落としつつ言った。
「二人が家に帰ると、すでに栄一の奴が大学から帰っていたらしい。それでその日に初めて母親から、父親が弟の為に学校に呼び出されていた事を知らされたらしいんだ。…一々言うまでもなく、これも爺さんから聞いた事だから断言出来ないが、どうも栄一は凄く不機嫌だったようだ。それを他所に爺さんが呑気に『ただいま…お、もう帰ってたのか?』なーんて声を掛けるもんだから、そこで栄一の堪忍袋の緒が切れたらしく、色々と捲し立てたらしい。まぁ初めは、主に義一に対してな。『何をしでかしたんだお前は!』ってな具合によ。言われた本人は、何を激昂しているのかと、興味深げにジッと兄貴の顔を見てるだけだったらしい」
…容易に想像が出来る反応だ。
「慌てて爺さんが理由を説明したんだが、そしたら今度は爺さんに刃先が向いた。『…親父、だから俺はいつも言ってたじゃないか!コイツの奇癖を治さない限り、俺達までが同類の変人に見られちまうって!…コイツがこんな変なせいで、家に碌に友達を呼べもしない…』」
「…」
…その頃からなのか。…というか、話ぶりからして、もっと以前からそんな風にお父さんは、義一さんの事を、そう見ていたのか…。
私は酷い哀しみと、後から湧いてきた怒りの感情この二つに包まれながら、聡の話を黙って聞いていた。
「『…こら栄一!いくら何でも実の弟に対して、その言い草はなんだ!』。義一が何も言わないから、代わりにというか、爺さんが栄一に対して怒ったらしいんだが、そしたら栄一の方も後に引けないってんで、『…まーたこれだ!いつもそうやって親父が義一の事を庇って甘やかすから、こんなヘンテコでチンチクリンな奴に育ったんじゃないか!』ってな具合に…まぁ”いつものヤツ”ってんでな、これが初めてではなく、こんな言い争いは昔から何度も親父と栄一の間で繰り広げられていたって事だ」
聡はこれで全て言い終えたと、それを知らせる様に視線を何処かに流しながらコーヒーを啜った。
「…なるほど、つまり」
私はなるべく言葉を吟味しつつ言った。
「お父さんは義一さんに対して、恥ずかしい存在だと認識していて、外聞を気にするあまりに、毛嫌いどころか憎むようにさえなったんだね…?またお爺ちゃんも、そんな弟に対して味方ばかりするから、ある種の嫉妬も混じっていたのかも知れないって事ね?」
私が憶測をつらつら述べている間、聡は私の事を無表情で見つめてきていた。
言い終えると少しの間時間が流れたが、無表情だった顔をフッと緩ませると、聡は柔らかく笑いながら私に声をかけた。
「…まぁそんなモンだろうなぁ。…栄一はガキの頃から、親父が一代で病院をおっ立てたのが誇りだったらしくてな。周りの大人達も頻りに父親を褒めてくるもんで、次第に自分まで偉くなったと勘違い…しちゃっているように見えたなぁ」
聡はキャラに似合わず、少し言いづらそうに辿々しく言った。
…私もお寺で義一さんに初めて会うまで、そこまででは無いとしても、ちょっと同じように勘違いしていたかもなぁ。
「そんなだから、ガキの頃から他人の視線にはかなり敏感だったよ。…どう見られているのかってな。だから…義一みたいな他の子とあらゆる意味で違うのに、人一倍反感を持ったんだろう」
「…」
私は返すべき言葉が見つからなかったので、同意の意を示す為に強く一度頷いたのだった。
聡はそんな私の反応を見て、優しく微笑んでくれたが、その笑みはどこか寂しげだった。自分の意見に私が強く同意した事によって、聡の心に複雑な感情が芽生えていたようだった。
そんな気持ちを払拭するように、聡は途端に底抜けに明るい笑顔を見せたかと思うと
「…今俺が言った事、栄一には内緒だぜ?…こんな話、正直話すのお前が初めてなんだからな」
と、ニヤケ面を私に向けてきつつ言ってきた。私もついさっきまで真剣な表情でいたが、聡が急に表情を和らげたので、合わせて崩した。
そしてこっちは少し呆れた表情を見せつつ、口調も顔に合わせて答えた。
「…流石の私だって、こんな話お父さんに言えるわけないでしょ?…義一さんにすら言い辛いわ」
そう言うと、聡はウンウン強く頷き、満面の笑みを浮かべつつ返した。
「あははは!そりゃそうだ、ちげぇねぇ!」
「…ふふ」
あまりに豪快に笑うので、私もつられて、吹き出し笑うのだった。笑う事で今までの話によって流れた雰囲気を、二人で手分けして洗い流そうとでもするように。
「はぁーあっと…もう四時か」
聡はふと店内に掛けてある時計を見ると呟いた。
「…お前はまだ時間大丈夫か?」
「え?う、うん、まだまだ大丈夫だよ」
私はそう言うと、今は家にお父さんは病院関係で、お母さんは実家に手伝いに行っている話をした。
「そうか。…いや、長く引き留めようってんじゃ無いんだが…あっ、そういえば」
聡はふと何かを閃いたように、ハッとした表情を浮かべた。
「何?」
私がすかさずそう聞くと、聡は少し前に身を乗り出すようにしてきながら聞いてきた。
「いや、さっきお前、何か言っていたよな?親父達が学会旅行に行くとか何とか」
「え?えぇ、確かに言ったけど。…一泊二日の旅行みたいだよ?」
「…一泊二日かぁ。その間は琴音は一人でお留守番か?」
「う、うん…その予定だけど」
聡が何故そんなことを聞いてくるのか、その意図が全く分からなかったので、少し戸惑いつつ答えた。すると聡は腕を組み、話すべきかどうか悩んでいる風だったが、そのまま私を真っ直ぐ見て聞いてきた。
「…琴音、お前…義一のこと、もっと色々と知りたくないか?」
「…え?どういうこと?」
私は思わず聞き返したが、聡は表情を変えずに無言で見つめてくるだけだった。
…知りたくないかって?…そんなの決まっているじゃない。
「…勿論それは…知りたいけど…」
私がそう言うと、聡は途端に無邪気な笑顔を浮かべた。そして明るい調子で聞いてきた。
「そうかそうか!…ちなみに琴音、栄一達のその旅行っていつなんだ?」
「え?えぇっとねぇ…」
私は何故義一のことと、お父さん達の旅行を絡めて言うのか理解が追いつかなかったが、頭の中の記憶を手繰り寄せて答えた。
「確か今月末の最終土曜日と、日曜日の二日間だったと思うよ?」
私がそう答えると、聡はスマホを取り出し、そこで何かを打ち込んでいた。どうやらメモをしていたようだった。
「…よし!じゃあ琴音」
聡はスマホを仕舞いつつ、私に笑顔を向けながら言った。
「この土日…いや、土曜日だな、この日の午後ちょっと空けられるか?」
「へ?…え、えぇ、別に構わない…あっ、でも…」
「ん?何か用事があったか?」
「…うん。えぇっとねぇ…」
私は義一の家に行く予定だった事を話した。土曜日は午前一杯学校に行き、この日は久し振りにレッスンを休みにして貰って、放課後に少し裕美達とブラブラしてから、地元に戻って会いに行くつもりだった。
その旨をそのまま話すと、聡は表情を明るくした。そして御機嫌な調子で私に返してきた。
「…あぁ、じゃあ学校終わって友達と遊んで、その後にアイツん所に行く気だったと?…じゃあ大丈夫だ」
聡はそう言い切ると、またコーヒーをゆっくりと啜った。
「…?何が大丈夫なの?」
私がそう聞くと、聡は悪戯っぽい笑みを顔中に浮かべて、変に勿体付けながら答えた。
「まぁまぁ…それは当日になってからのお楽しみだ。そうだなぁ…四時には家にいるか?」
「よ、四時?…うん、その頃には帰って来てると思うけど」
一体何の話か、この段階ではまだ何一つ分からなかったので、一々躊躇しながら答えるのが精一杯だった。そんな私の様子を面白がりながら、聡は明るく一方的に言うのだった。
「じゃあそんくらいになったら、お前ん家に迎えに行くから待っててくれ。…ちゃーんと、お父さんとお母さんには内緒にしとくんだぞ?」
「え?えぇ、分かったわ」
何も分かっていなかったが、とりあえずそう答えると、聡は満足そうに頷き、何も言わずに荷物を持ち、伝票を持ってレジの方へと歩き出してしまった。
勝手だなぁ…。と私は苦笑いを浮かべつつ、身支度をして、聡の後を追うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます