第7話 絵里さん
あれから何日か経ち、相変わらず私はレッスンの日になると、先生の自宅に行ってピアノを弾いていた。昼の中休みに、お菓子作りを習うのも習慣化してきた。先生は私に
「アレからどうなった?ちゃんとその人に美味しく食べて貰えた?」
と、誰に食べて貰うとか、そんな話は微塵もしていなかったのに、意味深に笑いながら聞いてきたので、私も誤魔化し受け流すのが面倒だったので、当たり障り無く
「えぇ、一応喜んでくれました」
と言うと、頭を手の平でポンポンと軽く叩いてきたのだった。
義一のところに行くのはどうなったかと言うと、チョコブラウニー作ったあの日、家に帰ってメールをしていると、その中で「そう言えば、これからちょっと立て込んでて、十日間くらい忙しいんだ。だから来て貰っても出られないから、しばらくゴメンね」と言ってきた。メール本文に何故かを書かなかったから、”なんでちゃん”としては当然気になったけど、口にするならともかく、言葉を一々打ち込むのが面倒臭かったし、正直それほどのことじゃなかったから、ただ了承と次の約束の旨だけ書いて返信した。
だから今は、もう八月に入って今日で一週間になる。レッスンのない日は家でピアノの課題を練習していたのだが、宿題はどうしようと最初は迷った。義一の家に行く動機付けが、無くなっちゃうんじゃないかと思った。でもこないだの事を思い出し、ヒロが偶然居合わせたから、宿題をせっかく持って行ったのに出来なかったけど、別に持って行くだけでやらなくても良いのかと思い至った。
ふと考えて見たら、ほとんど先生の自宅と自分家にしか今年の夏は過ごしていなかった事を思い出し、気分を変えるためにトートバッグを持ち、毎度の帽子を被って、お母さんに図書館に行く事を伝えて家を出た。今回は嘘も偽りも無かったので、気持ち堂々としていた。
図書館に着き、受付に向かうと、今日は山瀬さんは座っていなかった。考えてみれば当たり前だけれど、いる日もあればいない日もある、当然のことだ。ただ当時、行けば必ず山瀬さんに出くわし、受付の中から明るく挨拶をされていたので、軽く違和感を感じながら、見慣れない司書さんに利用処理をして貰った。
大きな窓から私基準で、適度に離れた長テーブルの端っこ、私がいつも座る特等席に座り、帽子を脱ぎ、バッグの中から宿題と筆記用具を取り出した。準備をしながら、何気無く周りを見渡すと、当時はそこまで分からなかったが、今思えば受験生なのだろう、夏休みなのに制服を着た男女六人くらいが、向かい合って黙々と参考書を広げながら勉強をしていた。その他は取り立てて目を奪うものはなかった。いつも通りだ。
「さて…」
と私は受験生たちに倣ったわけじゃなかったけど、早速宿題をこなし始めた。ここでいきなりこんな事を話すのも何だが、比較的私は夏休みの宿題を早く終わらせる方だったと思う。終業式に貰ったら、もう七月中には全て片付けて、八月に入ったら精々絵日記くらいしかやることがなかった。なのでこうして八月に宿題をしていると言うのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。こんな点でも義一は私に影響を及ぼしていた。やれやれ。
暫く向こうの受験生グループと私の、硬い机とペンがぶつかるカリカリという音、天井から冷気を吹き付けるエアコンの音、受付で司書さんがパソコンの前で鳴らすタイプのカタカタ音、それ以外には物音一つしなかった。防音がしっかりしているのか、ここに来るまで喧しかった蝉の声が、この中では耳を澄ませないと聞こえない程度に抑えられていた。
そろそろ持って来た分が終わるかと思ったその時、突然目の前が真っ暗になった。
「?」
私は突然のことで、声も出さずそのままの体勢でじっとしていた。どうやら誰かに両手で目を覆われたようだ。と、その時、背後から聞き慣れた声が聞こえて来た。
「だーれだっ」
誰だと聞かれても、この場で私にこんな幼稚な事を仕掛けて来るのは、ただ一人しかいない。
「…山瀬さん?」
「ブッブー、ハズレー」
と私の顔から手をどかしながら、声の主は明るい調子で答えた。私が振り向いて見ると、やはり山瀬さんだった。私は呆れた調子で
「何がブッブーですか。山瀬さんじゃないですか」
と言うと、山瀬さんは私の顔の前に人差し指だけを立てて、左右に揺らしながら
「いーや、不正解です。”絵里さん”って答えるのが正解だからね」
「何ですかそれ…」
と益々呆れ返る私を余所に、山瀬さんは私の座る隣の椅子を引くと腰を下ろした。山瀬さんはいつもの調子で話しかけた。
「何々?何してるの?あ、宿題?偉いなー。私は最終日までロクに手をつけない派だったよ」
「そうですか。…ところで」
とさっきはちゃんと見てなかったから気づかなかったが、山瀬さんの姿に違和感を覚えた。
あ、エプロンをしていない。
ふと横目で受付の方を見ると、作業中の司書さんはちゃんとエプロンをしていた。濃いグリーンの地味なやつだ。私は聞いてみた。
「山瀬さんは今日仕事だったんですか?服装普通ですけど?」
と私は言ったが、普通でもなかった。と言うより山瀬さんの普段着を見た事がなかったから、分からなかった。薄いグレーのノースリーブブラウスに、白のデニムを着ていた。ここでの山瀬さんしか知らなかったから、普段のキャラを見る限り、もっとボーイッシュなのを想像していた。露わになった二の腕は程良く引き締まり、連日の真夏日だと言うのに真っ白だった。女で、まだ子供だった私が言っては何だが、色っぽかった。と、私の視線に気づいたのか、山瀬さんはテーブルに肘つき、顔に手を当てながら
「なーに?そんなに私の私服が珍しい?どう?色っぽいでしょ?」
とさっき私が思っていた事と同じ事を言ったので、動揺を悟られまいとワザとつっけんどんに
「知りませんよそんな事。だから何で私服でここにいるんですか?」
と聞くと、山瀬はやれやれと大げさに首を振って見せて
「やれやれ、そんな若いうちから焦っちゃダメよ?大人になれば嫌でも月日は早く流れるんだから」
「いや、だから…」
「あ、シっ…」
私が言いかけたのを慌てて口に指を当てて視線を外したので、私も倣ってその先を見て見ると、向こうで勉強していた受験生達の何人かが、こちらをジッと見ていた。山瀬さんは申し訳ない顔を微笑混じりに作って、手でゴメンと謝った。私も頭をペコっと下げた。今度は極力声を抑えて聞いた。
「で、だから何なんですか?何で…」
と言いかけて私は止めた。山瀬さんがさっきと同じように、片手を顔に当てて、テーブルに肘つきこちらを黙って見ていたが、さっきまでの悪戯っ子の表情は影を潜めて、優しく笑いかけていたからだ。私が続きを喋らないのを、確認していたかのように少し間をおくと
「…なるほどねぇ、確かにアヤツの言ってた通りだわ」
「いやだから…え?アヤツ?」
とまだ最初の疑問が解決する前に、また余計に疑問を湧き上がらせるような事を言ってきた。
辟易としている私の表情を見ると、また山瀬さんの顔に悪戯っ子が戻ってきた。
「そうだよー、最近よくうちの図書館に調べ物に来るの。まぁ、毎年この時期は、いつもそうなんだけれど」
「?山瀬さん、一体何の話を…」
「あ、噂をすれば…」
と私の質問を無視して、山瀬さんは視線を正面玄関に向けた。私も釣られて視線をやると、何とそこには義一さんが、相変わらず真っ白の半袖と青いジーンズ姿で、受付の司書さんと話していた。驚きを隠せない私を尻目に、山瀬さんは大きく義一に向かって手を振った。受験生がコチラを迷惑そうに見ている。ふと義一さんもコチラに気づいたのか、視線をこっちに向けると、ゲッと言ったような表情を作った。と視線を少しズラしたかと思うと、遠くから分かるくらい驚いた表情をしていた。暫く立ち尽くしていたが、観念したかのように頭を掻きながら、私達のいるテーブルに近づいてきた。
向かい側に回ると椅子を引き、腰を下ろしながら気まずそうに私に話しかけた。
「やぁ、琴音ちゃん。奇遇だね?まさかこんな所で会えるとは思わなかったよ」
「う、うん私も」
「ちょっとー、こんなところって何よー」
と山瀬さんは、非難めいた声で愚痴ている。それには相手をせず、私の手元を見ながら
「あ、宿題やってたんだ?ゴメンね、うちが使えなくて」
と言うので私はいつもの調子を取り戻しながら
「んーん、大丈夫だよ。いつもは一人でチャチャッと片しちゃうんだから」
と答えると、義一もいつものように微笑んだ。
「そうかい?ゴメンね、あと少しでいつもみたいに暇になるから」
「あのー、もしもし?」
と私たち二人の様子をジト目で見ていた山瀬さんが、ブツブツと文句を言ってきた。すると義一は大袈裟に驚いて見せて
「あれ?絵里、いつからそこにいたの?」
と聞くので、ますます目を細めながら
「最初からいたよ!大体受付のところで気づいてたでしょうよ?私を見るなり”ゲッ”て顔をした癖に」
「まあね。と言うか絵里こそ何で今日図書館にいるの?今日非番だって言ってなかった?だから今日狙って来たのに」
と義一がまた煽るようなことを言うと、それに山瀬さんがまた乗っかる様に答えた。
「残念でしたねぇ。受付のあの子のように、お淑やかで大人しい司書さんだけじゃなくて。確かに今日非番だったんだけど、ちょっとやり残した仕事があって、それだけ片しに来たの」
「ふーん、そっか」
と返してる義一を余所に私は、こんな簡単なことを中々焦らして教えてくれなかったのかと、呆れながらチラッと山瀬さんの横顔を覗いていた。とここで山瀬さんもこっちを向いたので目が合った。一瞬お互いに視線を外さずにいたが、すぐ何か思いついたといった表情になった。そして次に義一の方を見ると、明るい口調で話し出した。
「あ、そうだ!ギーさん、琴音ちゃん、この後どこかお茶しに行かない?」
「え?」
私と義一、ほぼ同時に声を出した。山瀬さんは構わず続けた。
「うん、それがいい!どう琴音ちゃん?この後時間ある?」
「う、うん、暗くなるまでに帰れれば…」
と未だ戸惑いながら答えると、強くウンウン頷いて
「大丈夫だよ。そんなに時間は取らないから!よしよし、で、ギーさんは大丈夫だから…」
「おいおい、これから調べ物…」
と、私と同じ様に義一が喋りかけたが、山瀬さんは義一のことは眼中にないらしい。
「よし、じゃあ決まり!決まったら二人共、善は急げだよ?さっさと片してしゅっぱーつ!」
と山瀬さんは元気よく立ち上がると、受験生達の冷たい視線も気にする様子なく、受付の司書さんに笑顔で挨拶してズンズン歩き出した。
「はぁ…」
と、私と義一は一緒に大きく肩を下げながらため息をついた。と同時に目が合うと、これまた同じ様に苦笑いをし合った。義一から声を掛けた。
「まったく絵里には困ったもんだね。本当にマイペースなんだから」
「ふふ、山瀬さんも義一さんには言われたくないと思うけど?」
とやり終えた宿題をバッグに詰めながら私は笑顔で返した。
「え?そうかなぁ?…でも琴音ちゃん、大丈夫かい?無理に絵里の無茶に付き合うことはないんだよ?」
「うん、大丈夫よ。この後予定がなかったのは本当だし、せっかく誘ってくれたんだしね!」
トートバッグを肩に下げながら答えた。
「それより義一さんこそいいの?今来たばかりなのに?」
と帽子を被りながら私が聞くと、義一もどっこいしょっと、重い腰を上げながら苦笑混じりに返した。
「まぁ、今回はしょうがないかな。また次回来るよ…絵里がいない時に」
「ふふ」
「おっそーい!」
と山瀬さんは図書館の正面にある時計が乗っかってるポールの下から、今出て来たばかりの私たちに向かって非難を浴びせた。手を顔に向けてパタパタ扇いでいた。
「女の子を一人炎天下で待たせちゃ、男としてダメでしょ!」
と山瀬が言うと、義一はおでこに手を当てて周囲を見渡しながら
「女の子?女の子は琴音ちゃんしかいないけど?」
と言うので、山瀬さんは口を尖らせて言った。
「あ、そういうことを言う?だからギーさん、モテないんだよ」
正直私と山瀬さん、身長が同じくらいだから、私が女の子なら山瀬さんもじゃないかな?などと、二人のやり取りを側から見てて、私は私で微妙にズレてることを考えていた。
「で?」
と義一が山瀬さんに話しかけた。
「これからどこに行くの?この辺りに喫茶店なんてあったっけ?」
「いや、ないよ」
と山瀬さんは声に表情つけずに返した。
「えぇ、じゃあどこに行くのさ?まさかこの炎天下、当てもなく歩き回るなんて言わないよね?」
と最後は私の方に視線を移しながら義一が聞いた。すると山瀬さんは何を今更と言いたげな顔つきで
「ギーさん、あなたは地元っ子でしょ?だったらわかるでしょ?」
と言うと、一旦溜めて、無駄に芝居掛かった調子で続けた。
「ファ・ミ・レ・ス・よ」
「えーっと、私はこのパフェ下さい。ギーさんは良かったよね?」
「うん」
「でー…琴音ちゃん、本当に何もいらないの?遠慮しなくていいのよ?全部ギーさんが払うんだから、ネッ?」
「おいおい、絵里の分もかい?」
「いいでしょ?たまには甲斐性あるところ見せてよ」
「いやいや、いつも僕が払っているけど」
「うーん、どうしようかな…」
とメニューを見ていた私は、上目遣いで義一を見た。義一はさっきまで山瀬さんに見せていた表情を変えて、優しく微笑みながら言った。
「いいんだよ琴音ちゃん、遠慮しないで。食べたいのがあったら言ってみて?」
「あぁ!差別だ、差別!私の時と全然違う!」
「あのー…お客様?」
と私達のテーブルのすぐ横で注文を取っていたウェイトレスさんが、申し訳なさそうに声を掛けてきた。義一が照れながら
「あぁ、すいません。少し待って下さい。…どう、琴音ちゃん?」
「うーん、じゃあ…私も同じパフェを下さい」
と私が言うと、山瀬さんが慌てて付け加えた。
「あっ!後ドリンクバーも三つで!」
注文を繰り返し、ウェイトレスさんが離れて行くと、早速私達は各々ドリンクを取るとテーブルに戻った。
ここは、最寄りの駅の、いわゆる駅ビルの中に入っている全国チェーンのファミレスだ。時間は大体二時半になるところだった。私鉄が一線しか乗り入れていないとはいえ、この辺りの交通の便はそんなに良くなく、他に手段がないのもあって、この辺りに住んでいる人は、とりあえずこの駅に来て、駅ビルの中を周るか、ここから都心に行くかの二択で、いつも人で溢れていた。でも流石に昼飯時を過ぎたばかりで、しかも平日ということもあってか、外歩く人は多くても、今いるこのファミレスは、空席が目立っていた。
「では、今日初めて私と琴音ちゃんがお茶する記念を祝して…かんぱーい」
「乾杯」
と、義一のアイスコーヒー、山瀬さんのアイスティー、私の烏竜茶が入ったグラスを互いに優しくぶつけ合った。一口だけ飲むと一息ついた。山瀬さんも同じだったのか、大きく息を吐いて
「はぁー、ようやく涼めたー。今年の夏もあっついねぇ」
と言うと、義一も手に持っていたグラスを置いて
「暑い暑い。汗かくからすぐに洗濯物が増えちゃうよ。まぁ、天気が良くてすぐ乾くのはありがたいけど」
と答えた。それに対して、山瀬さんがあの悪戯っ子のような表情で
「ギーさんは汗かかないじゃない?しかもいつも同じ服しか着てないし」
と言うので、義一は顎を引いて胸元を見ながら
「いやいや、同じに見えるだろうけど、全部少しずつ違うんだよ」
「へぇー…」
と私は思わず、口にストローを加えたままだったが、声が漏れた。正直山瀬さんと同じように思っていたからだ。
「いや、そう言われても、ぜんっぜん違いが分からないよ。それに比べて…」
と言いながら私の方を見て、言葉を続けた。
「ほら、琴音ちゃんを見てよ?どこまでも真っ白なワンピース、それに今は脱いでいるけど麦わら帽子、まるで絵画に描かれている、どこぞのお嬢様みたいじゃない?」
「ちょ、ちょっと山瀬さん…」
と私はあまりに大袈裟に言う山瀬さんに慌てて注意した。と、視線を感じそっちを見ると、義一も意味深な笑顔で私を見ながら、ウンウンうなづいていた。
「まぁ、それに関しては、僕も同意だけど」
「ちょっとー、義一さんまで」
「ははは」
「私の事を言うなら…」
とここで私は隣に座っていた山瀬さんのブラウスの裾を少し触りながら
「ほら、山瀬さんの方が素敵じゃない?大人の女って感じで」
と、その感想は嘘ではなかったが、私から話題を逸らすために無理やり矛先を山瀬さんに変えるため言った。
「琴音ちゃーん、優しいー!」
「あっ、ちょっと…」
でも、違う悪影響が出た。山瀬さんが両腕を私に巻きつけるように、ギュッと抱きしめてきたのだ。あれだけ炎天下を歩いて来たのに、若干柔軟剤の匂いがしただけだった。
「く、苦しい」
「あ、ごめんねー」
と山瀬さんがようやく私から離れた。そして顔は私に、視線は義一の方に流しながら
「ありがとう、琴音ちゃん。でもね、ギーさんにそんなこと聞いてもダメよ?何せあの通りの朴念仁なんだから」
とボソッと言ったその時、義一はチラッとこちらを見たかと思うと、意地悪な笑顔をしながら
「そうだねー。でもそんな僕でもこれくらいは分かるよ。今日の服装が絵里に似合っていることくらい」
「ほら、何も…え?」
と山瀬さんは、何言われてるか理解していないようだったが、はたから見ていても、徐々にほんのり顔に赤みが差していくのがわかった。山瀬さんにしては珍しく、しどろもどろに
「え?そ、それって、どういう…」
と言うと、相変わらずさっきと同じ意地悪な表情で
「そうだねー、さしずめ、馬子にも衣装ってところかな?」
と言うと、みるみる山瀬さんの表情が元に戻っていき、赤みも急速に引いていった。そしてムッとした表情で聞いた。
「何よそれー、どう言う意味よ?」
「辞書で調べて見るんだね」
「そういう意味で聞いたんじゃないでしょ!…ほらね?」
とムッとした表情そのままに私を見て
「こちらのギーさんはね、この通りじーさんなの。もう枯れちゃってるのよ」
「…ふふふ」
と二人の息合った掛け合いに、私は堪えきれずに吹き出した。その様子を見て、義一と山瀬さんも笑うのだった。
「どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい」
とウェイトレスさんが、私と山瀬さんの、いわゆるイチゴパフェを持って来て、伝票を置いて行った。私と山瀬さんは声を揃えて言った。
「じゃあ、いただきまーす」
「はい、どうぞ」
と、注文しなかった義一はストローを加えながら返した。
何口か口に入れると、山瀬さんが目をギュッと瞑りながら
「いやー、美味しい。ファミレスのも馬鹿にできないよねー。しかも、人のお金でタダで食べれるとなれば、美味しさ倍増だよ」
と言うので、さすがの義一も
「はいはい、さいですか?良うござんしたね」
と苦笑いで答えるしかないようだった。気を取り直して、私の方を向き
「どう、琴音ちゃん?美味しい?」
と聞くので、私は
「うん、美味しいよ」
と、他に言いようがなかったから、淡々と返すのだった。相変わらずチビチビと、コーヒーをグラスから吸い上げていた義一が、何気なく聞いてきた。
「そういえば、琴音ちゃんは僕と会わない間、何して過ごしてたんだい?」
「あっ、それ、気になるー。琴音ちゃんの夏休み」
と、思った通りというかなんと言うか、山瀬さんが乗っかってきた。私は気にせず
「そうだねー、まぁほとんど室内でピアノを弾いてたかな?後チョロチョロ宿題」
「あー、そういえば前にピアノを習っているって言ってたねー?今度聞かせてよ?」
と山瀬が笑顔で私に聞くと、義一が少しムッとして見せて
「こらこら、ダメだよ。まだ僕が聞かせて貰ってないのに」
と言うので、今度は山瀬さんが大袈裟に引いて見せて
「えぇー、ギーさん、それは余りにも束縛が強過ぎるわ。ヒクー」
なんて、二人で会話をしていたが、私の方はピアノの話をしていたせいで、ふと先生の事を思い出していた。そして目の前に食べかけのパフェがあったので
「…今度先生にパフェの作り方習って見ようかな…」
と、ほとんど無意識にボソッと独り言を言うと、隣にいるからなのか何なのか、すぐに山瀬さんが反応した。
「え?何?琴音ちゃんにはピアノ以外に、料理の先生がいるの?」
「あ、いや…」と私が訂正しようとすると、先に義一が山瀬さんに対するいつもの意地悪い表情で聞いた。
「絵里さんは、ご趣味で料理をなさいませんの?」
「お料理はなっさいませーん」
「あ、いや、違うの」
と、また二人の軽口言い合い合戦が始まりかけたので、慌てて横から割り込んだ。
「ピアノの先生が、レッスンの合間にお菓子作りを教えてくれるの」
「へぇー」
と義一と山瀬さん二人が同時に声を出した。山瀬さんの方は自分が言った後、意外そうに義一の顔を見ていた。私も同じだった。でもすぐ思い直した。
そういえば、誰に習っているのか、言うの忘れてたわ。
「そうなんだー、誰かと思えばピアノの先生だったんだね?てっきり、お母さんだと思っていたよ」
と義一が言ったので、私は一口パフェを食べてから
「んーん。お母さんも料理は得意なんだけれど、お菓子を作っているのを、見たことがなかったから、頼まなかったの。まぁ、私が知らないだけで、実はお菓子も得意かもしれないけどね」
「そうなんだねー」
「はぁ、ギーさん」
と、私と義一のやり取りを黙って見ていた山瀬さんが、大きくため息ついて言った。
「何でギーさんが知らない訳?ガッカリだわー」
「うるさいなぁ」
「で?」
山瀬さんは私の方を向き、顔中で興味津々だと表現しながら聞いてきた。
「何でまたお菓子作りを習っているの?…あ、さては誰か好きな」
「違います」
と、なるべく言葉に表情を出さないように気をつけながら即答した。
先生もそうだったけど、何で全てをソッチに話を持って行こうとするのか…。この年代の人達はみんなそうなのかな?
と若干、いや、かなり呆れ気味な表情でいると、義一が代わりに、なんでもない風に答えた。
「いやいや、違うよ。琴音ちゃんが僕の家に来てくれても、何も気の利いたお菓子なんか出せないから困っていたんだけど」
「自覚はあったのか…私が毎度行っても、麦茶一杯しか出してこないから」
と間に山瀬さんが、軽く聞き流せない事をボソッと非難めかして言ったが、義一は無視して続けた。
「そしたら琴音ちゃんが、オヤツ用のお菓子を習いに行ってくるって言ったんだよ」
と言いながらここで、パフェの残りにがっつく私の方を見て
「あの時は本当に有り難がったなぁ、まさかピアノの先生とは思わなかったけど。でね」
と言うと、次は山瀬さんの方に視線を移し
「こないだ僕の家でチョコブラウニーを一緒に作って食べたんだ。たまたま琴音ちゃんの友達も一緒だったから、二人じゃなかったけどね」
と言い終わると、一口分ストローでコーヒーを啜った。すると山瀬さんは今度は、本気とも冗談とも取れるような、ブー垂れた表情で義一を見ながら言った。
「えぇー、なんでそんな面白そうな場に私がいないの?」
「なんでって…呼んでないから」
「もーう。…ていうか」
と山瀬さんは不自然に顔を窓の外に向けてから、先を続けた。
「ギーさん、手作りのお菓子って苦手じゃなかったっけ?」
「え?義一さん、そうだったの?」
と私も反射的に義一に問いかけた。義一は腕を組み首を傾げながら
「あれ?そんなこと言ったっけ?」
と言うと、山瀬さんは顔はそのまま、視線だけを義一に向けてボヤいた。
「はぁ…この男は」
「あ、ごめん。ちょっとトイレ」
急に前触れもなく何かを察したように、義一は席を立ちトイレに向かった。山瀬さんは体勢を正面にゆっくり戻しながら
「逃げたな、あの野郎…」
と低い声で凄んで言った。と、その様子を見てぽかんとしている私に気付くと、妙に照れ臭そうにしながら言った。
「いやー、本当に琴音ちゃんのおじさんは、記憶力がいいんだか何だかわからんね?」
「はは…」
そんなこと言われても、今までの流れを見てて、乾いた笑いをするしか私に術はなかった。
ふと視線をトイレの方に向けると、義一さんが心なしか肩を落として戻って来た。私がすかさず心配そうに聞いた。
「どうしたの、義一さん。何かあった?」
「何?トイレで自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしたの?」
と山瀬さんもすかさずチャチャを入れる。それには無視して静かに答えた。
「…財布を忘れたみたい」
「…え?」
と今度は私と山瀬さんが同時に声を出した。義一は照れる時の癖、頭を掻きながら
「今日は図書館に行くだけのつもりだったから、飲み物買えるくらいの小銭入れは持って来てたんだけど」
「っっもーう!今更ー?」
と山瀬さんがこれでもかってくらいに口を閉じて溜めてから、言葉を吐き出した。その後やれやれと、自分のカバンを弄り始めたが、義一はそれを見て慌てて言った。
「あっ!絵里、いいよ、別に」
「いいよって…いい訳がないでしょうに」
「琴音ちゃん?」
と急に私に話しかけて来た。
「何?」
「まだ時間大丈夫かな?」
と聞かれたので、店内の時計を見ると、三時半を少し過ぎたところだった。
「うん、まだ大丈夫だけど」
「あ、そうかい?じゃあちょっと…」
と義一はレジの向こうの方を見ながら
「一度家に帰って財布を取ってくるよ。三十分くらいでね。あ、でも…」
とまた私に視線を戻して、すまなそうな表情で
「ゴメンね琴音ちゃん、もし帰りたかったらいいんだけど?」
と言うと私は笑顔で
「大丈夫だって。ここで山瀬さんと待ってるよ」
と答えると、片手で私と山瀬さんにもう一度ゴメンとジェスチャーして
「じゃあ絵里、琴音ちゃんを頼むね」
と言うと、鬱陶しそうに
「はいはい、分かったから、早く行ってきなさい」
と山瀬さんは、行きかける義一に手でシッシッと外に追い立てた。義一は出て行った。
「まっっったく、変なところは凄くこだわって細かいのに、日常生活のところで抜けてるんだからなー」
と義一の姿が見えなくなると、山瀬さんがため息混じりに言ったので、私も苦笑いしながら答えた。
「ふふ、そうですね」
「それに…」
と山瀬さんは、改めて私の方を真っ直ぐ向きながら
「大体ギーさんも悪い人だよ。あんな言い方して。あれじゃ、そもそも心根の優しい琴音ちゃんが断れる訳ないのに。本当、母性を上手いことくすぐる、天然タラシだね」
と言ったその声は、結構本気混じりに非難しているようだった。意外だった。こんな言い方はヒドイが、山瀬さんにこんな本気な一面があるとは露ほども考えたことがなかった。
私の事を優しいと言ったのにも、からかいやフザケは混じっていなかった。私は思わず聞いてしまった。
「…優しいって何ですかね?」
と言ってしまった後、慌てて口に手を当てた。しまった!ついやってしまった。さっきまで義一がいたせいか、気が緩み、変な所で”なんでちゃん”が起きだしてしまった。でもこうなると後の祭り、黙って相手の反応を待つしか無かった。
山瀬さんは隣で黙っていたが、ふっと笑ったか、ため息か、判別できない息を短く吐くとおもむろに立ち上がり、義一が座っていた私の向かいに移動し座った。私は尚、黙って待っていると、山瀬さんは優しく微笑みかけてきながら、ついに話しかけてきた。
「そうだねー…と、その前に、本当にギーさんの言った通り”なんでちゃん”だっけ?なんだねぇ」
「あ、あの…その」
と私は、さっきから普段と雰囲気違う山瀬さんに圧倒されてた上に、”なんでちゃん”の事を指摘されたので、余計にドギマギして
「ご、ごめんなさい」
と、とりあえず謝った。すると少し普段の印象通りの”山瀬さん”に戻りながら
「あ、いや、何で謝るの?何も悪い事していないのに」
と笑顔で返してきた。
「え、でも…」
と私が言いかけるのを制して、そのまま話を続けた。
「いや、私が言ったのはね?ほら、さっきこの時期はギーさんがよくウチの図書館に来るって話したでしょ?」
「う、うん」
「で、その時に私からだったかなぁ?琴音ちゃんの話をそれとなく振ったの。そしたらねぇ」
とここで山瀬さんは、まるで微笑ましい光景を思い出すかのように目を細めて
「琴音ちゃんが如何に自分に面白い疑問を問いかけてくれるか、それに答える事で自分自身にも刺激があって、いい作用がしてるんだって、仕切りに褒めてたんだよ。私はたまに来てくれる、可愛いお人形さんみたいな琴音ちゃんしか知らなかったから、それをギーさんから聞くのは癪だったけど、私も機会があったら、”私の知らない琴音ちゃん”に会いたいなって思っていたんだ」
またもや意外だった。そもそも真面目に話す山瀬さんが意外だったのに、しかもどうもその話し振りから、私の”なんでちゃん”に対して敵意を持っていない様に見えた。今まで、当然嫌いじゃなかったし、どちらかといえば私の作った「大人」と言う枠組みの中では、数少ない、かなり好きな部類に入っていた。でもあくまで仮面の外の話。そう思っていたのが今こうして仮面の内側の話をしようとしている。私はある意味初めての感情が芽生えるのを感じていると
「でね?琴音ちゃん?」
と、また改まった調子で、山瀬さんは私を真っ直ぐ見ながら話を続けた。
「琴音ちゃんはじゃあ…何で”優しい”について疑問に思ったのかな?」
「…えっ?えぇ…っと…」
しつこいようだがまたもや意外だった。そうとしか言えないからしょうがない。考えてみれば、正直この頃の私の”なんで?”は、ほぼ反射的、直感的なもので、とりあえず思いついたら聞こうというスタンスだった。そんないきなり飛んでくる質問に対しても義一は、大体最後は私の納得いく考えを披露してくれたが、今みたいになぜ質問したかについて、理由を聞かれたのはこれが初めてだった。このまだ十分くらいの間に、何となく知ってたつもりだったイメージの中の山瀬さんが、こんなに一遍に百面相のように、様々に姿形を変えられたせいで、すっかり原形を留めていなかった。
こんな調子で私がまた返答に窮していると、今度は呆れた調子で
「はぁ、やっぱりね。琴音ちゃん、今まで逆に質問された事がなかったんでしょ?」
「あ、いや…必ずしもそういうわけじゃないけど…うん」
と、丁度考えていた事を問われたので、慎重にだけど、これには答えられた。でも、山瀬さんが呆れた感じを見せていたので、やっぱりこうなったかと諦めかけていたが、ふと今まで私から視線を外さなかったのに、急に顔を斜め上あたりに向けて
「やれやれ、ギーさんめ。それじゃ一方的に話してるだけじゃん。まずは琴音ちゃんの疑問の理由から聞いてみなくちゃ…はぁ、ダメねぇ」
とその視線の先には義一がいるのか、宙空に向かって悪態をついていた。どうやら直接私に呆れていた訳ではなかったようだ。と、また顔を正面に戻し、山瀬さんはさっきのように真っ直ぐ私を見て話した。
「琴音ちゃん、琴音ちゃんも誰かに何かを聞くときは、まず曖昧でも構わない、大体でもいいから、大凡の自分の考えを持ってからでなきゃダメよ?ギーさんみたいな”理性の怪物”を相手にする時は特にね」
私はギョッとしながら聞き返した。
「り、理性の怪物…?」
「そう」
とここで山瀬は一旦氷がすっかり溶けたアイスティーを一口啜った。
「琴音ちゃんならもう知っているだろうけれど、ギーさんはあの通り普段から、普通の人なら通り過ぎちゃう様な疑問点、矛盾点を見付け出し、それを掘り下げ続けるような人だよね?それを生き甲斐にしてる。しかもたちの悪い事に、掘り下げれば掘り下げる程道具が鍛えられていくから、どんどんそのまま、あるのかどうかわからない底を目指して突き進めちゃう…私の言いたい事分かるかな?」
「あ、はい…何となくは…その道具っていうのが」
「まぁ、”理性”って事なのかな?」
「なのかなって?」
と、急に自信なさげに言ったので、私も本領を発揮する様に質問した。山瀬さんは少し苦笑まじりに照れながら答えた。
「いや、まるで今までギーさんの事、分かっている様な口振りで喋っちゃったけど、実はこの話、私とギーさんの大学の先生が言ってた事なんだ。その先生がギーさんを見て”理性の怪物”と称してたんだよ」
「へぇー」
「まぁ、ギーさん自身はこの二つ名が付けられてることを、未だに知らないと思うけどね」
「ふーん、そうなんですね」
「まぁだから、自分の考えを持っていなきゃ、 “怪物君”の筋道立った論理的な説明に、簡単に飲み込まれてしまうの。よっぽど気をつけていない限りね」
私はこの時、何故かヒロが「気をつけろ」と言っていたのを思い出していた。
「で、話を戻すけど」
と山瀬さんは続きを話し始めた。
「疑問に感じるのは、とてもいい事だと思うよ?さっきは少し悪く言っちゃったかもしれないけど。でも今から言うのは、なんて言うのかな?理性の怪物的話じゃなくて、気持ちの問題なんだけど。琴音ちゃん、逆に何か質問されて、答えてあげた時、相手がまるで分かっていない様な見当違いのリアクションをされたら、どう思う?」
と聞いてきたので、少し考えたが
「うーん、『この人、何で自分の疑問点をすらよく分かっていないのに、わざわざ聞いてきたのかな』って思うかな…あ」
と言ってるうちに、自分のことを暗に言われているのに気づいた。でもその私の心中を察したのか、首をゆっくり振りながら
「いやいや、別に琴音ちゃんがって言いたいんじゃないよ?さっきも誤解があったかもしれないけど、ギーさんから話を聞く感じ、琴音ちゃんもちゃんとあの”怪物君”の小難しくてややこしい話を理解して聞いてるみたいだったしね。これは並のことじゃないよ?…ちょっと盛って文句を言い過ぎちゃった。何しろ…」
と山瀬さんはそこまで言うと、眉を顰めて見せて
「あの男が、あまりに私に対して無神経すぎるから、八つ当たりしたくなっちゃったの」
と、最後は意地悪く笑って見せて言った。それに釣られて、緊張が解けたのか、私も笑顔を返した。でも、本当は山瀬さんの言うように、何も考えず質問しちゃっていたかもと、一人反省しながら。
「でも今琴音ちゃんが言った通り、ある意味それは質問した相手に対して、不誠実な態度だと思うの。だって、普段から考えていないから、自分の意見を持ってない、だからこそ回答者から言われたことをキチンと受け止められない。それは相手の意見を吟味する材料を持っていないから、その場その場の”気分”に流されて受け止めちゃう。真面目に答えてくれたのにそれを曲解しちゃう。ちゃんと自分でそれなりの意見を持って、相手が違う意見を言ってきたら、どこが違うか吟味して、それから議論をしてみる。これが誠実な態度だと思うのよね。どうかな?」
「はい、私もそう思います」
と私が答えると、ニコッと山瀬さんは微笑んだ。が、ハッとした表情になって
「あ、今のギーさんみたいだったかな?」
といかにもバツが悪いという風に聞かれたので
「はい、そっくりでした」
と私は私で、何となく嫌がるだろうなと見越した上で、敢えて意地悪に答えた。山瀬さんは少し苦笑いを浮かべてホッペを掻きながら
「まぁ私が言いたいのは、簡単に言えば、琴音ちゃんは今の調子でジャンジャン遠慮せず不思議に思ったことを聞けばいいと思うの。ギーさんだけじゃなく私にもね?でも一つ付け加えるなら、あのギーさんを言い負かすくらい、普段から琴音ちゃんにも戦闘準備をしていて欲しいかなぁ?回答に対して、また新しい有意義な疑問を見つけて、ぶつけられるようにね。もちろん無理のない範囲で」
と言ったかと思えば、ここで一瞬溜めて、また普段通りの悪戯っ子な表情を作りながら
「あの”怪物君”が理性なくオタオタするのを見たいじゃない?」
と言い終えた。私は何も返さなかったが、心から同意する様に笑顔で頷いた。
「…さて! 優しさねぇ…」
と、空気を一気に変える様に、いつもの、私が知る普段の山瀬さんに戻った様に明るい調子で声を出した。
「ギーさんみたいに学がある訳でもないし、気の利いたことは言えそうもないなー…」
と言ったところで一旦溜めて、私の事をニヤニヤ見ながら言った。
「私としては、優しいとは”琴音ちゃんの事だ!”って定義したいんだけどね」
「いやいや、それは勘弁してください」
と字面にすると無感情だが、実際の私もニヤけながら返した。
「まぁ、この”優しいとは何か問題”はギーさんにも聞いてみなよ?多分またキテレツな事を真面目に答えてくれるからね。私も次までに考えてみるからさ。今はこれしか言えないけどいいかな?」
「うん、私こそ御免なさい」
と色んな意味を含ませた”御免なさい”を言った。山瀬さんもそれなりに察してくれたのか、何も言わず微笑み返すだけだった。
と、何の気も無く時計を見ると、四時を少し過ぎたくらいになっていた。一緒に見ていた山瀬さんが
「しっかし、ギーさん遅いねー。もしかして家に帰って寝ちゃってるんじゃないでしょうね?」
と言うので、私はそれに苦笑いで返した。
「いやー、流石にそれはないと思いますけど」
「うーん…あ、なるほど!セリヌンティウスはこんな気持ちだったのか!」
と急に元気よく大発見でもしたかの様に声を上げた。私は急に言われてポカンとしてたが、また苦笑いして
「…あっ、太宰ですか?」
と聞くと、山瀬さんも一瞬呆けていたが、すぐに顔中に嬉しさを滲ませて言った。
「そう!その通り!『走れメロス』だね!いやー、私もこの状況何かに似てるなってずっと考えていたんだけど、これだーって気づいてね!琴音ちゃんに発見を自慢しようとしたら、先に言われちゃった。よく”セリヌンティウス”だけで気づいたね?」
「いや、私も何となく何かに似てるなぁ、とは思ってたんですけど、そのメロスの”セリヌンナントカ”って友達の名前だけ言われてたら、わかりませんでしたよ」
「いやいや、凄いよ。要は、状況なども鑑みて思いついたんだからなぁ。ギーさんが褒めちぎるのも分かる気がする。よっ!可憐な文学少女!」
「いや、あのー…」
と、一向に私に対する絶賛をやめる気配がなかったので、居た堪らなくなって
「まぁもっとも、メロスの友達は山瀬さんと違って、もっとメロスの事信頼していたと思いますけどね」
と無理矢理話を終わらせる意味も込めて、意地悪に突っ込んだ。それを聞いた山瀬さんは苦笑いを浮かべ、ホッペを掻きながら
「いやー、細かいねぇ。でもこれまた一本取られた!」
と、最後におでこに手を当てながら返した。
「そういえば…」
と私は烏龍茶をストローで吸おうと思ったが、もう空になっていたらしく、ズズズとゴボボが混ざった様な音が鳴るだけだった。それを見た山瀬さんがニコリと笑って立ち上がりながら言った。
「まだギーさん来なそうだし、お代わりを取ってこよう!」
山瀬さんはまたアイスティー、私はまた烏龍茶を取って席に戻った。
「しかし、さっきも思ったけど、ドリンクバーで烏龍茶…渋いねぇ」
とストロー咥えながら山瀬が言った
「そうですか?うーん、変ですかね?」
「いや、変じゃないけど、私の中の小学生像は、こんな時はジュースを飲むもんだと思っていたからねぇ」
「うーん…言われてみれば、大体烏龍茶か他のお茶をいつも飲んでる気がします。…小さい頃は苦手でしたけど」
「そうなんだー。琴音ちゃんみたいな可憐な少女が渋いお茶を飲んでるのは、これまたギャップがあっていいね!」
急に太宰を小学生相手に持ち出す方が変わっていると思ったけど、そこを掘り下げると、どんどん深みにはまって、見当違いのところに行くと思ったので、半ば強引に
「義一さんと山瀬さんの仲について、聞いてもいいですか?」
と単刀直入に聞いてみた。ここまで来たら、聞けるところまで聞いてみたかったからだ。
山瀬さんは山瀬さんで、さっきまで持っていたグラスを置いて、少し身を乗り出す様な体勢になり、いかにも乗り気であるのを見せて
「私とギーさん?いいよ…やっぱり、気になる?」
「あっ…いや…まぁ、はい」
とニヤケながらも目の奥から、真っ直ぐ射竦める様な視線を送って来たので、私は若干たじろぎながら答えた。すると、眼光の鋭さは消えて、またいつもの目つきに戻ると話し始めた。
「そうねぇ…何しろもう考えてみれば、十年くらいの付き合いだからねぇ。どういう仲かって聞かれても、正直困るなぁ。まぁでも、今とりあえず言えるのは、私もギーさんも、何も変わっていないって事かな…あっ」
とここで山瀬さんは自分の頭のマッシュルームヘアーに触りながら
「昔はこんな髪型じゃなかったけどね!」
とニコやかに言った。私はそこにも少し踏み込んでみる事にした。すっかりまた”なんでちゃんモード”だ。今思えば本当に反省がない。
「昔って…」
「そうっ!大学生に入りたてまではねぇ。聞いてくれる?」
「あ、はい」
山瀬さんはおもむろに足をテーブルの下で組み、遠くに視線を流しながらしみじみ言った。
「私って今もだけど、結構内気で人見知りが激しい方だったのね」
「え?えぇ…は、はい…」
と冗談なのか本気なのか、反応に困っていると、そんな私の様子に満足したのか、さっきまでの体勢に戻ってイタズラっぽく笑いながら続けた。
「私、中学高校と私立の女子校に通ってたの。周りは同年代の女の子ばかりでしょ?男の子との接点なんて大学入るまで皆無に等しかったから、大学に入ったらまずそれに困っちゃった。
小学生までは当然男子とも話したり遊んでいたけれど、中高抜いて、いきなり大人になってる男の子と付き合わなきゃいけなかったのが、自分でもビックリだったけど、うまく立ち回れなかったのよねぇ…」
とここで山瀬は一瞬躊躇ったが、
「…私、何故か、結構…こう言っちゃあ何だけど…モテたのね?」
と気恥ずかしそうに、歯切れ悪く話した。聞いてて本気だと思ったのは、山瀬さんの耳が真っ赤になっていたからだ。
「…いやー、小学生に話す事じゃないけど…まぁいっか!続けるね?」
「うん」
山瀬さんはまた一口アイスティーを味わう様に口に含み、ゆっくり飲みこむと静かに話を再開した。
「高校と、大学の初めくらいまでは、実は今の琴音ちゃんと同じくらい、肩より少し下に行くくらいまで長かったの。特に理由があった訳ではなかったけど、ロン毛にしてたのね。で、そのー…大学一年の時、サークル…って言っても分からないか…要はクラブだね?運動するクラブに入っていたんだけど、一緒に入っていた先輩に、今思えば在り来たりなんだけど、告白されたの」
「へぇー、本当にモテたんですね意外に」
と、まだこの話をするのに、若干ある意味緊張しながら話している様に見えた私は、適当に茶々を入れて和ませようとした。それを知ってか知らずか山瀬さんは、えぇーっという様な表情を作り
「そうよー。今の私を見ても良くわかるでしょ?変わらずこんなに可愛いんだから」
と冗談だとワザとわかる様に、オーバーなリアクションしながら答えた。
まぁ正直、昔の山瀬さんがどんな容姿をしていたか知らないから、何とも言えないところではあったけど、今と変わらないと言う本人の言葉を信用するなら、それは恐らく本当だったんだろうと思う。まぁ、これも言ってあげないけど。
「冗談はさておき…何まで喋ったっけ?…あぁ、それで、告白されたのなんて初めてだったから断り方も分からず、今思えば酷く相手のプライドを傷つける様にフっちゃったのね」
「えぇー、フっちゃったんですか?どうして?」
と私が聞くと、また悪戯っ子の顔を作り
「だって、あの頃の私は今と同じで硬派を気取っていたからね」
「いや、そういうのはいいです」
と無情にすぐかぶせ気味に突っ込んだ。山瀬さんは少し不満げに見せながらも、すぐ明るい調子に戻って続けた。
「まぁ、そう言わないでよ。で、相手の事嫌いじゃなかったけど、いい加減な気持ちで割り切って付き合おうという、なんというか意欲が私になかったのね。でね、どうもその後そのクラブに居づらくなって、やめちゃったの。でもそれからも、同じ授業を受けてる同学年、はたまた先輩、その何人かにまた告白されてね。その度にやっぱり断っていたの。自覚はなかったんだけど、あとで出会うことになるギーさんに言わせれば、中々目立つ、派手な印象を周りに与えてたみたいなの。私はなんでもなかったのにね。で、自分の意志とは別のところで勝手に人間関係が拗れてきて、ほとほとウンザリしていた時にある時決心して…いや思いつきかな?美容院に行った時たまたま雑誌をパラパラめくっていたら、この髪型をした、中々アクの強い女の子が載っていたの。近寄りがたい様なね。でも何故かその女の子に惹かれちゃって、カットの途中だったけど、美容師さんに『すみません、今からこれにして下さい』と言って出来上がったのが…」
とここでまた山瀬さんはマッシュルームヘアーに触りながら
「これって訳」
と心なしか自慢げに言った。
「へぇー、その時の思いつきを今も続けているんですね?」
「そうなのー、いざやってみると楽でねー。頭も軽いし、首元涼しくて、こんな夏には最適だよ。あっ、でも」
と、ふと山瀬さんは私の頭に手を伸ばし、触るか触らないかの距離を保ち、撫でる様な動作をしながら
「琴音ちゃんはぜっったいしちゃダメ!こんなに綺麗な黒髮で、すごく似合ってるんだから」
と言うので、軽く手を払いながらも少し笑顔で
「頼まれてもやりません」
と答えた。山瀬さんも笑い返しながら
「はははは!うん、それで良し!で、えーっとギーさんの話だよね?あ、その前にさっきの話を済ますとね、この髪型にして大学に行ったら、それはもう面白い様に男の子から話しかけられなくなったの。それはとても有難かったんだけど、一緒に女の子の友達も何人か離れて行ったのね?あれは少しショックだったなぁ。授業が終わればどこかに遊びに行ったりするくらいには仲が良いと思っていたからね…。これもギーさんに後になって話したんだけど、『それはただ、絵里に群がってくる男たち目当てにすり寄ってきてただけじゃない?』って、オブラートに包む事なく、はっきりと面と向かって言ってきたの。言われた時は『何なのこの人、面と向かって言う様なことかな』と苛立っていたんだけど、私も薄々そんな気がしていたから、すぐに怒りは収まって、いやむしろハッキリ口にして言ってくれたお陰で色々吹っ切れたところがあったの。まぁその時はすかさず『私を誘蛾灯みたいに言わないでくれる?』って返したんだけど」
「ふふ…」
と山瀬さんの口ぶりに思わず笑みが漏れた。と、ふと山瀬さんがカバンを見たかと思うと、中からスマホを取り出し、やれやれと言った調子で言った。
「あぁ…あ、いやね、メールが来てるなって思ったら、ギーさんからだったんだけど、それと別に、今から四十分くらい前に電話もしてたみたいなの。気づかなかったなぁ」
「で?義一さんは何て?」
「うん、『今から行きます』だって」
と心底呆れた様に答えた。
「やっぱり、寝てたんじゃない?私達がセリヌンティウスだったら、今頃殺されてるよ」
「じゃあ、戻って来たら問いただしましょう!」
「はは、そうね!」
私と山瀬は顔を近づけて、内緒話、悪巧みをする様な体で笑いあった。
「じゃあ後二十分くらいかなぁ…」
「あっ、でも続きが気になるよ。お願い、後少しだけお話しして?」
と私が頼むと、一瞬山瀬さんは大きく目を見開いて、何かに驚いていた様子だったが、それからまた一瞬優しい微笑みを見せて、そして、またいつもの悪戯っ子に顔を戻した。
「そうだなぁ、まだ”女子会”をお開きにするには時間があるか!じゃあ効率的に話せる様に、逆に琴音ちゃんから私に質問してよ?そうすれば、ギーさんが来るまでに色々簡単に答えられると思うから」
「あ、うん、そうだねぇ…じゃあ」
と私は、一度頭の中で数秒くらい整理していたが、まとまったのでそれを聞いてみる事にした。
「じゃあね、二つだけ取り敢えず聞いてみたいことがあるの」
「”取り敢えず”ねっ?良いよ、何かな?」
「じゃあまず一つ目は…義一さんのお家に何度か行ったことがあるみたいに言っていたんだけど」
「あぁ、それね」
山瀬さんはアイスティーを啜りながら黙って聞いてたが、私が続きを言わないのを確認すると、一旦グラスを置いて、それから答えた。
「そうねぇ…さっきの話の中で分かったから説明は省くけど、琴音ちゃん、あの家にたっくさんの本があるのは知っているよね?」
「うん」
「ギーさんのお父さんのコレクションだって言うんだけど、中々やっぱりと言うか…掘り出し物ばかりなのよっ!」
途中から急に興奮しながら、鼻息荒く身を乗り出さんばかりのテンションで言い切った。
「う、うん…?」
戸惑う私が眼中にない程、山瀬さんの興奮は止まない。
「私のいるあの図書館に幾つか寄贈してくれないか、要は譲ってくれないかを交渉に行ってたの。まぁ、今も行ってるんだけど」
「へ?そういう理由なの?」
「うん、そうだけど…あっ!あぁー」
と山瀬さんは身を乗り出したままの格好で、目を細め、口元を思いっきりニヤニヤさせて、人差し指で私のオデコをチョンと触ってから言った。
「あれぇー、琴音ちゃん?一体何を想像してたのかなぁー?オマセさんねぇー」
「べ、別に、何も、深い意味なんて…」
当時こういう話は同い年の子達と比べると、私は極端に遅れていて、中々すぐには察せなかったけど、どこかで何か恥ずかしいことを聞いてしまったという直感が働いて、意味なくモジモジしていた。
山瀬さんは私の様子を堪能してから、手で”ゴメンゴメン”とジェスチャーをしてから、また話し出した。でも顔はニヤケっぱなしだ。
「もう、さっきも見てて分かってたでしょー?あの通りの朴念仁と私の間でナニがどうなるわけないんだからー」
「そ、それはもう分かったから、つ、次の質問ねっ!」
まだ鏡で自分の顔を見てないから分からなかったけど、耳たぶだけが異様に熱を帯びているのが感じられて、見なくても耳を中心に真っ赤になっているであろうと思いながら、慌てて話を区切る様に言った。
「さっき、義一さんが、手作りのお菓子を食べないみたいなことを言っていたけど…」
とまた私が皆まで言わずに、語尾を少し伸ばして回答を待ったが、山瀬さんはさっきと打って変わって、目をパチクリさせていた。そして私から視線を顔ごとズラし、言うか言うまいかを悩んでいる様子だった。少しして、顔をまた私に向けると、いかにも困ったという表情をして、苦笑交じりに
「…いやぁ、てっきりそこはスルーしてるのかと思ってたのに、いくらこのファミレスの中でのこととはいえ、よくすぐ思い出せるねぇー。いやぁ、お姉さん、本気で感心しちゃうなぁ」
話し始めたが、何やら誤魔化されそうな雰囲気を感じたので
「いやいや、山瀬さん、私を褒めるのはいいから、早くワケを教えて?」
私は逃すまいと聞いた。いやはや、こんなに人に対して本性を出したのは、義一さん以来二人目だった。子供なヒロは置いといて。相手は堪ったもんじゃない、全く困ったもんだと思っていたかも知れないけど、私の立場から言うと、これは私なりに心を開いた証拠みたいなものだった。
山瀬さんは苦笑のまま、また少し考えていたが、意を決したか、諦めたか、そのどちらとも取れる表情になり、また話し始めた。
「…そうね、まぁ、琴音ちゃん相手なら大丈夫かな?…昔ね、ギーさんに手作りのクッキーを渡そうとしたことがあったの」
「え?…えぇえー!」
と何となく想像はしていたものの、いざ言われると、自分でもビックリなくらいビックリした。
「それって…もしかしてバレン…」
と私が言いかけると、山瀬さんは慌てて身を乗り出し、私の口を塞ぐ様に手をこっちに伸ばしながら
「わぁーっ!違う!違うの!…いや、渡そうとしたのはその日だったけど」
と最後の方は消え入る様な声で、また行儀よく席につきながら答えた。顔はさっき義一に今日の服装を褒められた(?)時くらいに赤くなっている。
「ほ、ほらぁ、今でも流行っているでしょ?”友チョコ”ってヤツ。アレよ、アレ!…さっきも言ったけど、色々と相談に乗ってもらって…まぁ、ギーさん本人も面白がっていたから、そこまで感謝しなくても良かったかもしれないけど、少しと言いつつ、やっぱり本当はかなり落ち込んでいたから、そのお礼も兼ねて、いわゆる友情の印よ!」
「ふーん…で、渡したんだ?」
山瀬さんが長々言った言い訳を軽く流しつつ、肝心要のところを聞いた。すると山瀬さんは、さっきまで赤くなっていたのが嘘の様に無表情になって、ため息交じりに答えた。
「渡そうとしたんだけどね…も、もちろん誤解がない様”と・も・だ・ち”の印だと言ってね…そしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
とここで山瀬さんは頭を掻き出した。これはすぐに分かった。義一の物真似だ。
「『え?…これって、手作り?…ゴメンね、僕、他人が作ったモノって苦手で…。わざわざ作ってくれて、嬉しいんだけど受け取れない。本当にゴメンね、気持ちだけ受け取るよ』『あ、あぁ、そ、そうだったん、だねぇ?ははは、こっちこそゴメン、初めから聞いとけば良かった。気にしないでね』…それから少し話して別れたんだけど、何会話してたか覚えてないんだ。で、ギーさんがいなくなった後に…」
山瀬さんが義一の特徴を事細やかに再現してくれたお陰で、その時の状況を目の当たりにしているかの様に私は聞き入っていたが、ここまで話すと山瀬さんはおもむろに、空手の正拳突きをする前の、漫画とかでよく見る力を溜めるポーズをとりながら
「『何が人の作った物が食べられないじゃボケーっ!お前がよく大学の食堂で食べているのも人が作ったもんじゃろがーっ!何訳のわからん断り方しとんねーん!』…って」
小声でだったが、音量を上げればそれはそれは凄い怒鳴り声だろう、怒りをぶちまける様がまざまざと感じられた。ふと、ここで落ち着きを払い、またいつもの笑みを浮かべながら
「一人その場で、我ながら何故かエセ関西弁を屈指しながら心の中でツッコミ倒していたの…これが顛末だよ」
と言い終えると、喋り続けて喉が乾いたのか、残りのアイスティーをストローで一気に吸い上げていった。私は思わず不謹慎にも拍手したくなるくらい、山瀬さんの迫真の演技の余韻に浸っていたが、山瀬さんがこちらを見て無言でまた苦笑いを送ってきたので、私も苦笑いを返した。
「はぁーあ、そんなことがあったんだ。そりゃ百パーセント、義一さんに非があるね!」
「でっしょー?別に食べなくても、とりあえず何も言わずに受け取ればいいじゃんねぇ?まぁ、変なところで真面目というか、社交辞令ってものを極端に嫌うからねぇ。そこが長所といえば長所か」
「うん、らしいお話だったよ」
「だから琴音ちゃん…」
と山瀬さんはテーブルに両肘をつき、両手を組ませて、その上に顎を乗せてから、意地悪な表情で
「分かっているとは思うけど、ギーさんに女心とか人間の感情の細やかさを分かってもらおうたって無駄だからね。なんせ、アヤツは…」
「…あっ」
と、私が言った時には遅かった。
「理性の怪物なんだから」
「誰が理性の怪物だよ…まったく」
「え?」
山瀬さんが振り向くとそこには義一がやれやれと言った表情を浮かべながら立っていた。私の座る位置からは『感情の細やかさ』のあたりを山瀬さんが喋っている所で、義一が近づいているのに気づいていた。でもまぁ、忠告できなかったのはしょうがない。
山瀬さんは一瞬ビックリしていた様だが、すぐに冷静さを取り戻し
「…どこらへんから聞いてた?」
と聞くと、義一は考えるフリをしてから
「そうだねぇ…『アヤツは理性の怪物なんだから』ってところかな?まったく、琴音ちゃん相手に好き勝手に言って」
と文句を言うと
「もーう。せっかく琴音ちゃんと二人っきりの”女子トーク”を楽しんでたのに、男子が割り込んでこないでよぉ」
と山瀬さんも、文句とはとても言えない文句で返した。
「で?ギーさん、何でこんなに遅かったの?お腹を壊した?日頃の行いが悪いから」
と毎度の山瀬さんの言う軽口は無視して、義一はその隣に座り、
「いやいや、何やら僕からの電話に気づかない程会話に熱中していたみたいだからね、気を遣って二人の時間を作ってあげたのさ。もちろん、琴音ちゃんに迷惑じゃない様に、ギリギリに考えながらね。どう、琴音ちゃん、今ぐらいで?」
と向かいに座る私に聞いて来たので、壁にかけてある時計をチラッと見ると、五時十五分前を示していた。もう少しで図書館が閉まる時間だ。
「うん、今なら大丈夫」
「えぇー、何かそれ、恩着せがましい言い方ー」
と行儀悪くストローで音を立てながら、山瀬さんは義一の隣でブーブー言っている。それには無視して、義一は私に続けて聞いた。
「二人してどんな話をしていたんだい?こんなに長い時間」
「えぇー…」
と言いながら、向かいの山瀬さんと目が合った。示し合わせたわけじゃなかったが、二人の気持ちは同じだった様だ。二人声を揃える様に言った。
「それは内緒ー。私達女二人だけのねー」
「?」
「じゃあごちそうさまー」
「ごちそうさまでした」
「いーえ」
私達三人は一緒に仲良く駅ビルの正面出口に出た。周りは丁度帰宅ラッシュなのか、立ち止まる私達を邪魔そうに避けながら人々が通り過ぎて行く。目の前にはロータリーがあり、バスが何台か停まっていて、その停留所にはスーツ姿がズラッと列をなしていた。
「じゃあ僕は途中まで琴音ちゃんを送って行くから」
「うん、分かった」
と義一に返事した山瀬さんは、私の方を向き満面の笑みで
「じゃあ琴音ちゃん、またね!あの図書館で会えるの待ってるから。いつでも来てね」
と小さく手を振り行こうとするので、少し躊躇したが、意を決して山瀬さんに駆け寄った。その様子を黙って見ている義一をよそに
「あっ…あのっ!」
と、声を掛けた。
「ん?何、琴音ちゃん?」
と山瀬さんは振り向いた。私は呼び止めて尚、逡巡していたが、何も言わずバッグの中からスマホを取り出すと、山瀬さんの前に突き出した。山瀬さんは不思議そうに
「えぇっと…琴音ちゃん?」
と聞いてきたので、私は意を決して
「あ、あのぉ…れ、連絡先、教えて、くれませんか?」
と軽く頭を下げて言った。
何しろ、いくら自分で言うのも何だが大人びていたとはいえ、大人相手に小学生が自分から連絡先を聞くというのは、大人が考えている以上にある意味勇気がいることだ。しかも、これはしつこい様だけど、人との距離加減を、普通の人よりも過敏に考えて生きていた私としては、余計に勇気がいることだった。
返事がないので、恐る恐る顔をあげると、山瀬さんは山瀬さんで、キョトンとした表情で固まっていた様だった。だが徐々に顔を微笑みで満たして、静かに手を伸ばし、私の頭を帽子越しに撫でながら優しく
「…こーら、さっきまでタメ口で話してくれたのに、また”ですます口調”じゃ、縮まったと思った距離がまた元に戻った様で寂しいぞ?」
と言いながらカバンからスマホを取り出した。
「…またタメ口に戻してくれるなら、連絡先、交換してもいいよ?」
と山瀬さんは、最後はあの意地悪風の笑顔で言った。私は何も言わず、ただ自然となった笑顔のまま頷き、スマホを近づけた。
「…よし、これでオッケー!何かあったらいつでも連絡してね?」
と言うとまた山瀬さんは歩き始めた。と思いきや、また立ち止まり振り返ると
「いつでもって言うのは社交辞令じゃないからねー!」
とニッコリ笑いながら大声を出し、返事を聞こうともせず歩き出そうとした。ここでまた私は言おうか言うまいか迷ったが、一歩前に歩み出し叫んだ。
「じゃあまたねー!…絵里さん!」
「……えっ?」
振り返った絵里をワザと無視して、私は義一の元に駆け寄った。そしてそのまま二人並んで帰ったのだった。こちらからは逆光だったし、一瞬だったのもあってはっきり見えはしなかったが、家に帰ってベッドに入っても、うっすら見えたあの別れ際の、見たこともない絵里の表情を寝付くまで思い出してはクスクス笑っていたのだった。
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