第6話 ”親友”と”心友”
「え?お菓子の作り方を教えて欲しいの?別にいいけど」
と先生は私からの予想外のお願いを聞いて、少し戸惑っていた。
「いいけど、琴音ちゃんはそういうのは興味なかったんじゃない?」
「いや、いつも先生のお菓子を食べてて、自分でも美味しいお菓子が作りたくなっちゃって」
「ふーん…あっ」
と先生は何か察したのか、口元を緩めながら顔を近づけて来て、耳元で小声で
「何?とうとう好きな子が出来た?」
と、変な気を回して聞いてきたので、少し慌てながら
「ち、違いますよ。私はただ純粋に…」
と答えたが、私の弁明は聞いてもらえず先生は一人ウンウン頷いていた。
「いやいや、何も恥ずかしいことじゃないのよ?恋愛して、人生の機微を経験していけば、芸においても深みが出るんだから」
「だから、違いますって」
と言ったが、ちっとも取り合ってくれなかった。
「はいはい、じゃあこちらへいらっしゃい。まず簡単なのから教えてあげる」
夏休み。私のここ数年の過ごし方は決まっていて、学校が無いのも手伝って、週に二回とピアノを習いに行く回数は変わらないけれど、先生の厚意もあって、平日は夕方から二時間なのを、午前中から夕方になるまで、倍以上の時間を費やしてレッスンをしてくれていた。今は昼の中休み、いつもは昼ご飯食べに一度家に帰るんだけど、この日からは先生の自宅、その居住スペースにお邪魔して、キッチンを借りてお菓子作りも習うのだった。
「義一さん、ちゃんと私が言っておいた材料、買っておいてくれた?」
「もう、これで聞かれたの三度目だよ?大丈夫、ちゃんと用意しているから」
「じゃあ、明日楽しみに待っててね。おやすみなさい」
「おやすみ」
前と同じく、宿題と筆記用具、もちろん鍵も忘れずにトートバッグに入れて、お母さんには図書館に勉強しに行くと言って家を出た。義一の家までの道すがら、携帯から昨日の晩にやり取りしたメールの文面を見返しながら
「ふふ、これじゃ、どっちが楽しみにしているか、分かったもんじゃ無いな」
と苦笑しながらも足取りは軽かった。時刻はだいたい前回と同じ。昼の一時十分前を示していた。一度携帯をカバンに戻し、次に一切れのメモを取り出した。それは、ピアノの先生に教えてもらったことをメモした、簡単に作れるチョコブラウニーのレシピだった。懸命にメモってる私の姿を見て、微笑んでいた先生の顔がちらつく。
「えぇっと…コレをこうして…出来たコレを…」
と、一応頭に入れたレシピの手順を念入りに確かめるように、メモを覗き込んだ。
別に義一の家で、見ながら作ればよかったのかもしれないけど、初めて作るのに上手く卒なく作れる所を見てもらいたかった…のかもしれない。思い出しても小ちゃな見栄だけれど、中々我ながら可愛らしかったなぁ…と思う。
それはともかく、集中してぶつぶつ言いながら歩いていると、後ろの方から自転車のベルをしつこく鳴らしながら近づいて来る、聞き慣れた声が聞こえた。
「おーい、またお前はこんな所で何してんだよ?」
振り向くと、予想通りヒロだった。私は足を止めて、いかにも迷惑そうにしながら
「ゲッ、ヒロじゃない。何?私に何か用?」
「おいおい、ゲッて何だよ、ゲッて。相変わらず冷てぇな」
「何?こんなに暑いから、涼む気で、冷たい私に近づいたの?」
とすかさず突っ込むと、ヒロはため息混じりに
「相変わらず、何言ってんのか、分かんねぇ」
「分からなくて結構。今日はあなたに構ってる暇がないの。じゃあ」
と再び歩き出そうとしたら、ヒロは自転車を手で押しながら、私について来た。
「ちょっと、何で付いてくんのよ?」
と私がジロッと睨みながら言うと、ヒロは私がまだ手に持ってたメモに視線を向けながら
「だって、またこないだみたいに、訳わからんことをしようとしてるんだろ?」
「何よ、訳わからんって。いつものあなたの方が訳わからんわよ」
と毒突いたが易々無視して、メモを指差しながら
「ここ、結構車が来るから、お前みたいに一つのことに集中し出すと、周りが見えなくなる奴は危ないぜ?」
と言うと、一回鼻を指で擦ってから
「だから、俺が付いてってやるってんだよ」
と、ぶっきらぼうに言った。私はシッシッと手を振って
「それは親切にありがとう。気持ちだけ貰っとくから、もういいよ」
と追い返そうとしたが、通じなかったようだ。私のセリフは無視して
「で、今度は一体何事なんだ?また一人でブツブツブツブツ。俺だから良いけど、お前を知ってない奴が見たら、アブナイ奴にしか見えないぜ」
「あなた、私を知ってたの?私はあなたをよく知らないけど」
と、いつもの調子でからかった。するとヒロは少しムッとしながら
「もうそれはいいんだよ!…お前はこれからどこに行くんだ?」
「え?そ、そうねぇ…」
私は尻込みした。義一のことはヒロも一度会ってるから、最悪このまま付いてきても、一から説明しなくて済む分楽だけれど、問題は、私がお母さんに「図書館に行く」と嘘ついて家を出てきてる事。もしヒロが私の事を誰かに喋ったら、バレて全てが水の泡だ。
「おーい、何を黙ってんだよ」
ヒロは私の胸中など知らずに隣で、呑気な声を上げている。私はふと立ち止まり、声の調子を落として、ヒロの目を強く真っ直ぐに見つめながら聞いた。
「…ねぇ、ヒロ。今から私が言う事、誰にも言わないと誓う?」
「おいおい、何だ何だ。やっぱり面白い事を隠して…」
「ねぇ、ヒロ。…どうなの?」
と改めて強い目でヒロの目を射抜いた。するとさっきまでヘラヘラ笑っていたヒロだったが、少し真面目な顔つきになって、そして少し心外な調子で答えた。
「…おい、今までお前と約束して、破ったことが俺にあったか?」
そうなのだ。ヒロは普段からヘラヘラと笑ってお茶らけやって、良く言えば周りを明るくするムードメイカーで、私とは真逆の性格、混じり合わない水と油だ。本来なら一緒に付き合える筈がないのだが、少なくとも私の立場から言うと、数少ないヒロの長所、本人には絶対言ってあげないけど本当に素敵な長所のおかげで、気を許せていた。それは、私も含めて、誰も裏切ったことがないことだった。
普段誰かと一緒にいて、思い込みやすれ違いのせいで、している本人はその気が無くても、受け手から見て思っていたことと違う事をされると、多かれ少なかれ、自覚的か無自覚かはともかく、裏切られたと感じるものだ。その原因は細かく言えばキリがないけど、大体お互いに自分を良く見せようとか、下らない見栄をはる、もっと露骨に言ってしまえば”嘘をつきあう”ために起きる。その嘘がずっと続けられれば大丈夫でも、どこかでやっぱり無理が出て来て、アラが出た時に受け手がそれを見て失望する。
ヒロにはそこがない。良く見られようとか衒うようなことが、まるでない。あまりに能天気で、物事を深刻に考えずやり過ごしてしまう、たまに、いやしょっちゅう後ろから蹴りたいと思うことがあったけど、また褒めるようで癪だけど、自然とブレずに相手と裏なく付き合える性格に、私は何度も救われていたのかも知れない。
私は一回息を深く吐くと、力を抜いて話した。
「…今から、あの…叔父さん家に遊びに行くところなの」
「?叔父さん家…あぁ、この前の!」
と、ヒロは若干引き気味に言った。
「あの変わった叔父さんのところかよー。まぁ、でも、叔父さんだろ?何をそんな隠すんだよ?」
「それは…」
と、また私は口噤んだ。別に何も家庭内の事情を言うことはないからだ。しかも、今にして思えば、色々といわゆる”大人の事情”があったとは言え、過剰にしか見えないほど義一を毛嫌いするお父さんに対して、漠然と違和感を持ち始めていた時期だったこともあって、余計に詳しく言うのを躊躇った。
私は両手を胸の前で合わせて、頼むポーズをしながら
「…お願い!理由は聞かないで!ただ、私を見たことを内緒にしていて欲しいの!当然これから叔父さんに会いに行くことも」
「え?なん…」
とヒロは先を続けようとしたが、私がさっきのように強く視線を送ると、口を閉めて、少しの間何か考えてるようだったが、急に目を見開くと、言った。
「…よし!しょうがねぇ、わかった!このことは黙っておいてやる」
「ヒ、ヒロ…」
と私がお礼の言葉をかけようとしたその時、ヒロはニヤッと意地悪く笑い
「その代わり、俺も今からその叔父さん家まで付いていくぜ」
「え?…えぇー」
とさっきまでの感謝の感情は消え失せ、いかに不服かを示すために、語尾を伸ばしながら言った。相変わらずヒロはニヤニヤしながら
「別にいいじゃんかぁ。お前の叔父さん俺のこと知ってるし、あまり急に押しかけても、追い返すような人には見えなかったからな」
こいつは意外と人を見る目がある。それが厄介だ。
「それに余計なことはしないで、静かにしてるからさぁ。な、な、いいだろ?」
「あなたが静かにしてるなんて、今から突然冬になるよりあり得ないわよ…まったく」
とここで大きくため息をついた。仕方ないわね、お願いしてるのはこっちだし。
「はぁ、もう、わかったわよ!でも、いい?本当に大人しくしてるのよ?わかった?」
「はーい、ママ」
「誰がママじゃ、誰が」
再び私は歩き始めた。余計な相棒を連れて。
「はぁ、前もこんな感じだったなぁ…デジャビュよ、まったく…」
「ん?デジャ…え?何だって?」
「もう、なんでもないわよ。そう言えば…」
と隣で自転車を押すヒロに、今更ながら聞いた。
「あなた、今日何か用事があったんじゃないの?」
「ん?今日か?今日は何もない日だ。練習もないしな。家にいてもつまんないから、外に出ただけよ」
「ふーん…ってこれもまたデジャビュ…」
「だからその舌噛みそうなのは、なんだよ?」
「はぁ、あなたって、暇人なのねぇ」
とヒロの質問には答えず、大袈裟に顔中に憐れみの表情を浮かべて言った。するとヒロの方も、いかにもスネたような態度をしながら
「ヘイヘイ、悪かったなぁ。暇人で」
と言ったその時、前に義一に話してもらった内容を思い出した。あの後メールで「あんなに一方的に話してごめんね?話の中身も、あくまで僕の意見だから、参考までにしておいてね」と念に念を押してきたが、良かったのか悪かったのか、義一の思惑とは裏腹に、しっかり私は影響を受けていた。
「…いや、暇なのは悪くないよ。うんうん。ヒロ、良かったねぇ、暇人で」
「おいおい、馬鹿にしてんのか?」
「いやいや、はははは」
「?」
不思議がってるヒロを横目に、私は一人愉快になって歩き進めた。と、今までずっと手に持っていたメモを見ながらヒロが聞いてきた。
「なぁ、ところでその紙はなんだよ?さっきも一人でジッと見てたじゃんか?」
「あ、これ?」
私は少し足を早めてヒロの前に回り込み、とびきり意地悪い笑みを浮かべて言った。
「ふふふ、内緒。教えてあげなーい」
「なんだよー、ケチ」
「さあ、着いたわよ」
「え?ここか?」
義一の家の前に着くと、ヒロは私が初めてきた時と同じ様に、家を色んな方向から舐め回す様に見回した。一通り見てから、玄関前に戻ってくるなりヒソヒソ声で
「すごいな、お前の叔父さん家。ボロボロで、まるでお化け屋敷じゃん」
「あのねぇ…それを本人に言っちゃダメよ?」
「大丈夫だよ。いくら俺でもそれくらいわかってる」
「そう?じゃあ行くわよ」
と私は玄関に手をかけた。一応鍵は持って来ていたが、昨日メールで玄関を開けとくとの旨は聞いていたので、そのまま開けることにした。ガラガラと大きな音を立てて引き戸を開け、中に入ると、今日は初めから電気が付いていた。
「義一さーん、来たよー」
といつもの調子で言うと、居間の方のドアが開いて、義一が姿を見せた。相変わらず白いTシャツにジーンズと、ラフな格好をしていたが、今日はその上にエプロンをしていた。
「おぉ、いらっしゃい…おや?」
とすぐに義一の視線はヒロに向いた。ヒロは私と義一の挨拶に目を丸くしていたが、目が合うと、一度お辞儀してから明るく
「琴音の友達の、森田昌弘です。久しぶりです。お邪魔します」
「え?えぇーっと…?」
と当然の事ながらヒロを見つつ唖然としていた。そして今度は視線を私に向けて説明を求めた。私は無理に笑顔を作って
「た、たまたまここにくる途中で会ったの。何とか追い返そうとしたんだけれど、結局ここまで付いてきちゃって」
と言うと、横からヒロが
「おいおい、俺は野良犬じゃねぇぞ?」
「似た様なもんでしょ?」
二人でしょうもないことを言い合ってると、今まで黙っていた義一が笑みをこぼして、それからヒロに言った。
「いやいや。確かに何も言われてなかったから、多少ビックリはしたけど、琴音ちゃんの友達がせっかく来てくれたんだからね、こんなところだけど歓迎するよ」
「本当ですか?やったー!じゃあ、あらためて、お邪魔しまーす」
とヒロは靴を脱ぎ捨てながら上がり、あちこちを興味津々に見渡していた。
「あ、コラ!ヒロ!…もーう」
と、まるで実の母親かお姉さんの様に、脱ぎ捨てられた靴を整えていると、義一が顔を近付けて来た。そして小声で
「琴音ちゃん…」
と言いかけたので、私も小声でだけど
「義一さん、ごめんなさい!さっきも言ったけれど追い返そうとしても付いてきちゃったの…ごめんなさい、ついこの間約束をして誓ったばかりなのに…」
と慌てて言ったが、義一は優しく落ち着いた調子で
「うんうん、わかってるよ。僕の方もさっき言ったけど、琴音ちゃんの友達なら大歓迎なんだから。ただ…」
と言いかけ視線をヒロに送った。ヒロは何故か、トイレのドアを開けて覗き込んでいる。
「僕のところに、君が遊びに来てること、バレたらまずいね…お母さんに嘘までついてるんだし」
と今度は私のトートバッグに目を移した。私はバッグの紐をぎゅっと一度握ってから義一と目を合わせて
「それなら大丈夫!…だと思う。ここに来るまでに、よく言い聞かせて置いたから」
と多少なりとも自信ありげに言うと、義一はヒロの方を数秒見た後、また私に視線を戻し、そして優しい笑顔で
「そっか…それぐらいまでに、あの子を信用してるんだね?」
と聞いたので、私は強く頷いた。と、その時
「おーい、二人ともー、早くこっち来なよー」
と、ヒロが我が物顔で自分の家の様に振舞って、居間の中からこちらを覗き込みつつ、声をかけてきた。私は呆れて
「あなたねぇ…さっきの静かにしてるって約束はどうしたのよ?」
と私は文句を言いながら、靴を脱ぎ居間の方へ向かった。
「えー?そんな約束してたっけ?」
「あのねぇ…」
「…ふふ」
と義一も微笑みながら、私に続いて居間に入って行った。
居間に入りキッチンの方を見ると、私が予め頼んで置いたものが、所狭しと並べられていた。私は早速、軽くだけど一つ一つチェックをした。どうやら全部ある様だった。
その様子をヒロは黙って見ていたが、我慢ができなくなって
「おいおい、これから何をしようってんのさ?」
と言うので、義一は私に
「ん?あれ?ヒロ君には何も言ってなかったのかい?」
「え?」「え?」
私とヒロが、ほぼ同時に声を発した。私が何か言いかけるよりも先に、義一はヒロの反応に気付き、すぐに察した様で、まずヒロに向かって言った。
「あぁ、ごめんごめん。馴れ馴れしかったかな?いや、いつも、君について琴音ちゃんから、楽しそうに話すのを聞くもんだから、勝手に親しくなった気がして、僕も二人で話すときは”ヒロ君”って呼んでたんだよ。嫌だったかい?」
「え?あ、いやー…」
とヒロは何故か変に照れながら私の方を見た。そして義一の方を見て
「いや、大丈夫ですよ。なんと呼んでもらっても。ヒロ君でも、この野郎でも」
と言うと、義一は心から愉快だといった様子で返した。
「ははは、そうかい?じゃあ遠慮なく呼ばせてもらうね」
「あのー、お二人さん?」
と私がつまらなそうにブー垂れながら横槍を入れた。
「私の事、忘れていませんかね?」
「あぁ、いやいや、ごめんごめん。で、なんだっけ?」
「…いや、義一さんがいいなら、それでいいけど」
「ん?うん。あ、じゃあ改めてヒロ君、今日何するか説明するとね…」
義一は材料や食器などを並べてる所を指差しながら
「今日はこれから、二人…いや三人でお菓子作りをしようと思いまーす!」
と陽気な声をあげて、料理番組調に説明した。
「え?えぇー、お菓子作りぃー?」
と言うヒロの顔は如何にも不満そうだ。何を期待して来たんだ、こいつは?
「お菓子作りなんて女臭いことヤダよー。お前、こんな事好きだったの?」
と聞くので、私は腰に手を当てて、胸を張りながら答えた。
「あれ?あなたに言ってなかったっけ?こう見えて私って、女の子なのよ?女臭いことして当然でしょ?」
「うげぇ…」
私達のやり取りを、義一はまた笑顔で黙って聞いていたが
「じゃあヒロ君はそこの食卓で待っていなよ?僕ら二人で作るからさ。琴音ちゃんに教えてもらいながらね?」
と、材料の横に畳んで置いてあった、予備のエプロンを身に付けている私に向きながら言った。
「うん、任せといて。美味しくてびっくりするから」
と私も得意げに答えた。ヒロは少し疑わしげに
「ふーん…じゃあ、大人しく待ってるけど…あの琴音がねぇ…あっ!」
「え!?何!? ちょっとぉ、びっくりさせないでよ」
ヒロが急に素っ頓狂な声をあげたので、グラムを計っていた私はびっくりして言った。私は非難めいた視線を送ったが気にも留めずに、一人納得したように頷きながら言った。
「なるほど、あの時の紙は…」
「あ、わぁーーーーー!!」
とヒロが何を言おうとしてるのかがわかって、今度は私の方が大きな声を出して制した。義一が不思議そうな顔で
「ん?琴音ちゃん?どうかしたかい?」
と聞くので、私は動揺を抑えられないままに答えた。
「な、な、なんでもないよ!さぁ、早く始めましょ?」
「まず湯煎しなくちゃね。義一さん、ボールにお湯を溜めてくれる?」
「うん、わかったよ」
義一が、あらかじめコンロで鍋に入れた水を沸かしていたのを、ボールに移している間に、私は板チョコをパリパリと手で割っていった。思った通り、じっと待っていられなかったヒロが、私の手元で割られていくチョコを見ながら
「いいか、琴音。湯煎って言っても、湯に入れるって意味じゃないからな?」
と余計なボケをかましてきたので、私は若干イライラしながら
「あのねぇ、そんなベタなギャグをするはずないでしょ。ちょっと黙ってて」
「へーい」
「はい、琴音ちゃん。熱いから気をつけるんだよ?」
「うん、ありがとう」
お湯に浮かべた、一回り小さなボールの中に、今砕いた板チョコを入れてヘラで押し潰しながら掻き混ぜた。見る見るうちにチョコは溶けていった。義一の方はバターと砂糖を合わせて、黙々とまた掻き混ぜていたが、義一がハッとしながら
「あ、そういえば、琴音ちゃんに言われた量を用意したけど…」
と視線をヒロの方へ向けて
「この分量で足りるかな?」
と聞くので、私も手元から視線を外し、同じようにヒロを見ながら
「うん、大丈夫。元々四人分の量だったから」
と言うと、義一はニコニコしながら
「へぇ。でも、それだと彼が来てくれて良かったね。とても食べきれなかったよ」
と言うので
「いや、もし余ったら冷蔵庫に入れて、後でまた義一さんに食べてもらおうと思っていたんだけど…、まぁ、結果オーライね」
と私もやれやれと言った調子で笑った。会話を聞いていたヒロだけが、大袈裟に拗ねて見せていた。
義一は、ボールを一度置いて、卵を溶いて、それをまた加えて混ぜた。
「…よし、こっちは出来たよ」
「うん、こっちもとっくに準備オッケー。じゃあ…」
と私は自分が溶かしたチョコの入ったボールを義一のに近づけ、中身をそっちに注ぎ込んだ。そしてまた義一が混ぜると、茶色と白の二色だったのが、徐々に混ざり合い、段々と中和されてクリーム色になっていった。その様を横目で見つつ、私は小麦粉を篩に掛けていた。それをまた義一が掻き混ぜてるボールに入れると、流石に疲れたのか義一が弱弱しい声を出して
「…琴音ちゃん、お菓子作りをナメていたよ…あとどれくらいかな?」
と聞くので、私は少し意地悪い顔を作ってから
「もう、だらしないんだからぁ。安心して?もう掻き混ぜるのはそれでお終い。お疲れ様でした」
「はぁ…一度置くかな」
義一はテーブルの上にボールをカタンと置いた。どれどれと中を覗くと、ちゃんと先生の所で練習したのと同じのが出来ていた。良かった、大丈夫そうね。と私がホッとしていたのも束の間、急にヒロが立ち上がり
「隙ありっ!」
と腕を伸ばしてボールの中に人差し指を突っ込んだ。
「あっ、コラ!」
と私が怒ったのも後の祭り、ヒロは人差し指の先っぽについたブラウニーの元を口に運んだ。私は苛立たしくしていたが、義一は笑ってヒロに聞いた。
「どうだい、ヒロ君?お味の方は?」
「うーん、多分…まぁまぁ?」
とはっきりしないと言った様子で答えた。私は呆れ口調で
「そりゃまだ焼いてないんだから、そのまま舐めてもそんなにでしょう?もう、汚いなぁ…ほら、早く手を洗って」
「あいよー」
とヒロは返事すると、私達のいるキッチン内部まで来てシンクで手を洗った。義一は相変わらず笑顔のまま私に
「しっかし、コレ、生で食べて大丈夫だった?後でお腹壊したりしない?」
と聞くと、ヒロも
「え!?マジで?」
と手を洗いながらも、器用に私の方を振り返りながら同じく聞いてきた。私はため息一つして、型にクッキングシートを貼りながら答えた。
「大丈夫でしょ?…多分。それよりも、バイ菌まみれの指を突っ込んだことの方が心配よ」
型にさっき作った”元”を流し込み、オーブンに入れて170度に設定してスイッチを入れた。
私はホッとため息ついて
「…よしっ!後は出来上がるのを待つだけ」
と言うと義一は背中をポンと押して
「琴音ちゃん、お疲れ様。よく頑張ったね」
と言うので、私は素直に褒められて嬉しかったが
「いやいや、義一さん。褒めるのはちゃんと出来てからにして」
と恥ずかしいのを誤魔化すように、少しツンとした感じで返した。
出来上がるまで、義一は余った材料の整理、私とヒロはシンクの前に二人並んで洗い物をした。
「なぁ、どれくらいで出来るんだよ?」
とオーブンから香ってくる、香ばしく焼けるチョコの匂いに、鼻をスンスンと鳴らしながら、ヒロが聞いてきた。
「そうねぇ、大体焼き始めてから四十分くらいかな?」
と私は、シンクの位置から辛うじて見えるタイマーの文字盤を見ながら答えた。するとヒロは、手元でボールを洗いながら顔を上に向け
「えぇー…まだまだ時間があるじゃん。待ってる間暇だよー」
と泣き言を言っていたが、暇になる心配はなかった。
待っている間、義一がヒロに普段なにやってるか、好きなものは何かなど、根掘り葉掘り質問ぜめをしていたからだ。最初の方は義一の、子供相手でも遠慮しない攻撃に、ヒロはタジタジだったが、野球の話になると、途端に目を輝かせて自分からも進んで話し出した。私は、義一に出して貰った紅茶を飲み、相変わらずの義一と、ソコソコの付き合いのはずだったけれど、普段見たことのない笑顔で話すヒロを見て、微笑みながら横で二人の会話を黙って聞いていた。
チーーン。
作業を終えた事を、明るいベルを鳴らしてオーブンが知らせた。ゾロゾロと私達三人は、そんなに広くないオーブン前に集まり、義一が開けるのを今か今かと待った。すでにあたりには、濃厚な甘い匂いが漂っていた。
「じゃあ、二人とも。危ないから近づかないでね?」
と義一が恐る恐る、中から型の置かれたトレイを引っ張り出し、それを手前のテーブルの上に乗せた。わたしも恐る恐る覗いてみるとそこには、まだ湯気が立って、熱々なのを感じさせる、チョコブラウニーがそこにあった。その茶色い表面に若干ヒビ割れを見せていたが、これは先生の所で作った時にも出来ていたから問題ない。どうやら大成功のようだ。
「おぉー」
ほぼ三人同時に声をあげた。ヒロは湯気に手を近づけ、それを自分の鼻に向かって仰ぐと
「はーぁ、めちゃくちゃいい匂い!」
と満足げな声を上げた。私は嬉しさを噛みしめながら、ふと義一の方を見ると目が合った。義一は目を細めるとすぐに明るい調子で言った。
「よしっ!じゃあ、早速盛り付けて頂こうとしよう!」
義一が出した小皿を受け取り、各々チョコブラウニーをトレイから取って、食卓に座った。
「さてと…じゃあ」
と、向かいに座った義一が、私の隣に座っていたヒロに向かって微笑みながら言った。
「ヒロ君、琴音ちゃんに”いただきます”を言おうか」
「え、えぇー。いいよいいよ、そんな大袈裟な」
「うーん、まぁ考えてみりゃそっか」
とヒロは私の方を向いて、深々と頭を下げて見せながら
「それでは琴音様、有り難くいただきます!」
「ちょっとー、やめてよー」
私は半分戸惑い、半分引き気味に言った。義一も笑顔で
「うんうん、じゃあ琴音ちゃん、あらためて頂きます」
「め、召し上がれ?」
早速フォークで割って見ると、湯気の塊がモワッと出てきた。どうやら中までちゃんと火が通っているようだ。辺りは余計にチョコの匂いで充満した。私は自分が食べる前に、義一が食べようとするのを見ていた。口に運び、目を瞑りながら咀嚼してるのをドキドキして見ていると
「…おぉー!!美味いじゃん、琴音ー!」
と急に隣でヒロが大声で言ったので、その様を見ながら義一は笑っていた。私も隣のヒロを見て、少し眉を顰めたが、その様子を見ても気にしない様子でヒロは無邪気な笑顔で
「やるなー、女らしさゼロのお前が作る菓子なんて、どんなゲテモノが出てくるかと思えば、なーんだ、やれば出来んじゃん」
と言った。私は呆れ返ったが
「それはそれは、最高の誉め言葉をくれてありがとね」
とトゲを何重にも練りこんで返した。義一は私達二人の様子を見て笑みを浮かべながら
「さすが長年の友達だねぇ。琴音ちゃんのツボが分かっている」
と言うので私は義一にもヒロに対してと同じ調子で
「いやいや、ツボの外し過ぎにも程があるから!ヒロに毎度毎度押される度に、逆に体を壊してるんだから」
と答えた。と、まだ義一の感想を聞いてないのに気付き
「で?義一さんはどう?このチョコブラウニー…」
となるべく調子を変えないように気を遣いながら聞いた。本当のところはドキドキだ。
「そうだなぁ…うーーーーーー…」
と義一は腕を組むと、ヤケに語尾を伸ばして唸っていた。私が続きを待っている時、ヒロも静かに口にブラウニーを含みながら待っていた。と急に目を見開いたかと思うと、満面の笑みで
「ーーーんまい!美味いよ、琴音ちゃん!」
と言ったので、一瞬何も言えなかったが、私は苦笑いを浮かべて
「何よそれぇー。なんか古いよ、そのリアクション」
と言うと、義一は頭を掻きながら、私とは違う意味で苦笑いし
「えぇー…古い、のかぁー。ヒロ君もそう思う?」
と、また一切れ口に運ぼうとしていたヒロに聞いた。ヒロは口に入れてモグモグしながら
「残念だけど叔父さん、リアクションがなっちゃいないなー。まだまだだね」
と誰目線だか分からない調子でヒロが答えた。義一はあからさまにガッカリして見せて
「そうかー、中々だと思ったんだけどなー…」
と呟いて一瞬間が空いた後、三人顔を見合わせて大いに笑いあった。
「二人共、忘れ物ないね?気をつけて帰るんだよ?」
「うん、また来るね」
ブラウニーを食べ終わり、少しまたさっきの会話の続きをしたらすぐ五時になった。今三人は玄関前にいる。
「ヒロ君も」
と義一はヒロの方を向きながら、私に向けるのと同じ笑顔で言った。
「琴音ちゃんといつでもここに来ていいからね?」
「はい、またお邪魔します。じゃあ、さいならー」
玄関外で立っている義一が見えるギリギリのところまで行き、振り返って手を振り、家路についた。私達は途中、今日作ったブラウニーについて色々お喋りをしたが、一通り終わると、私はヒロに質問を投げかけた。
「ヒロは、ぎい…叔父さんの事どう思う?」
するとヒロは、紫色に暮れた空を見上げ、うーん…、と何を言おうか迷っているようだったが、顔を真っ直ぐに戻して答えた。
「そうだなー…やっぱり第一印象と変わらないな、この人変わってるなっていうのは。でも」
とここでヒロは私の方に顔を向けて言った。視線は逸らしながら。
「まぁ…凄く良い人だよな。俺みたいなガキにも友達みたいに話しかけて来るし。大人のくせにさ。お前が気に入るのも分かるよ」
「そ、そう?ふーん」
と、こっちが聞いたのに、特に興味が無いと言う体で生返事をしたが、正直に言えば、ヒロが義一に対して持っている感想が、純粋に嬉しかった。それから少しだけお互い沈黙したが、ヒロが静かに口を開いた。
「…で、でよー?」
「うん?何?」
「い、いつもアァなのか?」
「アァって、何がよ?」
と私が聞くと、ヒロは一瞬言い淀み、言葉を選んでいる感じだったが、意を決したのか、また静かに私を真っ直ぐ見て聞いた。
「そのー、叔父さんと、名前でいつも呼び合ってるのか?ほ、ほら、今さっきも義一って言いかけていただろ?」
「え?あぁー、その事?そうねぇ…」
と私が今度は空を見上げて、言うか言うまいか考えていたが、ここまで知られたら、今更隠すこともないと悟って、顔をヒロに向け、なんともない調子で答えた。
「まぁ、変わってるっちゃ変わっているよね、私と義一さんの関係は。…ヒロ?」
と私は一回溜めると、また言葉を続けた。
「私と義一さんは、叔父さんと姪っ子というより、心から通じ合える、心の友と書く方の”心友”同士なの」
「し、心友?叔父さんなのに?」
ヒロはあからさまに不信感を顔中に漂わせて言った。私は、その反応は想定内だったから、構わず続けた。
「そう、心友。いくらヒロ相手でも、詳しくは話せないんだけど、私と義一さんの出会いは、叔父さんと姪っ子という、ごく当たり前の関係が出来るようなものじゃなかったの。始まりから変わっていたの」
ヒロは黙って大人しく聞いている。
「しかも今ヒロが言ってくれたように、あの人、私達子供に対して、同年代のように接して来るでしょ?だから、今更叔父さんて呼ぶのもなんだかなって感じになっちゃって、それで名前呼びになっちゃったの。どう、理解した?」
と私は最後にヒロに暗々裏に同意を求める意味合いを込めて聞いた。
結局洗いざらい、丸々正直には話せなかった。でもあながち間違ってはいないし、話した時は本心からのつもりだった。
ヒロは今度は下を向き、うーんと唸っていたが、顔を上げ私の方を見た。その顔はさっきと少しも変わっていなかった。
「うーん…まぁ、俺はさっきも言ったように、お前の叔父さんにイヤな感じはしなかったし、それに何よりお前を信じてるから、お前がそれでいいならいいけどよ…でもよ、琴音」
とここまで言うと、今まで長い付き合いの中、初めて見る真剣な表情を見せて一言だけ言った。
「何とも自分でも分からねぇけどさ…気をつけろよ、琴音?」
「え?」
まさか忠告してくるとは思わなかったので、流石にビックリして聞き返した。
「気をつけろって…何に気をつけるの?」
と聞くとヒロは首筋をポリポリ乱暴に掻きながら答えた。
「だから、俺にも分からねぇってば!でも、わかったな?」
「わ、わかったわよ…あっ!」
「な、何だよ、今度は?」
と私が声を上げたので、ヒロは瞬時に身構え、目を見開きながらこちらを見た。
こうして反応しているのを見ると、こいつって猫みたいね…。などと、場違いな事を思いながら、今度は意地悪い顔を作り、ニヤニヤしながら言った。
「そう言えば、義一さんにヒロの事で話そうと思ってた、とっておきの話があったんだった!忘れてた」
「な、何だよ。とっておきって…」
益々ヒロは私に対して警戒心を高めた。それに相対するように私もニヤケながら言った。
「ほら、あなた、土手で義一さんを初めて見た時、女の人だと勘違いしてたでしょ?」
「あ、オイオイ!あれは…」
と急にヒロは元気になって、私に詰め寄り慌てて返した。
「あれはだってお前、あの叔父さんが男のクセに、女が持ってるような日傘を差して座っていたのが悪いんじゃないかよ!」
「えぇ、別に私はあなたが悪いって言いたいんじゃないよー?ただ、女だと勘違いした挙句、結構タイプだったのか、後ろを通る度にチラチラ見てたって事を、義一さんに教えてあげようってだけだから」
「おいおい、勘弁してくれよぉー」
「えぇー、どうしようかなー」
と言いながら、私は急に前触れもなく駆け出した。それを見たヒロは慌てて自転車に飛び乗ると、ペダルを漕いで私の後を追いかけた。
「おーい、琴音ー。待てってばー」
「待ったなーい」
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