第75話 お泊り
カードで宿泊料金を払うと領収書を受け取る。
今回はホテル側の不手際ということでシングル料金の値段で泊まらせてくれるというので、ありがたく使わせてもらう。
夕飯はホテルにあるレストランで済ませる予定だが、ホテルの利用客が多いので、少し遅くなるということだった。
ホテルマンに鍵を渡され、エレベーターに乗る。
外の天気も相まって、薄暗い廊下を歩いていくと部屋にたどり着いた。
俺のうしろには夕葵さんがしっかりと付いてきている。
鍵を扉に挿入し、ドアノブを回す。
当然、夕葵さんも一緒だ。
やっぱり、この子と一緒の部屋で寝泊りするんだよな。
部屋に入るとまず視界に入ったのはダブルサイズのベッドだ。
普通のビジネスホテルため部屋そのものがそんなに広くないので、ベッドが部屋の大半を占めている。
一緒の部屋で寝泊りするとは言ったが、ベッドまで同じにする必要はない。ソファーでもあればそっちで寝ればいい。
だが、そんな俺の希望は空しく散った。
部屋にあるのはベッドと机と人が1人が座ることのできる椅子が2組あるだけだ。
並べたとしてもここで寝るのは相当厳しい。
一応、部屋の中の設備を見せてはもらったが、普通のビジネスホテルということもあってか、特に珍しい物はなかった。
俺と夕葵は荷物をベッドの上に置く。
そして、俺は椅子に夕葵さんはベッドに座る。
「…………」
「…………」
フロントで鍵をもらってからここまで一度の会話もない。
普段、彼女とはいったいどんな会話をしていただろうか。
いつもだったら、クラスのことや雑事を手伝ってくれているが、あまり雑談をするような機会はなかった。
「くしゅ……」
上品に小さなくしゃみをする夕葵さん。
短時間とはいえ濡れているし季節も秋めいてきた。
大会も明日に控えているので体を冷やすのは良くない。
「夕葵さん。先にシャワーでも浴びてきなよ」
俺は自分の発言に激しく後悔する。
年頃の女の子に男と二人の状況で何を勧めているんだ。
「シャ、シャワーですか!?」
案の定、夕葵さんもかなり動揺している。
「いや、すまん。デリカシーがなかった」
「わ、私よりも先生の方が今日はお疲れなはずです」
「いや、俺は夕飯食べてからにしようかと」
「それなら、私も夕飯を食べてからにします」
とりあえず、部屋に備え付けられているテレビをつけるテレビ画面の隅には台風情報が流れており、日付が変わる頃にはこのあたりも通過しているだろう。
――もっと早く通過してくれればよかったのに。
ぐうぅと俺のお腹の虫が鳴る。
夕葵さんには聞こえたなったみたいだ。
いつもだったら、夕飯を摂り終えている時間帯だ。
昼にサービスエリアで食事をして以来何も口にしていないので、腹が減ってきた。レストランが空き次第部屋に連絡をくれるそうだ。
夕飯の時間までテレビでもつけようかと立ち上がると、夕葵さんは体をビクつかせる。
何かされるのかと思っただろうか。やっぱり、彼女も意識しているんだろうな。彼女を刺激しないようにあまり動かない方がいいか。
手早く机の上に置いてあるリモコンを取り、テレビをつける。
芸能人たちがはしゃいでいるバラエティー番組の端に台風情報が流れていた。
別に面白いというわけではないが、ほかに特にやることがないのでただつけているだけだ。
「夕葵さんは、何か見たい番組とかある?」
「私は特に。あまりテレビを見ないもので」
「そうか」
会話終了。
「どんなテレビを見る?」なんて、ありきたりな話題を振ってみたもののテレビをあまり見ないという返答をされてしまっては、返しようがない。
『そうですね。会話がとぎれない話し方というのは………』
テレビの中でドヤ顔で解説しているコメンテーターに理不尽な苛立ちを覚え、チャンネルを切り替えた。ほかに特に興味を引く番組もやっていなさそうだ。
チャンネルを手早く切り替えていると――
『名女優と呼ばれた。
そんな声が聞こえてきて、思わず手が止まる。
『彼女はまさに『全身女優』のような存在です。ほかの女優と比べても、全身を使って役に成りきるという点では、下条さんが一番でしょう。泣きの演技から、笑いの演技、怒りの演技まで何でもこなせる全方位型の女優です。女優というのは、セリフだけでは語れないものが絶対にあるんです!」
そう力説するのは”黒澤景士”という映画監督だ。
黒澤という名字で気が付くだろうが、歩波の義父だったりする。
とりあえず、早く引っ越してきて愚妹を引き取ってほしい。
「あ、歩波さんのお父さんですよね」
「知ってたの?」
「はい。歩波さんから教えてもらいました」
俺たちが複雑な家庭事情だということはクラスの子たちも何となく察してはいるだろう。だから、両親のことは尋ねない。歩波が両親のことを話すとは少し意外だった。
「あいつから変なこと聞いてないよね」
「それは……内緒です」
何か知っているっぽいな。
それを聞くと、俺がダメージを受けそうだ。聞かないでおこう。
「ああ、そういえば、いつも歩波の面倒見てくれてありがとう」
すっかりこのことでお礼を言うのを忘れていた。
学校生活のことからいろいろなことを彼女に任せていた。
「いえ、クラス委員ですし。なにより、友達ですから」
「それを含めてありがとう、だよ。友達になってくれたのが夕葵さんみたいな子でよかった」
「わ、私だけじゃないです。涼香もカレンも今は観月と一緒にいることが多いみたいですし」
景士さんから歩波が転校してきた理由は聞いた。
だからこそ、静蘭での生活を楽しめていてくれるのであれば、俺としては嬉しい。そして、その学園生活を作ってくれているのが、夕葵さんたちを含めた友人たちだ。
◆
夕葵
――夕葵――
歩先生に名前を呼ばれるたびに心臓が跳ね上がる。
油断すると、笑みがこぼれてしまいそうだ。
「夕葵、夕葵」
ああ、歩先生。そんなに何度も名前を呼ばないで下さい。
今日はとても幸せな夢を見ることができそうだ。
もしかしたら、今が夢なのかもしれない。だったら、もう少しこの余韻に浸っても……。
「夕葵ってば!」
けれど、少し大きめの歩先生の声が現実だと教えてくれる。
今日はなんて幸せな日なんだろうか。
「はい。なんでしょうか」
「いや、箸が進んでないから、体調が悪いと思って」
「そんなことはありません」
なんというか、胸がいっぱいなんです。
今は、先生と一緒にホテルのレストランで食事をしている。
他の生徒の姿もなく二人っきりで食事というのは何度してもうれしいことだ。ご飯の味は全く分からないけれど。
――先生も今日はお疲れだろうし、ゆっくりお風呂に入ってもらって……。
ここで私は先送りにしてきた問題がもうじきやってくることを思い出した。
◆
食事を終えて、部屋へと戻ってくる。
特にすることもないので、先ほどと同じようにテレビをつけてなんとなく眺める。
夕葵さんも俺に付き合ってテレビを見ていたが、立ち上がりユニットバスの扉を開けた。
「あの……お風呂のお湯を溜めてきます……」
多分、俺から言い出すと、さっきみたいに変な空気になるのを見越して自分から動いてくれたのだろう。
トイレ、洗面台、バスタブを同室内に設置するタイプなので洗い場がないが浴槽内で体を温めてから入るのだろう。
少しすると夕葵さんはユニットバスから出てきた。
浴槽内にお湯の落ちる音が扉を閉めていても響いてくる。
お湯が張ったころで夕葵さんが俺に先に入浴を勧める。
しかし、俺が入った後のなんて使わせるのは気が引けたので先に入浴してもらうことにした。
「では、お先にお風呂いただきます」
「うん」
着替えの浴衣をバスタオルを持ちユニットバスの扉を閉める。
ややあって雨が降るようなシャワーの音が聞こえ始めた。ホテルの薄い壁の所為か丸聞こえだった。
シャワーが浴槽内に落ちる水音まではっきりと聞こえてくる。
音が途切れるのは夕葵さんがシャワーを浴びているからだろう。
それに風呂で鼻歌を歌っているのか、夕葵さんの声も聞こえる。見えないからこそ、余計に想像してしまう。
――アホか。俺はっ!
俺は夕葵さんの入浴シーンを想像してしまい自己嫌悪に陥る。
それ以上に音を聞くことがないようにテレビの音量を上げた。
◆
夕葵
扉の一枚向こうには歩先生がいる。
しかも今に気が付いたのだが、このバスルームのドアは普通のドアではなく、曇りガラスだ。外の様子もぼやけてだが見えてしまう。
いろいろ思うと恥ずかしくなって、服を脱ぐを躊躇してしまう。
けれど、先生だって早くお風呂に入りたいだろうし、私はおもいきって服を脱いだ。
生まれたままの姿となると、お湯に髪がつからないように髪を結いあげ、ちらりと横目で曇りガラスの向こうを見てみる。
当然だけれど、そこには誰もいない。
当たり前だ。あの人は決してそんな真似はしない。そんなことを考えるなんて私は何を期待しているのだろうか。
温度を調整してシャワーを浴びる。
狭いバスタブにお湯が落ちていく、バスルーム全体が湯気で煙り、室温も高くなる。
――温かい。
今日の疲れがお湯とともに流れ落ちていくようなそんな錯覚を覚える。
身体を洗い終えると、疲れが消えてゆく熱い湯の中にゆっくりと沈んでいく。
「っ、ぁっ……~~♪~~」
あまりの気持ちよさに、思わず声が出てしまった。
お風呂はやはりいい。ぽかぽかと、身体の内側まで温かくなっていくのがよくわかる。
低い天井を見上げて物思いにふける。
――この後、一緒に、同じ布団で……
お湯の暑さだけではない、自分の中の血流が一気に上がるのが分かった。
◆
「お風呂、先にいただきました。簡単にですが洗って、お湯を溜めていますのでもう少しお待ちください」
バスルームから夕葵さんが出てくる。
風呂からあがりたてで、頬が赤くなった夕葵さんの髪は乾かしたのだろうが、まだ少し湿気を帯びている。
普段、ポニーテールにしている長い黒髪が下ろされているせいかなんだか、別の人を見ているかのようだった。前は俺の部屋でだったが、違う環境の所為か妙に緊張する。
湯上り美人なんて実際はすっぴんの女の人が出てくるだけかと思っていたが、とんでもない勘違いだった。
湯に入った後の彼女の肌色は特に艶々しかった。立ち上る湯気にふんわりと包まれたバラ色だ。
「そ、そうする」
数秒、彼女を見た後に何とか返事をする。
部屋の暖かな電球色のライトが彼女を照らす。夕葵さんは自分のカバンの中から櫛を取り出し、丁寧に髪を梳かしていく。
それだけの動作がなんだかとても綺麗に映って見える。
「……俺もお風呂もらうよ」
「どうぞ」
髪を乾かしている夕葵さんに促され、俺は浴衣をもってバスルームへと入った。
バスルームは湯気で曇っており、床は夕葵さんが使ったばかりということもあって、まだ湿っている。そして、ほのかに甘いにおいがするのはシャンプーか、彼女の香りなのか変態的な思考が脳裏をよぎる。
――これ以上ここにいると、頭がおかしくなりそうだ。早く済ませよう。
服を脱いでバスルームのふちに置いてシャワーを流す。
夕葵さんは俺が風呂に入っている間、いったいどんな気持ちで過ごしているのだろうか。
◆
夕葵
歩先生がバスルームに入ってからややあってシャワーの音が聞こえ始めた。
――こんなに音が響くんだ……。
先ほど自分がしていた行為が客観的に伝わってくる。
そういえば、気分がよくなって少し鼻歌を歌ってしまったような気がする。それを聞かれていたと思うと穴があったら入りたい気分だ。
髪を乾かし終え、鞄の中に道具を一式しまう。
そして、歩先生がいるときは直視しないようにしていたベッドの方へと視線を送る。
ダブルベッドだから当然なのだけれど、ごく当たり前のように並べられた2つの枕。
2つの枕の距離は隙間なんて感じさせないほどにぴったりとくっついている。そこに今から自分が寝るかと思うと
――~~~ッ~~~
もちろん男と人と一緒に寝たことなんてお父様とぐらいで、もう何年も前の話だ。
とりあえず、ベッドに横になってみる。
柔らかいベッドに体が包まれなんとも心地がいい。
何気なく歩先生が眠るであろう、もう一つの枕を見る。
今日眠るときに歩先生の顔が真横にあるとを思うと何も考えられなくなる。
――ね、寝顔を見られるのは恥ずかしいが、仕方がない。うん、仕方がない!
お互い様だ。
けれど、みっともない姿をさらすわけにもいかない。どう眠ればいいのだろうか。
私が口を開いて寝ているのを見られたら恥ずかしい。
よだれなんて垂らしているような所を見られたら二度と先生に顔を出せない。
いびきなんてかいていようものなら私は自害してしまいたくなる。
ゴロゴロとベッドの上を転がりながら、これからのことで頭がいっぱいになっているところで、バスルームの扉が開いた。
「ふぅ、さっぱりした。夕葵さんお風呂ありが、と……」
だんだんと先生の声が小さくなり、気まずそうに視線をそらされる。
先生の反応を見て私が今どんな格好をしているのかに気が付いた。
ベッドに転がっていたから浴衣が乱れ、太もものあたりまで丸見えになっていた。ヘタをしたら下着まで見えていたかもしれない。
「――ッ――!!」
はしたない姿を見せてしまい、すぐに衣服を整えた。
先生の顔が赤いのは入浴後だからというわけではないだろう。
あれ、でもこれって……
――女性として意識されている?
うれしいような、恥かしいような複雑な気持ちだった。
◆
入浴後に教え子のかなり無防備な姿を目撃してしまい、すぐさま視線をそらした。
なんだが、今日は夕葵さんを見ないようにするのに必死な気がする。
久しぶりの長距離の運転の影響のためか結構な疲れが俺の中にあった。
特に背中の真ん中あたりに鉄板が入ったような感じがする。
最近はデスクワークも多いし、これも齢を取ったということなのだろうか。うわぁ考えたくない。
何気なしに、右肩をもんでみるが意味はない。痒い所に手が届かないという気分だ。
机の上に置かれているルームサービスのマッサージの広告を見て、ちょっとうらやましいと感じた。
夕葵さんがいるから頼まないけれど。
できるだけ人目に付くようなことは避けたい。
「先生。もしかして、肩凝っていますか」
「ん、ちょっとね」
肩に触れていると夕葵さんが俺に尋ねる。
「私でよければマッサージをしましょうか?」
「いや、いいよ。申し訳ないし」
「今日のお礼と思ってください。それに祖母や近所の人によくしているので私、結構上手ですよ」
そう言われるとかなり魅力的な提案だった。
前に歩波に肩を揉ませたことがあったが、かなり下手だった。あげくに金までせびるのでもう二度と頼まない。
「では、ベッドで横になってください」
ここで彼女の提案を無下にするのも悪いと思い、俺は掛け布団をはがし、彼女の言う通りにベッドに横になった。
夕葵さんはうつむせになった俺の横に並んで俺の肩甲骨あたりに柔らかい手を置いた。
「痛かったら、言ってください」
同時に、やさしく柔らかく、右の肩に手の平全体を使って力を圧し当て加圧していく。
「うおぉ~~~~~……」
正直に言って……最高だった。
適度な指圧はくすぐったくもなく、痛くもない。
凝り固まった筋組織がほぐれていくのがわかる。
「痛くないですか?」
「……大丈夫。ちょうどいいよ」
右肩から首へ左肩へと夕葵さんの手が移動する。
両肩甲骨の間を指圧されるともう最高だった。
「ああ~……そこ」
「お仕事も最近忙しいですか?」
「ちょっと、デスクワークが立て込んでてね」
「お疲れ様です」
「弓道でも肩こりって多いの?」
自分の知っている弓道の姿勢を思い出し、上半身を使っているように見えたので結構負荷がかかるのではないかと思い尋ねた。
「いえ、弓道は骨格や背筋を使うので、それほど……でも初心者の人は変な力が入ってよく凝ると聞きます」
弓というのは腕の力を使って引くものだと思っていたが、違うらしい。
「へー、そうなんだ」
間延びした声になってしまうが、仕方がないだろう。この子、うますぎる。
あー、ほんとに心地がいい。
「けれど、私は凝りやすい体質なのか、よく凝って。まだまだ精進が必要です」
「……」
それはきっと弓道が原因ではないと思うのだけれど。
観月やシルビアが聞いたら間違いなく舌打ちしただろうな。理由はあえて言うまい。
「……夕葵さんはどうして弓道を始めたの?」
「そうですね。子供ながらに単純に弓引く姿がかっこいいと思ったからでしょうか」
夕葵さんは恥ずかしそうに言うが、「かっこいい」というのはきっかけとしては子供の十分だろう。俺みたいに最初は好きでもないのにサッカーをしていたというわけではないのだから。
俺の場合は、夜遅く子供を預かってくれるという理由で母が地元のクラブチームに預けられたのだ。そこに渉と歩波もついでに預け、面倒を見させていた。要は、都合のいい託児所として扱っていたのだ。
嬉々として俺たちを預けた母親は見知らぬ男とどこかへ夜遊び。
もちろん、母親に非難の声が挙がったが知らぬ存ぜぬだ。練習が終わっても迎えに来ない子供の面倒はコーチたちが見ていた。そんなどうしようもない親の子供がどういった扱いを受けるかは分かり切ったことだった。
――サッカーを楽しいと感じたのは、中学生だったからなぁ。
「小さい頃はよく落ち着きがないとよくしかられていたので、強制的に祖母に通わされたのですけれど」
「落ち着きのない、夕葵さんか……ちょっと、想像できないな」
「そうですか? 涼香に聞けばわかりますよ」
あ~本当に気持ちがいい。
なんだか、このまま眠ってしまいそうだ。
「……俺は、学園での夕葵さんしか知らないからなぁ……」
「……私も学園での歩先生しか知りません……もっと先生のことを知りたいです」
「………」
「先生?」
◆
夕葵
「すー……すー……」
眠ってしまわれた。
眠るのには少し早い気もするが、疲れていたのだろう。
これ以上のマッサージは起こしてしまうと申し訳ないので終わりだ。少し名残惜しい。
「……私も寝よう」
となると、先生の隣で横になるしかない。
先生をおこなさないように布団をかけてから部屋の明かりを落とし、布団の中に入る。
――わわわっ! 近い!
ダブルベッドは2人で寝ても、大きな寝返りを打たなければぶつかることはなさそうだが、先生の息づく音が、普段ならありえない距離で聞こえてくる。
それに、1枚の布団からあたたかさを感じられるのは先生の体温だろうか。
掛け布団を顎の下まで引っ張り上げたまま、顔を隠すように少しだけ先生の顔を見てみる。
口も少し開いていて、すこしみっともなくて笑ってしまう。
口を開けて寝るのは不体裁であると思うが、なんだか遊び疲れた子供のようでかわいらしく思える。
少し手を伸ばして先生の顔に触れる。
マッサージの時は何気なしに触れていたけれど、今はイタズラをするようで少しドキドキした。
額、頬、鼻と撫でていく。
そして、そのまま鼻を通り過ぎると先生の唇に触れる。頬とは違う柔らかくも温かい感触が指に溶け込む。
「ん……」
むず痒そうに先生は身をよじり、先生はうつ伏せだと寝苦しいと感じたのか。私の方に寝がえりを打った。
呼吸にあわせて体が上下に揺れている。よかった、起こしてしまわなかったみたいだ。
少しだけ先生との距離を詰めてみると、より先生の体温が感じとれる。
――あ、手……。
先生の手が私にわずかに触れた。
そっと、先生の手を握ってみる。
大きな手だ。
いつも授業中に黒板で字を書いている手だ。
観月やカレンの頭をなでている手だ。
生徒の私がめったに触れる事の出来ない先生の手が今私が握っている。
私だけが独り占めしてしまっている。
この手で頭を撫でられるというのは、どんな気持ちなのだろうか。
私は上背があるし、先生に頭をなでてもらえるような深い関係でもない。
――明日の大会。優勝したら褒めてもらえるだろか。そうしたら……。
そんなことを考えて、私は目を閉じた。
……
………
…………
眠れない。
もう布団に入って1時間は経過するだろう。
目を開ければ寝息を立てている先生が傍にいるのだ。
息も届きそうなこの距離で眠るというのは、むしろ心臓の鼓動が早くなって、目が冴えてしまうばかりだ。
――私は、こんなにドキドキしているのに、先生は……
隣で熟睡している先生に対して理不尽な苛立ちを覚えた。
――ダメだ。目を開くと先生の顔が目の前にあるというのは、どうしても落ち着かない。
仕方がないので先生とは反対方向を向いて寝ることにする。
寝起きの顔を見られるの恥かしいし、なにより、涎なんて垂らしているところを見られたら合わせる顔がない。
真後ろで寝息を立てている気配はあるが、少しは寝やすくなったと思う。
「んぅ……」
後ろで先生が息づく音が聞こえてきた。シーツの音がすれる音が聞こえてくる。その音が聞こえると同時に先生の手が私の身体に触れる。
腕に添えるように置かれた手に私は少し驚いた。
――けれど、なんだか少し安心する。
私はもう一度先生の方を向いて、先生の胸に顔をうずめるように先生の方へと身を寄せる。
――これくらいはいいですよね……事故の範囲ですよね。
ねぼけていたらそういうことだってある。
耳を澄ませると、息づく音が意外にも先生の鼓動が鼓膜を刺激する。
リズムよく聞こえる鼓動の音は、私のなのか先生のものなのかはわからない。
なんだか今日は本当にいい夢が見られそうだ。
先ほどまでとは比べ物にならないほど私はすっと眠ることができた。
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