第8話 変化
最後に義一、絵里、そして私三人で会ってから、メールなどで連絡は取り合っていたが、想像していたよりもその後、そんなに会う機会に恵まれなかった。
我が家では毎年恒例のこととして、お盆になるとお父さんが一週間ばかり休みを取り、家族水入らずでどこか国内外問わず旅行に行くのが習わしになっていた。今年に限っていえば、お父さんが院長になったばかりだということで、もしかしたら休みがとれないかもとお母さんから聞かされていたが、何のかんの休みが取れたらしく、しっかり旅行に行ってきた。帰ってきても、ヒロに無理矢理外に連れ出されて遊びに行ったり、毎年開催される河原での花火大会、小学校で企画されたお祭り含む催し物に参加したりと、自分で言っては何だが”普通の”小学生らしい夏休みを過ごしていたら、結局最終日になっても直接会うことはなかった。
義一と再会するまでは、それなりに楽しんでいた夏の風物詩の数々、それなりにワクワクして楽しんでいたはずなのに、今年は何してても、今義一は何してるかがずっと心のどこかで引っかかり、あの古書に囲まれた空間で、古本の匂いに包まれながら本を読んでいるところを想像していたりした。
「へぇー、あの花火大会、わざわざ河原まで行って見たんだ?」
「うん。絵里さんも近所なんだし、見に行ったりしなかったの?」
「うーん、音は聞いてたけど…でも、あの花火大会ってカップルが多いでしょ?職場の人を誘うのも何だし、男の人だと誤解されそうだし、一緒に見に行くいい男もいないしねぇ」
「あ、だったら義一さんを誘えばいいじゃない(笑)」
「ちょっとぉ、今の流れでアヤツの名前を出すのは勘弁してー。あの男と見に行くぐらいなら、一人寂しくテレビで中継見ていた方がいいよ」
「はは(笑)そう言うと思った」
「でもそうねぇ、琴音ちゃんとだったら花火大会参加したいな。…どうしてもって本人が頼み込んで来たら、あの男も一緒に」
「そうだね、三人で遊びたいよ。花火大会に限った話じゃなく色々と」
「いいねぇー。これから色々楽しいこといっぱいしていこう!」
コンコン。
ベッドの上に女の子座りで、クッションを抱えながらスマホをいじっていると、ドアがノックされた。ドアを開けて、廊下に立っていたのはお母さんだった。
「琴音、いたの?いたのなら返事くらいしなさい?」
「うん、ごめんなさい」
「まったく、明日から二学期なんだから、忘れ物ないか確認して、今日は少し早めに寝なさいね?」
とお母さんは、私の部屋の時計を見ながら行った。私もつられて、赤を基調とした、数字が書かれているだけのシンプルな時計を見ると、ちょうど夜の十時だった。
「うん、わかったよ」
と返事する私がずっとスマホを手にしているのをチラッと見たが、特にその事には言及せずに
「じゃあ、お休みなさい」
とお母さんはドアを閉めながら、こちらに微笑みかけて言った。
「うん、おやすみなさい」
バタン。さて、グギも刺された事だしもう寝ようかな?
とスマホを覗き込みながら思っていると、私が返信する前に、絵里がまたメッセージを送ってきていた。さっきまでずっと、ひっきりなしに一分以上の間隔を開けずにやり取りしていたせいか、それについてのメールがきていた。
「今大丈夫?何かあった?」
「いや、何でもない。今お母さんに早く寝なさいって言われちゃった」
「笑。じゃあしょうがないね。私のせいで琴音ちゃんが怒られるのもなんだし、今日はこの辺にしときますか。じゃあまたね、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
私はそう送ると、スマホの電源を切り、眠りについた。
朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、櫛で髪を梳かしてから朝食を摂った。そしてランドセルを背負うと、キッチンで洗い物しているお母さんに後ろから声をかけて家を出た。
今日から九月だっていうのに、全く暑さはひくことなく、今日も猛暑日だとテレビの天気予報で報じていた。
はぁ、やんなっちゃうな…。
トボトボと通学路を歩いていると、T字路の突当りの壁を背に寄りかかっている女の子が見えた。終業式の日、一緒に帰った子だ。私の姿を見ると、数メートル先だというのに、元気に手を振ってきた。私もそれに応える。
「久しぶりー、元気にしてた?」
「うん、ボチボチよ」
私達二人は軽く挨拶すると、仲良く並んで学校へと向かった。その途中
「あれぇ?琴音ちゃん、肌白ーい」
と私の腕に自分の腕を合わせながら声を上げた。確かに相手の方は、万遍なく褐色色に染まっていた。
「そういうあなたは綺麗に焼けてるね?海でも行った?」
「…え?」
「…ん?どうかした?」
相手の顔を見ると、想定していなかったものにぶつかったような顔をしていた。その様子を見て私が益々不思議がっていると、女の子は少し言いづらそうに言った。
「な、なんか琴音ちゃん…夏休み明けて変わったね?」
「そう…かなぁ?どの辺が?」
と聞き返すと、まだ何か言いづらそうに答えた。
「い、いや…なんていうか、そのー…大人っぽくなったね?」
「そうかなぁ。変わらないと思うけど?」
「いや、変わったよ。何か、私のお姉ちゃんと話してるみたいだもん…あっ!おーい!」
と、その子は向こうで歩いてる同級生の女子達を見つけると、一目散にそちらに駆け出して行った。追いつくと女子達で月並みの挨拶をしあっていた。私は相変わらずペースを変えずに歩いて、そのグループに追いつくと、何か話した後なのか、女の子達は私にも同じように挨拶をしてきたが、どこか余所余所しい感じだった。いつも一緒にいる仲良しグループだったが、この感覚は初めてだった。
まぁ、いっか。
それからみんなは何故か早歩きでどんどん歩いて、行ってしまった。
まぁ、どうせ教室で会うんだからね。
今までのまま、走って追いつこうともせず歩いていると、急に背中のランドセルをバンバン叩かれた。
はぁーあ、このノリは…
「よっ!琴音!いい天気だな?」
とヒロが私の隣に来て笑顔でテンション高く話しかけて来た。私は大げさにため息ついて見せて返した。
「そうね。あなたの頭と一緒でね」
「ん?どういう意味だよ?」
「ノーテンキってこと」
「おいおい、登校初日にそりゃねぇぜー…っていいのか?」
「ん?何が?」
「アレよアレ」
とヒロが顎を何度かクイっと向けた先には、さっきの女子達が立ち止まっては振り返り、また歩き出すというのを繰り返していた。
「一緒に混ざらなくてもいいのか?」
と若干心配げに聞いて来た。
「まぁ、いいでしょ?教室でどうせ会うんだから」
「ふーん、まっ、お前がそれでいいならいいけどよ」
それから私達二人は、それぞれの教室に繋がる廊下で別れるまで一緒に登校した。
教室に着き、同級生達が私の姿を認めると笑顔で挨拶するために寄ってきた。それぞれに私も笑顔で挨拶を返していたが、この時、胸の奥で何か真っ黒な、どっしりと重量感あるものが置かれた感覚に襲われた。
「??」
「どうしたの琴音ちゃん?」
「大丈夫か、望月?」
「…え?あぁ、うん。平気。まだ夏休み明けで呆けてるみたい」
私は軽く胸辺りをさすっていたが、ふと周りを見ると、皆がこちらを見て心配して声をかけてきたので、慌てて戯けながら答えた。すると、一瞬間が空いたがドッと笑いが起きた。
「なぁーんだ、心配させるなよぉ」
「琴音ちゃんって、意外と抜けてるんだから」
「ははは」
「おーい」
ふと声がしたのでそちらを見ると、担任の男性教師がジャージ姿でドアの前に立ち、教壇の周りにたむろしていた私達を見ていた。
「ほら、散って散って。もうすぐ始業式が始まるぞ」
始業式も終わり下校の準備をしていると、登校の時一番最初に一緒に歩いていた女の子が話しかけてきた。
「あのー、琴音ちゃん?これからみんなで〇〇ちゃんの家に遊びに行くんだけど、一緒にどう?」
「そうだなぁ…。ゴメンっ!今日家に帰ってピアノの練習をしなきゃいけないから、また今度でいい?」
と私が答えると、ほんの一瞬不快感を顔に表したが、すぐ笑顔になって
「あ、う、うん!じゃあまた今度誘うよ!じゃあねー」
というと、私の返事も聞かずに走って行ってしまった。
やれやれ、今日はみんな何か変だな。
私は一人校門を出た。そして出てすぐの横断歩道で信号待ちをしていると、またランドセルを後ろからバンバン叩かれた。
まったく…他の呼び止め方を知らないのかコイツは。
「…何よヒロ?」
と振り向かずに言うと、背後から私の隣に来て
「よく、わかったな!さすがオレ達の仲だぜ」
と自慢げに言うので
「あのね…私、いきなり声をかけずに後ろから叩いてくるような、お猿さんと友達になった覚えはないんだけど?」
と心底呆れた調子で返した。ヒロは私の抗議にただ笑っていたが、次第に朝に見せた心配げな表情に変えて
「…なぁ?さっき向こうでお前がいつも一緒にいる友達が歩いていたけど、あっちに行かなくていいのか?」
と聞いてきた。
「あぁ、何か私がよく知らない女の子の家に遊びに行くみたいよ?」
と、何を心配されてるのか皆目分からないといった調子で答えた。
「誘われたけど、でも私、帰ってピアノ練習しなきゃだったから、断ったのよ」
「へ、へぇー、そうなんか?」
と、ヒロは心底意外だと言いたげだった。
「何?なんかおかしかった?」
「いや、おかしかねぇけどよ…何か、お前キャラ変わったな?」
「え、そう?そういえばあの子にも、朝言われたわ…あっ」
目の前の信号が変わり、若干音程の外れた童謡が流れた。私達二人は歩き出した。
「変わったって言われたってねぇ、自分じゃわからないよ。…ねぇ、ヒロ?」
と隣を歩くヒロに視線を向けて聞いた。
「私のどこが変わった?言ってみて?」
「うっ!そ、そうだなー…」
自分では気づかなかったが、かなりヒロに接近して質問していたらしい。ヒロは私から視線を逸らしながら、はっきりしない感じで答えた。
「い、いや、俺は”今”のお前を知っているから、変わったとは思ってねぇよ?」
「じゃあ何でさっきは”変わった”なんて言ったのよ」
と、私は余計にヒロに詰め寄った。ヒロは両手を前にして、それ以上近づかないようにとジェスチャーしながら
「それだよそれ!お前のその”なんでなんで攻撃”! いつも俺に対してソレしながら”圧”をかけてくるけど、他の奴ら、学校の奴らはそれに慣れてないんだから、いきなりソレしちゃうと相手は混乱すんだよ」
「何よ”圧”って…それに前から言ってるその”なんでなんで攻撃”って、当たり前のように言ってるけど何の事なのよ?」
「う、うるせぇーなぁ!と、とにかく!」
とヒロは立ち止まった。朝に通ったT字路だ。
「お前のその冷たさは俺しか知らねぇんだから、無闇に他の奴にはするなよ!あっ、いや、ほらっ!さっき言ったように他の奴らはびっくりしちゃうんだからな!」
とここまで言うと急に向こうへ駆け出した。
「早くキャラを戻せよーーーっ!」
と振り返り、捨て台詞を吐きながら。
「…何よアレ?アレで何か忠告したつもりかしら?」
一人残された私はボソッと独り言ちると、自分の家と向かった。
まったく、ヒロったら…好き勝手言ってくれちゃって。まぁ、アイツなりに私のこと心配してくれてるのは分かるけど…キャラがキャラがって、何を訳の分からな…
とここまで考えて、初めてハッとなった。
あれ?夏休み前、私クラスでみんなと、どうやって会話してたっけ?
不思議なことに思い出せなかった。しかもやればやるほど、記憶にかかってる靄が濃くなるようだった。その思い出せないことに一抹の不安があったものの、気にしない事にしてそのまま自宅に帰った。
「ただいまー」
「あ、おかえりー」
居間の椅子に座っていたお母さんをチラッと見て、自分の部屋のある二階に上がろうとすると
「琴音ー、ちょっといい?」
と声をかけてきた。
「何、お母さん?」
と階段に足をかけていたのを戻して、居間へと向かった。
お母さんは、普段私達が食事をしているテーブルの前に座っていた。近づいて向かい合うような形で座ると、テーブルの上に広げられた何枚かの書類にまず目が行った。
私が黙って紙の束を見ていると、お母さんから話を切り出した。
「あ、これはねぇ、学習塾のパンフレットなの」
「学習塾?」
私はその中の一枚を手に取り、向かいに座ってから聞いた。
「そう、あなたも今五年生でしょ?そろそろ中学受験のことも考えないとって、お母さんとお父さんで話していたのよ。それで…」
「…えっ!ちょっと待って!」
と、手に持っていた紙を置いて慌てて聞き直した。
「何?私って、受験するの?この近所に行くんじゃなくて?」
と聞くと、お母さんも一枚紙を手にしながら答えた。
「それはそうでしょ?だって、お父さんの同僚の橋本さん知ってるでしょ?予防注射を打ってくれた、お父さんの病院に勤めておいでの。あそこのお子さん、あなたと同じ五年生なんだけど、もう春から塾に通っているのよ。だからあなたも…」
「いやいや、その子のこと知らないからなんとも言えないけど、何で私も真似して塾に行かないといけないの?…あれ?っていうか、ピアノはどうするの?」
急に色々一遍に言われて混乱しながらも、私にとって一番大事な問題について聞いた。
「ピアノ?うん、ピアノは続けてもいいわ」
「え?じゃあ…」
「ちゃんと、両立出来るならね?」
と私の方は見ずに、お母さんは次から次へと、紙を取っては置きを繰り返しながら話した。
「え?…じ、じゃあ…もしやれなかったら…?」
と恐る恐る聞くと、お母さんは手を止めて、私の方を不思議なものを見るようにしながら答えた。
「それは、あなた…ピアノの方をしばらくお休みする事になるわね」
「…」
すぐに言葉が出なかった。今言われた言葉にショックを受け、頭が真っ白になり、言うべきことも見つからなかったからだ。
そ、そんな…ピアノが弾けないなんて…。そんな…そんなの…
「…ヤダ」
「え?何?」
ボソッと消え入るような声で言ったのを、お母さんは聞き返した。すると私は勢いよく立ち上がり、若干涙目になりながら
「そんなのぜぇっったいイヤ!ピアノが出来なくなるなんて、絶対にイヤだからっ!」
と大声で叫んだ。前触れもなく急に激昂している珍しい娘の姿に、お母さんはキョトンとして見ていたが、すぐに半笑いで、手で私を宥めるような動作をしながら
「こ、琴音ちゃん?何もピアノをやめなさいって言ってるんじゃないのよ?もし両立出来なければ、受験が終わるまでお預けって話で、終わったらまた続けて良いんだから」
と言った。でも、そんなこと言われても、私の興奮は収まらない。
「何で塾の方を優先しなくちゃいけないの?私に取っては受験なんかよりも、比べ物にならないくらいピアノが大切なのに!」
「受験なんかって…琴音、あなたねぇ…」
とさっきまで表情をあまり変えてこなかったお母さんの顔に、徐々に苛立ちがさしてくるのが見えた。口調も苛立たしげだ。
「あなた、この時期の受験がどれだけ大事かわかってないの?ピアノなんかいつでも出来るけれど、受験はこの時期にしかないの!あなただってわかってるでしょ…」
「ピアノなんかって何よっ!」
と私はまた激昂した。私達は共に立ち上がり、しばらく視線をぶつけ合っていた。さっきまでの喧騒とは裏腹に、今度は静まり返り、無言がこの場を支配していた。
少しの間均衡状態が続いたが、突然胸に強烈な違和感を感じた。それは先程学校で感じた、真っ黒い形容し難い重さを持ったナニカだった。息苦しいほどだった。私は俯き胸辺りをまたさすり始めた。
お母さんは私の様子を見て、先程とは変わり、心配そうな表情を浮かべながら聞いてきた。
「…え?こ、琴音?どうしたの?胸が痛むの?大丈夫?」
「だ、大丈夫…痛いわけじゃないから…」
「はぁ…まったく心配させないでよ」
とお母さんはまたイスに座ろうとしながら言った。私も、無言で同じように座った。胸の違和感はまだ強く残っている。
「…まぁ、急にこんな大事なことを言って、今すぐ決めてもらおうとしたお母さんが悪かったわ」
とため息でもつくように言った。お母さんの顔は微笑みとも取れるが、苦笑いだ。
「まぁ、琴音ちゃん。今すぐじゃなく決めなくても良いから、ここに用意した塾の案内だけでも目を通してくれない?」
とバラバラの紙をまとめて、片手でテーブルの上を滑らすように私の前に差し出した。
「そこにも書いてあるんだけど、体験入学っていうのもあるらしいの。それをしてから決めてもいいし…」
「…わかった」
と私は出された紙に、特に興味もないのに意味なく視線を落としながら、絞り出すように声を出して答えた。するとお母さんは軽く手を叩き、調子を明るくしながら私に言った。
「ありがとう、琴音!聞き分けよくしてくれて。さすが私達の娘だわ!」
「う、うん…」
私は俯いたままだったが、おそらくお母さんが満面の笑みであるのはわかった。
「さてと…あぁっ!」
と声を上げたかと思うと、何やらゴソゴソしだし、立ち上がった。
「もうこんな時間!じゃあ琴音、私買い物に行くけど、あなたも一緒に来る?」
と聞いてきたので、私は顔を上げ、力なく笑いながら
「…んーん、留守番してる。ついでにパンフレットでも見ているよ」
と言うと、お母さんは優しい笑みを浮かべながら、私の座っている近くまでわざわざテーブルを回って来て、私のことを抱きしめた。私も思わず抱きしめ返した。ほんの数秒そうしていると、お母さんは笑顔のまま立ち上がり、居間のドアの向こうからこちらに手を振って、外に出て行った。
玄関がガチャンと大きな音を立てて閉まってから、何分ほどだっただろう、ずっと変わらぬ体勢でいたが、意識している感覚が希薄なまま立ち上がり、トボトボと自分の部屋に引き上げた。もちろん紙の束を忘れすに。
部屋に入りランドセルを下ろして、紙の束を無造作に学習机の上にばら撒いた。 そしてほとんど無心のままに、詳しく細かく見る事もなく、一枚一枚スラスラと読み飛ばしていった。それぞれにそれなりの工夫が凝らしてあるのは見受けられた。ただデカデカと載っている、授業風景なのだろう、私と同年代と思われる男女が一様に黒板に向き、行儀よく熱心に授業を受けているような写真はどれも同じ構図だった。
「…はぁ」
と力無く溜息を吐き、散らばるのも気にせず大雑把に机に置き、私は顔を枕に埋めるようにベッドに横たわった。
はぁ…今日はなんか…疲れたなぁ…。
私は枕から顔を起こし、今度は仰向けになり、天井をジッと見つめた。おもむろに今日あった出来事を思い返した。学校でのこと、そしてお母さんとのこと。今更ながら、お母さんに対して、こんなに感情的になって反発したのは初めてだったかもしれない。そして、これも今更ながら、こんなに私の中でピアノを弾くということが、重要な地位を占めてるということに、自分のことながら気づかされた。
私って、思ってた以上にピアノ好きだったのね…。だったらなおさら、何で…
と今度は壁側を向くように横向きになった。
…何で私は好きでもない、みんなが言うところの”勉強”をしなくちゃいけないの?
何で他の同い年、親同士が知り合いってだけで、私も合わせて塾にいかなきゃいけないの…?
私は一度起き上がり、ランドセルからスマホを取り出すと、それを持ってまたベッドに戻り、さっきと同じ様に壁側を向く様に横になった。殆ど無意識に電話帳を開き、か行のところをタップして、義一の名前を探した。見つけ出し、その表示されてる名前のところを押すと義一のプロフィール画面になった。未だに”ガラケー”の義一のプロフィールは、電話番号とメールアドレスだけと言う、いたってシンプルなものだった。
表示されているその画面をジッと見つめ、ただ静かに思うのだった。
あぁ…早くまた、義一さんに会いたい…
「…とね…琴音?」
「…ん…?あっ…」
優しく揺すられてるのに気づき、目を擦りながら見ると、そこにはお父さんが微笑みながら、私が横になっている側に座って私の肩に手を置いていた。
「…お父さん」
「琴音、起きたか?夕飯の時間だよ」
「え?」
とまだ惚けながら時計を見ると、八時を少し過ぎてるぐらいだった。どうやらあれから寝落ちしてしまったらしい。
「あ、うん。今起きるよ…お父さん」
「ん?」
と先に部屋を出て行こうとするお父さんを呼び止めた。
「…おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」
「あっ、やっと起きてきたわね?寝坊助さん」
ちょうどテーブルの上に夕食を置いていたお母さんが、私の姿を見ると、いつもと変わらぬ笑顔で迎えた。昼過ぎにあった事は、もう忘れているかの様だった。
「あ、うん。いつの間にか寝ちゃった」
「もーう、しょうがないわねぇ。ちゃんと夕ご飯食べられる?」
「うん、お腹はペコペコ」
とお腹をさすりながら私が答えると、変わらぬ笑顔のまま言った。
「よかった!じゃあ、とりあえず顔洗ってきなさい?ひどい顔になっているわよ?」
「はーい」
言われた通りに脱衣所に向かい洗面台の前に立った。何の気もなしに鏡を見ると、そこには涙の跡がうっすらと残り、目を腫れぼったくさせている、ブサイクな私がこちらを見つめていた。どうやら寝ながら泣いていたらしい。
何も言われなかったが、おそらくお父さんもお母さんも、理由がわからないとしてもこの顔を見て、私が泣いていたことには気づいていただろう。その事を思うと、無性に恥ずかしくなり、少し乱暴に力任せに何度も冷水で顔を洗うのだった。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
お家にいる時には、食事の号令はお父さんが掛けて、お母さんと私が声を揃える様に続くと言うのが我が家の習慣だった。すぐ近くにテレビがあり、見える位置にあったが、一切つけずに食事をするというのもそうだった。同級生の話を聞く限り、今時珍しい、古風な習慣らしかったが、特にこれといって不平不満ストレスは感じなかった。そもそも普段から熱心にテレビを見ないというのが大きかったかもしれないけど。でも古風と言っても、無言じゃなきゃいけないというわけでもなく、テレビを見ない代わりに会話を楽しむという、直接聞いた訳じゃなかったが、そういった考えを持っていた様だった。主に会話の主導権を握るのは、もっぱらお母さんだったけど。
「あっ、それでね貴方?琴音に今日塾の話をしたんだけど、一応取り敢えず今は”前向きに”考えてみるですって」
「そうなのか?琴音?」
と、お父さんはお椀を持ちながら、向かいに座る私に向かって聞いてきた。
「え?…あっ、あぁ…うん」
と答えると、私は視線を逸らして目の前のご飯に集中するフリをした。歯切れ悪く返答したからかどうか分からないが、隣に座っていたお母さんが場の空気を変える様に、私の返事の続きを引き継ぐ様に明るく言った。
「ほ、ほら、橋本さん。あの奥様がこの間、わざわざパンフレットを持ってきてくれたでしょ?『お宅のお嬢様も、”もちろん”私学に通うのでしょ?もしよろしかったら、いかが?』っておっしゃりながら。あの時頂いたのを琴音に見せたのよ」
「ふーん、そうかい?」
お父さんはお母さんのテンションとは裏腹に、あまり関心が無いかのような態度を見せていた。私はただ、目の前の食事を黙々と集中するように食べていた。
ふと視線を感じたので顔を向けると、お父さんが静かにジっとこちらを見ていた。お父さんは、まるで私と目があうのを待っていたかのように無表情で聞いてきた。
「琴音、お前は本当に受験する気があるのか?」
「…うん、まぁ、今日言われて初めて自覚が湧いたんだけど」
自分でもしまったと思うくらいに、答えるまで不自然に間を空けてしまった。が、そこは私、今まで誤魔化し誤魔化し皆んなの望む”良い子ちゃん”を演じ続けてきた、確固たる芸歴があった。いつもの”良い子ちゃんスマイル”を顔中に浮かべて、何とか答えた。それを知ってか知らずか、今まで無表情を崩さなかったお父さんだったが、若干柔和な笑みを漏らしながら
「…そうか。琴音が望むなら、それで良い」
と言うと、今度はお母さんの方を向いて
「琴音が望んでいるのなら、お母さん、琴音が通いたいと思う塾に行かせてあげなさい」
と言った。
「わかったわ。琴音、ちゃんと自分のことなんだから、よーく考えるのよ?悩んだらいつでも相談して?」
と、お母さんは隣に座る私の頭を優しく撫でながら言った。私はなるべく笑顔を保ちながら
「うん、わかった」
と返答した。それからは、また取り留めのない話をし合ったが、あまりに取り留めがなさすぎて、今の私には何も頭に入ってこなかった。ただ、頭の中にはピアノのこと、そして義一の事しか無かった。
…結局お父さんもお母さんも、私がピアノをどうするかどうか聞いてこなかったな…
まぁ、分かっていたけれど…
なんて事を思いながら、頭に入ってこない会話に、取り敢えず無難に愛想笑いを振りまく私がそこにいた。二学期最初は、お世辞にも幸先良いスタートを切ったとは言えなかった。
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