第87話 文化祭前日

 文化祭を数日後に控えた静蘭学園。

 授業が終わってからも文化祭実行委員会はめまぐるしい忙しさとなっていた。


「高城先生、2年5組の火器使用の承認書類がまだありません!」

「小杉先生に直接伝えてきてくれ! いなかったら申し訳ないが出店は禁止だ!」

「先生! 暗幕が足りないと演劇部から苦情が来てます!」

「被服部の部室に去年のあまりがあるはずだから! なかったら、申請書類を書いてくれ」

「先生! サッカー部が出し物の一環として一般客のPK体験をやらせてほしいと希望がありました!」

「それは2日目の午前中だけ許可した」

「先生! 1年の文化祭実行委員会のカップルが校舎の端でいちゃついてます!」

「とっとと連れて来い!」


 俺は書類に目を通しながら判を押す作業や設備の見回りなどという作業に追われていた。


 静蘭の文化祭は各学年、各クラス、部活のほかにも地域の有志団体なども出店する。ほかにも、もしものための消火設備の配置、避難経路の確認などと非常時の確認も必要だ。

 それらをすべてチェックしていくとなるとやはり忙しい。さらに、屋台の設置などを考えば、このペースでいくと文化祭の前日は泊まり込みでの作業になりそうだ。


 今は文化祭の出し物の最終確認を行っていた。


「やはり、喫茶店とかが多いですね」

「ああ、火器を使うには十分気をつけるように再度通達な」

「はい」


 文化祭実行委員会の生徒には、対策が記してある書類を渡して各教室に配らせるように手配した。


「先生! 小杉先生がいません!」

「はあ!?」


 なんでこんな時にあの人いないんだよ。


「ちょっと行ってくるから。俺のサインが必要な書類は机の上に置いておいてくれ」


 職員室にいないとなれば自分の担当クラスにいると思った俺は2年5組の教室まで小走りで向かう。

 道中は文化祭の準備のために追われる生徒たちでごった返していた。

 そんな生徒たちの間をすり抜けて俺は5組の教室の扉を開けた。生徒たちは文化祭の準備を楽しそうに行っているが、その中に小杉先生の姿は見当たらない。


「小杉先生は?」

「あ、いえ。わかんないです」


 準備をしている5組の生徒に小杉先生の所在を尋ねるが、わからないと答えられる。

 連絡を試みるが何度も電話をかけてもつながらない。


「文化祭での出店なんだけどな」

「はい、コーヒーハウスを……」

「5組には火器の使用許可が下りてない。申し訳ないが、このままだと出店そのものが禁止になる」

「え!?」


 俺が話している生徒だけではなく、クラス全体に動揺が広がる。

 火器の使用は小杉先生の許可印が必要になるし、前もって説明しておいたはずだ。


「そんな……何とかなりませんか?」

「こればっかりは俺の一存で決められることじゃないからな」


 それだけ教室内で火器を扱うとなるのは危険だ。

 当日は人でごった返すだろうし、限りなくリスクは少なくしなければならない。


「あの、それなら私の許可ではいけませんか?」

「七宮先生」


 クラス担任がおらず、教育実習生が残っているのは疑問なところだ。


「さすがにな……」

「みんな一生懸命準備してるんです。それを中止なんて……」


 生徒や七宮の気持ちはよくわかるが、さすがに火器の使用となれば甘く見るわけにはいかない。

 使用の許可が下りていない火器が暴発すれば火事に発展しかねないからだ。

 それに、許可の下りていない火器の使用が分かった際には生徒にも大きな罰則が与えられることにもなりかねない。


「今日中に小杉先生が捕まればなんとかなるんだが……」

「小杉先生は……用事があるといって今日はもう戻ってきません」

「……」


 そうなると諦めてもらうしかない。

 だが、告げるのは気が引ける。

 俺が何を言いたいのかわかった生徒たちの不安そうになる。


 ――しょうがないか……。七宮に頑張ってもらうことになるけど……。


「……裏技はある」

「え?」


 七宮と5組の生徒たちは俺の方を見る。


「……出店が禁止になる理由は火器なんだよ。それさえ除けばあとはどうにでもなる」

「でも、珈琲を淹れるんですよ?」

「水出しコーヒーとかであれば火を使わないで済む」

「そ、それならやってもええんですか!?」


 興奮した七宮は方言が出ている。

 5組の子たちも嬉しそうな声を挙げる。


「ああ、お茶請けなんかは市販のものを使えばいいし」

「あ、ありがとうございます」


 七宮は俺に対して頭を下げる。


「ただし、今から書類の作成が必要になる。それも今日中に提出してもらうことになるけど、大丈夫か?」

「はい! やります! やらせてください!」

「なら、書類の作り方を教えるから七宮先生は俺と一緒に職員室に来てくれ」


 俺はそう伝えると七宮と一緒に教室の外へと出ていく。


「高城先輩。ホンマにありがとうございます」

「気にすんなよ。お前が不在の小杉先生の代わりに5組の面倒見てるんだろ」

「あ、はい……」


 いつも寝不足なのは俺と同じように文化祭の準備に追われていたからだ。

 こいつは自分の課題のほかにも5組の文化祭準備を手伝っていたのだ、もう十分すぎるほどに頑張ったのだが、もうひと踏ん張りしてもらう。


「書類の提出期限はなんとかしてやるから。今日中に仕上げろよ」

「はい!」


 職員室にはほかの先生方も準備に追われているためか誰の姿もなかった。


 俺が七宮に必要な書類を説明し、作業を取り掛かってもらう。


「必要な物品からは火器を除いておいてくれ」

「あ、あのコーヒーパックとかは?」

「茶葉を入れたり、だしを取ったりするためのパックでも十分だ。それなら調理室に置いてある」

「はい」

「ただ、水出しコーヒーは時間はものすごくかかる、当日やってたらとても間に合わない。前日に冷蔵庫に入れておく必要があるから、調理室の冷蔵庫の設備の使用許可も必要になる」

「それはどうすればええんですか?」

「俺の名前で書いていい。火器ほど使用に厳しいわけじゃないから」


 分からないところはその都度質問を受け付けて書類を作成していく。

 このペースなら今日中に書類をまとめ上げられそうだった。


「失礼します。あの、高城先生」

「ん?」


 職員室のドアを開いてやってきたのは5組の生徒だった。


「あの、僕らはこのまま文化祭の準備を進めても大丈夫なのでしょうか?」

「ああ、すまん。連絡してなかったな。ちょっとした変更点があるから……」


 5組の生徒に変更点を伝えると、それをメモしていく。


「よかった……一時は本当どうなるかと思いました。ありがとうございます」

「礼なら七宮先生にだな。先生が書類を作るって言ってくれなかったら、申し訳ないが中止になってたよ」

「……はい」


 その子は七宮の元へ向かうと七宮に対して頭を下げる。

 七宮は少し照れながらも、嬉しそうな笑みを生徒に向けていた。


 ……

 ………

 …………


 文化祭の最終準備日、今日は午後のすべての授業が文化祭の準備にあてられる。

 今日ばかりは一部の例外を除いて部活は休止だ。

 校庭には地域の有志団体の出店の屋台が着々と設置されつつあり、校内もすでに文化祭一色と化していた。


 ほとんどの生徒がせわしなく校内を動き回っている。

 今日だけはどうしても間に合わないクラスは泊まり込みでの作業も許可されている。

 特に寮の使用を優先されるのは演劇部や軽音部など本番までの時間をリハーサルに当てたいという部活の希望者が多い。

 計画通りに事を進めてきたが、何かしらのトラブルが起こるのは常である。文化祭実行委員は設備や校内の見回りということもあり教師の中で行われた厳正なくじの結果、俺ということになった。


 1組ではもう文化祭まで授業もないので机を並べ、テーブルクロスを敷きカウンターなど準備をしていた。黒板にはでかでかと『文化祭まであと1日!』と黒板アートが描かれていた。明日にはまた違った絵が描かれているだろう。

 当日は調理班と接客班、準備班とそれぞれに班をわけて、臨機応変に対応していく。


 高いところの飾りつけは男子たちに任せてある(女子がスカートなので俺がやらせた)。


「センセ! 紅茶を淹れてみました」


 カレンが店で出す用の紅茶と小さなパンケーキを俺に差し出す。

 今はメニューの確認として試作を行っているところだった。

 教室内でできるものとなると簡単なものになるが十分だろう。

 それに、ケーキとか本格的なものは知り合いの店に発注してある。とりあえず、やりたいものは全部やってみるつもりだ。


「ありがとう」


 礼を言い、紅茶をもらう。

 ティーパックなどの安い物ではなく、ちゃんと茶葉から抽出したものでいい香りが教室に立ち込める。パンケーキも盛り付けにこだわってあるようで綺麗に作られている。女子に人気が出そうだ。

 メニューは特別なものを作りつもりもない。

 それに、接客もコスプレ以外には特別することもないので飲食店でのバイト経験者が簡単な指導をしてある。


 俺が席に座るとみんなも自分の分を淹れると休息をとるようだった。


「このパンケーキ美味しい! 中身ふわふわ~」


 歩波は嬉しそうに夕葵が焼いたであろうパンケーキを食べている。


「そ、そうか。下ごしらえをしたのは観月なのだが」

「それでも十分すぎるよ」

「お前には絶対できないもんな」

「私だって練習すればそのうち……」


 できれば俺のいないところでやってほしいな。


「そういえば、歩ちゃんって今日は学園に泊まりなの?」

「ああ、夜遅くまで練習したいっていう生徒もいるし、宿泊をするには教師の付き添いが必要だからな」

「いいな~楽しそう」

「憧れます」


 確かに学校に夜遅くまで残って文化祭の準備をするのは学生ならではのことだろう。俺だって憧れた子もあったし、観月やカレンがあこがれる気持ちもわかる。今日ばかりは寮の食堂のおばさんたちも大忙しだろうな。


「観月たちは明日から部活で作った料理を出したりするんだろ?」

「うん。食べに来てね」

「ああ、見回りで行くこちになると思うからその時にご馳走になる」


 料理部では毎年、自分たちで作った料理を出している。

 その日は料理部が食堂の丸々使う。そうでもしないと毎年人が座れなくなってしまうほどの盛況ぶりだと聞いている。


「弓道場にも来ていただけるのでしょうか?」

「ああ、そういえば弓道部の出し物で的あてと弓道体験をするはずだったよね」

「はい。的あては小さい子向けの簡単なものですけれど、実際に弓を引く姿を見てもらってりするんです」

「文芸部も文集を出します!」

「……ちゃんとした文集?」


 文芸部と聞いてBL関連を連想してしまうのは俺の偏見ではないはずだ。


「ちゃ、ちゃんとした文集ですよ。う、薄い本はちゃんと会員にしか……」


 「薄い本」とか「会員」ってなんだよ。

 文芸部の内容にそんなこと一言も書かれてなかったぞ。


「そういえば、涼香は?」

「あの子は文化祭実行委員会の仕事で設備の見回り中だ」


 ◆

 涼香


「さ、桜咲さん! 俺と付き合って下さい!」


 文化祭実行委員会の仕事設備の見回りを行っているときに一人の生徒に呼び出されると、男子生徒の先輩に告白された。

 同じ文化祭実行委員会で顔は知っている。

 普段はあまり話したことのない人だったけど、この文化祭の準備期間は結構話したような気がする。


「……ごめんなさい」


 私は頭を下げていつも通りの断り方をする。


「…………そうか」


 告白をしてくれた人はわかりやすく肩を落として去っていく。

 そんな背中を私はちょっと申し訳なく思いながら見送った。


 私は仕事を再開するために校舎へ戻っていく。

 廊下を歩いていると女子たちの話声が聞こえた。


「え? 桜咲さんって斉木先輩の告白断ったの!?」


 私の名前が聞こえて思わず足を止めてしまう。


「さっきここから見えたんだって! 絶対告白よ!」

「断ってたの? あれだけ仲よさそうなとこ見せつけておいて?」

「斉木先輩カワイソー、期待させるだけさせられてさ」

「いつもそうじゃん。ちょっと見た目がいいからって調子乗ってるよね」

「去年のミス静蘭だからってさー」

「思わせぶりな態度を取られて男子もかわいそうだよね」

「ってゆーかさ、別にあんまり可愛く無くない?」


 女子の話っていうのは陰湿なことが多い。

 誰かを貶めたいときはみんながそれに共感をする。

 ここで、ヘタに反対の意見を言おうものなら今度は自分が淘汰されるから周囲に合わせないといけないから。

 自分の心の内を読まれないように必死に本心を隠す。だから、天井知らずに悪評は広まっていく。


 ――それが、人を傷つけてもいい理由にはならないけれど……


 ◆


 一般の生徒はすでに準備を終えて帰宅している時間帯。

 学園に残っているのは明日、明後日に本番を控えた演劇部や軽音部、文化祭実行委員会と顧問となっている教員だけだ。


「だから! なんで僕のクラス出展内容が勝手に変更されているんだよ!」


 教員の数も少なくなった職員室で大きな声を挙げているのは小杉先生だった。

 怒鳴っている相手は、七宮だ。


「勝手なことをしてすいません! ですけど、あのままでは出店そのものが禁止になっていたので」

「僕を差し置いてクラスの担任面か。いいご身分だな!」

「相談しなかったのは申し訳なかったと思っています……」


 七宮は頭を下げ続けているが、小杉先生はさらに七宮を糾弾し始める。


「実習生は実習生らしく僕の言うことを聞いておけばいいんだ。これじゃあ、実習の継続も考えないといけないな」

「そんな……」


 教育実習は1か月間行われる。

 その間に問題のある実習生は途中で実習の中断を言い渡されることもある。だが、それは問題のあればの話だ。七宮に適応されるとは思えない。


 ――まあ、俺も一役買っていることだし


 俺は小杉先生に声をかける。


「小杉先生は、5組の出店が禁止になりかけた理由をご存知ですか?」

「な、なんだそれは……」


 俺に驚いて小杉先生が一歩下がる。

 やっぱり知らなかったか。


「小杉先生がいつまでたっても火器の使用許可を申請しなかったからですよ。俺、ずっと前から言っていたはずなんですけど」

「き、聞いてないな」

「いいましたよ。教室内での火器の使用がどれほど危険かご存じないんですか?」


 ましてや教室内で使うガスとなるとカセットコンロなどは暴発の危険が高い。それを知らないのに、よく室内でコンロを使おうと思ったものだ。


「僕を馬鹿にしてるのか!」

「してませんよ。ほかのクラスはちゃんと許可をもらって火器の使用を認めているんです」

「ほかのクラスが使うのならウチも使うことだって予想はつくだろう」

「5組だけ特例というわけにはいきません」


 何を言っているんだろうかこの人は……。


「使用許可が下りていないのに火器を使用した場合は、そのクラスの出店は認められないことも説明してあるはずです」


 俺は文化祭のしおりを指さしながら説明する。説明した場には確かに小杉先生はいた。小杉先生自身も覚えがあるのか、バツが悪そうに口元をわずかに動かす。


「七宮先生がそれは可哀そうだからということで、自分の仕事でもないにもかかわらず、率先して準備してくれたんですよ。だから、火器を使用しない店の出店ならばと許可したんです」


 それを叱るどころか、むしろ感謝すべきことではないかと俺は思う。

 この人は自分のいないところで物事が勝手に進んでいるのが気に入らないだけだろう。


「だ、だったらキミもその時に僕に伝えてくれれば……」

「俺も小杉先生に何度も連絡しましたが、繋がりませんでした。折り返し連絡することもできたはずです」

「そ、それは気が付いたのが遅かったから迷惑だと思って……」


 俺相手にそんなこと気にする人ではないと思うのだが……。


「とにかく、変更については七宮と俺で決めました。苦情がある場合は俺が受け付けますので、それにこのことは江上も納得の話です」

「え、江上先生に話したのか!」


 焦ったように小杉先生は言うが、当然だ。

 俺は実行委員の顧問だとしても2学年のことについて学年主任のことについて話さないわけにはいかない。


「それと、江上先生が文化祭が終わったら小杉先生に話があるそうです」


 それが一体どんな話かは知らないが、決していい話ではないはずだ。

 江上先生には文化祭の準備を生徒や七宮に丸投げしていたことや七宮への対応を疑問に思っていた先生方から多数の報告が上がっている。


 青い顔をしている小杉先生にこれ以上の追い打ちは必要ないだろう。


 ……

 ………

 …………


 とりあえず、仕事がひと段落したので宿泊道具をもって寮へと入る。

 寮内ではすでに夕食を取り終えた生徒たちがつかの間の休息をしているところだった。というより、卓球する気力があるなんて元気だな。


「あ、高城先生も一緒にどうですか!?」

「そんな気力ねーよ」


 なにより、まだ仕事が残っているのだ。

 不審者や不審物に対しての見回りや、施錠の確認などとまだやることがある。


 寮の食堂で夕飯を受け取ると適当な席に座る。

 夕飯はほとんどの生徒が摂り終えたようで、食事を摂っているのは俺ともう一人――、


「高城先生、ここよろしいですか?」

「ん、どうぞ」


 涼香が俺の真向かいの席に座る。随分と遅い夕食だ。


「今までずっと仕事してたの?」

「仕事というより、ただ見てただけですけど……」


 ちょっと声にどこか元気がない、疲れているのだろうか。


「今日は風呂に入ったら休むように。明日からが本番なんだから」

「高城先生の方がお疲れでは?」

「男と女の体力を一緒にしない」


 これは男女差別というより、区別だろう。

 それに、俺は教師だ。生徒にすべてを任せるわけにはいかないし、裏方は俺たち教師の仕事だ。


「この後も何かあるんですか?」

「演劇部とかが戻ってきてからの校舎の見回り」

「……大変ですね……」


 普段は警備の人にすべて委託してあるのだが、明日・明後日と忙しい日々が続くので今日くらいは教師が行うこと言うことになっている。




 夕飯を食べ終えてから、風呂を済ませる。今日は男子は風呂はつかえないので校内のシャワーで済ませた。

 居室で本を読んでいると食堂が騒がしいことに気が付く。どうやら、遅くまで練習をしていた生徒が帰ってきたようだった。


「……いくか」


 これさえ終われば、今日の俺の仕事は終わりだ。


 懐中電灯と校舎のカギを持っていることを確認すると、俺は寮を出て校舎へと向かう。


 すでに外は暗闇に覆われていた。

 月明かりも少し心もとないので懐中電灯の明かりをつけた。


「文化祭前日っていうこともあって、いつもと雰囲気が違うな」


 後者から垂らされている垂れ幕やキャラクターが昼間とは違った雰囲気がある。


 ――ジャリ…………


「ん?」


 物音が聞こえたのでそちらへと懐中電灯を向ける。

 だが、そこには誰もいない。猫でもいたのだろうか。


 校舎の中に入る。玄関は軽音部が出入りしてたので鍵は開いていた。

 扉を閉めると、俺は校舎内を歩きだす。


 ――バタン……


 扉の閉まる音が確かに聞こえた。

 小さな音だったが、聞き間違いないではない。

 俺以外の誰かが入ってきたのか。

 俺は気になってきた道に踵を返すと、玄関前にたどり着く。


 もしかしたら、軽音部や演劇部の子が忘れ物でもしたのかと思ったが誰もいない。

 来た道は一本道だったから必ず会うはずなのだが、誰もいないのだ。


 俺は念のため鍵をかけて、もう一度校舎の中を見回ろうと歩き出すと――、


「ワァーー!!」


 と、いきなり誰かが声を挙げ靴箱の影から飛び出してきた。


 ――不審者かっ!


 以前の合宿でも覗きが学園に侵入してきたことがあったせいか、身体が即座に動いた。


 薄暗い中とっさにそいつの手を掴み、壁に押つける。


 背は小さい。

 肉付きは華奢だが、柔らかい。

 驚いたのか「きゃあ!」とかわいらしい声が挙がる。


 その声の主に気が付いた時には彼女の顔が俺の数cmほどの距離にあった。


「あ……」


 吐息が俺の顔にかかった。


「す、涼香!?」


 涼香はビクつく眸で、縋るようにして俺を見上げていた。


「せ、先生……」


 次の瞬間には、何を言ったらこの状況を回避できるのかと頭をフル回転させていた。


「……あ、あの離してもらっても?」

「――ッああ、ゴメン」


 俺はつかんでいる彼女の手を放す。

 「不審者=男」だと思って、思いっきりつかんでしまった。腕に痣や怪我をさせてはいないだろうか。


「痣とかできてないか?」

「だ、大丈夫です。ちょっと軽く頭を壁にぶつけた程度で」

「すまん。不審者かと思った……」

「私の方こそ、すいません。驚かそうと思ってましたから、逆に驚かされちゃいましたけど」

「そうかそうか(ぐしゃぐしゃ)」

「先生! 髪をぐちゃぐちゃにしないでください!」


 教師をからかおうとした生徒にはこれくらいはいいだろう。

 さっき涼香のに手を伸ばしてぶつけた場所を確認したがコブとかはできていなさそうだった。怯えさせたかもしれないが、怪我をさせることはなくてよかった。


「じゃあ、もう満足だろう。寮に戻りなさい」


 俺が乱した髪を手櫛で整える涼香に寮へ戻るように促す。


「……このままついて行っちゃだめですか?」

「え?」

「夜の校舎ってこういうことがないと、なかなか入ることができないじゃないですか」

「まあ、そうだけど」

「それに1人で寮に帰るのって危ないですし」

「…………」


 校内に不審者が出没したこともある。

 このまま1人で帰すよりは一緒にいたほうがいいか。


「なら、1人で勝手にうろつかないようにね」

「はい」


 二人で校舎の中を見回ることになった。

 廊下の電気をつけていくのでそれほどホラーな印象はなくなるが、普段は人でにぎわっている校舎に人がいないとなるとどこか不気味さがある。

 涼香も怖いのか、俺の服をちょんとつまんでいる。これは夕葵のことはからかえないだろう。


 教室内は明日の文化祭様式に代わっており、クラスごとに机の配置が異なっている。

 床には装飾用の飾りが散らばっている。明日の朝に仕上げてしまうつもりなのだろうか。散らかしっぱなしというのはいただけないが踏まないように気をつけないと。


「なんだか、文化祭まであっという間ですね」

「そうだなぁ。忙しかったけど」


 俺と涼香は明日の文化祭のことを思い、しみじみとそんなことを思う。


「そういえば、涼香はどうして文化祭実行委員になろうと思ったんだ?」


 委員会を決める当時のことを思い返せば涼香は真っ先に文化祭実行委員に立候補していた。まあ、その後男子どもが彼女と一緒の委員会に入ろうと立候補が増えたのは言うまでもない。


「母が静蘭のOGというのはご存知ですか?」

「まあ……」


 文芸部経由だが知ってはいる。


「母に連れてこられて小さいころから静蘭の文化祭にずっと憧れていたんです。そのうち、夕葵も誘っていくようになりました。だから私も静蘭に入学したらこの文化祭に携わりたいなって思っていたんです」


「思っていたより忙しかったですけど……」と小さく苦笑する。


「なら、それが涼香の小さいころの夢だったんだ」

「あ……はい、そうなんだと思います」


 涼香は何かに気が付き納得した様子だった。


「先生は高校の時の文化祭で何かされたんですか?」

「俺たちはサッカー部でたこ焼きの出店をやったかなぁ」


 その時はなぜか俺と透が店番にさせられた。

 俺と透のような素人が作るたこ焼きなんて売れるのかと思ったが、やたらと売れたのだ。女性客が多かったのをよく覚えている。


 高校生の文化祭というのは大人になっても記憶に残っている。それほど印象が強い行事だ。


「みんなに楽しんでもらえると嬉しいです」

「そうだね」


 文化祭の用意がされている夜の校舎を涼香と2人で歩きながら同じことを思った。


 階段を上り2年の教室のある廊下を見回る。

 1年の教室と同じように1つ1つの教室を見て回らなければならない。

 その中には当然、7組の恐怖の館もある。俺たちは8組の教室を終わり、7組の教室の前に立っていた。


「涼香って怖い物とか平気か? 外で待っててもいいけど」


 ここまでくる間、ずっと俺の服を決して離そうとはしなかった。


「先生が隣にいてくれれば大丈夫です。それに1人で待っている方が怖いですよ」

「それもそうか」


 赤色の絵の具がべったりと塗りたくられている7組の教室の扉を開ける。ちゃんと掃除するんだろうな。

 教室内は暗幕が天井にも張られており、電気をつけてもあまり意味がなかった。

 俺は懐中電灯の明かりをつけると暗幕の壁に沿って指定されたルートを歩き始めた。


「申し訳ないけど、こういう文化祭でやるお化け屋敷って結構ハズレ企画なんだよな」

「あ、ちょっとわかります。けど、怖がる人は怖がるんですよ。夕葵とかは特に」


 ――今も俺の服を離さない君が言ってもねぇ。


「怯える夕葵ってかなりかわいいんですよ。普段はまるでスキなんてないからそのギャップがたまらないというか、ついイタズラ心が……」

「さっきの俺みたいなことをしてたのか」

「最近は反撃が怖いので自粛はしてます」


 暗幕をかき分けると開けたスペースに出た。

 ここで仕掛け人が何かをするのだろうか。

 懐中電灯であたりを照らすと――、


「いやぁあああああああああああ!!!!」


 と涼香が声を挙げて驚き俺の腕を思いっきりつかむ。

 何に驚いたのかと思い涼香が驚いた方に懐中電灯をあててみると――、


「うわあ……」


 壁や机にゴキブリや百足屋など、誰もが見るだけで寒気のする虫たちが大量に張り付けてあった。

 見たところおもちゃのようだがこれは驚くだろう。

 お化けとかグロい系を警戒していたところに違うベクトルの恐怖が襲うのは誰だって驚く。そんなことを考える俺だって結構ビビった。


 さらに床には栗の殻などがばら撒かれている。歩くたびにパキパキと固い殻をもつ甲虫を踏んでいるかのような錯覚をさせられる。もしこの中に本物が混じっていると考えただけで身の毛もよだつ。

 これは女性にはたまらないだろうな。何も知らずに入れば叫び声を上げるにきまっている。


「あいつら、こんなの申請書には書いてなかったぞ……」


 学校に通さず実費で購入したということだろうか。この虫のおもちゃとか文化祭が終わったらどうするつもりだ。

 クイッと俺は服を軽く引っ張られる。


「先生、早く出ませんか?」

「こういうのは苦手?」

「好きな女子がいると思いますか?」


 ごもっとも。

 俺と涼香は少し足早に教室を出た。教室から出た後も涼香は背に張り付いてそこから動かなくなった。


 歩波とか観月を連れてきたらギャーギャー叫ぶのが想像できる。こういうのをみて夕葵も大きな声を挙げたりするのだろうか。カレンは気絶しそうだな、虫とかに免疫なさそうだし。


 ――よし、歩波にはここを勧めてやろう。


 日ごろから小馬鹿にされている俺からの復讐だ。きっといい声を挙げてくれるはずだ。


 少し落ち着きを取り戻したのか、先ほど俺につかまってしまったことに思い出したような涼香は顔を赤くながら申し訳なさそうに謝罪する。


「……まだちょっとドキドキしてます」

「まあ無理もない」

「……本当です……」


 ちょっと気が早いが文化祭の一部を体験できたような気分だ。


 ◆

 涼香


 先生と校内の見回りを終えると寮に戻って実行委員の人たちがいる部屋へと戻った。

 部屋はそれぞれ学年ごとに振り分けられていて、2年生の実行委員会の人たちが輪になって話をしていた。


「あ、桜咲さん。どこ行ってたの?」

「ちょっと野暮用」


 先生と一緒に校舎を見回ってたなんで言えないな。

 私は誤魔化しながら話の輪に加わる。


「何の話してたの?」

「そうそう、聞いてよ! 谷っちが原くんに告るんだって!」


 なんというか、定番の女子トークだった。

 そういえば、私たちもオリエンテーション合宿の時に同じことをしたなぁ。もうあれから半年も経つんだ。


「文化祭の準備でいい雰囲気だったもんね」

「がんばってね!」


 女子たちの応援を受ける谷っち――谷本さんは嬉しさよりも照れくささの方が上のようだった。

 話をしている中で、谷本さんが私の方を首だけ動かして見る。


「……桜咲さんも応援してくれるよね?」


 谷本さんは尋ねている口調だけれど、それはもう断言だった。

 有無を言わせない圧があった。

 口も笑みを浮かべているけれど、目が笑ってない。見れば周りの子たちもそうだ。


 ――ああ、牽制か……


 思えば中学の時にも似たようなことがあった。

 先に好きな人を事前に教えて「先に目をつけたのはワタシ」と周囲にアピールする。女子の同調圧力を利用した行為だ。そんな心配しなくても無問題なのに。


 ――そもそも、原君って誰だろう。


「うん、もちろんだよ。頑張ってね」

「ありがとう!」


 私が肯定の意思を示すと、谷本さんはようやく本当の笑顔を私に見せた。

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