7(決断)
それからしばらくのあいだ、わたしは何となく葵ちゃんのことを避けていた。
避けるといっても、別に葵ちゃんから逃げたり、話をすぐに切りあげてしまったり、ということじゃない。ただ何となく、他の用事を優先したり、こっちから見かけても声をかけずにすませてしまったり、というようなことだ。
わたしのそういう態度は、やっぱり葵ちゃんにも伝わっていて、時々訊かれたりもする。
「ハルちゃん、どうかした?」
葵ちゃんは心配そうに、不安そうにわたしのことを見つめる。
「――ううん、何でもないよ」
でもわたしは、そう答えるだけだ。嘘の笑顔を、顔に浮かべて。
葵ちゃんはそれ以上、何も訊かなくて、ただちょっと首を傾げるようにするだけだ。
もちろん、わたしにもわかっていた。このままじゃいけないと。このままじゃ、わたしはどこにも行けなくなってしまうんだ、と。
(――でも、だからってどうしたらいいんだろう?)
わたしは机の上に頬杖をついて、ぼんやり考えている。わたしにとっての葵ちゃん、葵ちゃんにとってのわたし。出すべき答え、これからわたしが取るべき行動。世界が持っている自律作用。
そしてわたしは、ある一つの結論を出すことにした。
ある日の放課後、わたしは一年五組の教室に向かった。五組の教室は廊下の角を曲がった少し離れたところにあるので、普段でもあまり通ることはない。帰り支度を終えて荷物を持った生徒たちのあいだを、鮭が遡上するみたいに歩いていく。
わたしはどんな顔をしていただろう? 怖い顔だろうか、緊張した顔だろうか、怯えた顔だろうか、それとも何の表情もなかったのだろうか。
目的の人物がその教室にいることは、事前に確かめてあった。名前もわからないし、一年生らしいというのも曖昧だったけど、何とか苦労して見つけることができた。人間は探せば、何億光年も先の星だって見つけることができるのだ。
わたしは五組の教室をのぞいてみて、その人がいることを確認した。教室の後ろのほうで、帰る準備をしているところだ。他のクラスの教室に入るのはやっぱり気が引けたけど、もう人もそれほど残っていないし、場合が場合なので、わたしは思い切って足を踏みいれた。気分的には、猛獣の檻に入ってしまったみたいでもある。
その人は、わたしのことには気づかなかった。教室に残っていた何人かが、わたしのことを異邦人みたいに珍しそうに眺めていたけど、わたしはそれを無視する。
「
わたしはその人の前に立って、そう言った。自分でも驚くくらい、その声は真剣だった。まるで、自分の声じゃないみたいに。
その人は顔を上げて、わたしのことを見た。そして、どうにも見覚えのない相手だな、という表情を浮かべる。
「そうだけど、あなたは?」
長い髪に、整った顔立ち。世界を直接見つめるような、まっすぐの瞳。その瞳は、葵ちゃんのそれとよく似ていた。
「わたしは真野春海といいます。二組の生徒です。実は、美原さんに話があって来ました」
「話……?」
「そうです、大事な話です」
美原さんはちょっと眉をひそめたけど、わたしの真剣な――あるいは、強引な――様子に何かを感じとったみたいに、すぐには断わろうとしなかった。
「でも私は、あなたとは初対面のはずだと思うのだけど。いったい、どんな大事な話があるっていうのかしら?」
「葵ちゃんのことです」
わたしがそう言うと、美原さんは何かを探るように口を閉ざした。その瞳は何だか、わたしの心の底まで見透かしているようにも見える。
「……わかったわ」
しばらくして、美原さんは言った。
「ここでは何だから、どこか別の場所に行きましょう。あまり人に聞かせるのもどうかと思う話だろうから」
彼女はそう言って、かすかに秘密を含ませたような、そんな笑顔を浮かべた。けどわたしは笑みを返すこともできないまま、ただ自動機械みたいにうなずくだけだった。
屋上にはいつかと同じような、澄んだ青空が広がっていて、人の姿は一つもなかった。わたしは何だか、葵ちゃんとここに来たみたいな気がしたけど、後ろにいるのは美原さんであって、葵ちゃんではない。
彼女の名前は、美原
まっすぐで、長くて、癖のない黒髪をしていて、どこかの御令嬢みたいな雰囲気をしている。服の着こなしから仕草の一つ一つまで神経が行きとどいていて、ちょっとした絵画みたいに見えなくもない。そして、葵ちゃんとどこかよく似た瞳をしている。
「あまり来たことはないけど、天気がいいと気持ちがいいものね」
彼女は屋上の真ん中で、少しのびをするように言った。その動作も、やっぱり一枚の絵になっている感じだ。
「…………」
わたしはけれど、美原さんとは対照的に緊張していた。視線は錆びついたネジみたいに動かなくて、手は固く握ったまま開かないでいる。
「――それで」
と、美原さんはいつまでたっても口を開かないわたしの代わりに、そう言った。
「私に何の用かしら? 宮瀬さんのことについて、だそうだけど」
うまくやらなくちゃ、とわたしは思った。これはとても微妙な問題なのだ。下手をすると、何かとんでもないことになってしまいそうな気がした。物事をあみだクジの先にあるとても間違った方向に導いてしまいそうな、そんな気が。
でもわたしは、そう思えば思うほど、何を言うべきなのかわからなくなった。焦ればあせるほど、言葉はしり込みしたみたいに口から出てこなかった。
「――あなたには、葵ちゃんと同じものが見えてるんですか?」
わたしが口にしたのは結局、そんなあまりにも直截的な言葉でしかなかった。駆け引きもなにもあったものじゃない。まるで風車に立ち向かうドン・キホーテだった。
けど、美原さんはそれを馬鹿にしたふうもなく訊いた。
「どうして、そう思うのかしら?」
わたしはふっ切れたというか、自棄になってしまったみたいに正直に答えた。
「校舎裏で話していたのを、偶然聞きました。立ち聞きするのは失礼と思ったけど、どうしても気になったんです。あなたは葵ちゃんに、忠告みたいなことをしていたました。あれは、あなたにも葵ちゃんと同じものが見えてるからじゃないんですか?」
美原さんはうかがうように、わたしのことを見た。高性能のスキャナーみたいな視線だ。でもわたしは何だか興奮しているみたいで、頭がぼうっとして、その視線をまっすぐ見つめ返していた。
「あなたは宮瀬さんにとって、どういう人にあたるのかしら?」
ややあって、美原さんは言った。
「葵ちゃんはわたしの友達です」
自分でも思いがけないくらい強く、はっきりと、わたしは口にしていた。そして自分でその言葉を聞いてから、ああそうだ、と思う。わたしは葵ちゃんと友達でいたいんだ。彼女を助けたいんだ、彼女の笑顔を見たいんだ。
「……なるほどね」
と美原さんはあくまでも冷静に、
「じゃあもう一つ聞くけど、あなたはどうしてそんなことを私に尋ねるのかしら?」
「だって」
答えには、少しの間もなかった。
「もしそうだったら、あなたと葵ちゃんは友達になれる。同じものを――わたしには見えないものを――共有できる、本当の友達に。そしたらきっと、わたしは邪魔になる。わたしは二人と本当の友達にはなれないから。だから――」
あれ?
わたしはきょとんとした。
何だか、頬が濡れている。わたしはしゃべり続けたまま指先をそこにやって、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
「――だから、葵ちゃんにとってそのほうがいいなら、わたしは葵ちゃんの友達をやめる。わたしはそうしようと思って、あなたにそのことが聞きたかったんです」
わたしは顔をごしごし拭って、涙を消した。人前でそんなふうに泣いたというのに、わたしには全然恥ずかしいという気がしないでいる。まるで泣いたのが自分じゃないような、妙な気持ちだった。
彼女はしばらく黙っていたけど、
「ふふ――」
と、急に笑いだしている。
「ああ、なるほど、そういうことね。だからあなたは、私にそんなことを聞きに来たってわけだ」
美原さんがおかしそうに笑っていて、わたしは怒っていいのか呆然としていいのかもわからず、ただじっと立ちつくしていた。
「うん、わかったわ。あなたの気持ちも、大体の事情も。なるほど、なるほど、そういうことか」
「あの……」
一人で合点がいっているらしい様子の美原さんに対して、わたしは戸惑ったままでいる。
「ああ、ごめんごめん。勝手に納得しちゃって悪かったわね。うん、でも大丈夫、心配しなくてもいいわ」
「心配……?」
「つまりね、あなたの想像はいい意味で的外れってことよ」
わたしには何がなんだかわからなくて、目をぱちくりさせた。
「単刀直入に言うと」
彼女は笑いながら言った。
「私には何も見えてなんかいないということ」
「え――」
「あなたの勘違いよ、つまるところ。私には宮瀬さんと同じものなんて見えていない」
「でも、えっと」
わたしは混乱して、うまく考えをまとめることができなかった。的外れ? 勘違い?
「じゃあ、どうしてあんなことを……?」
わたしの問いに、美原さんは答えるべきかどうか迷うようなそぶりを見せた。
「本当はこれは秘密なんだけど、仕方ない、あなたには教えてあげるわね。でも決して人には言わないで。絶対に秘密にしておいてね」
美原さんはそう言うと、とてもとても真剣な口調で言った。
「――実は私は、政府の秘密調査員なの。調査内容は、〝特殊変異性個体〟の発見。平たく言うと、超能力者を見つけることね。私はこの学校で、潜入調査をやっているわけ」
わたしはぽかん、としてしまった。
「調査期間は半年。そのあいだに目標を見つけられなかった場合は、別の候補地に移動することになっている。もちろん、調査員は私だけじゃなくて、協力者や連絡機関もあるわ。対象候補を見つけた場合、調査員の判断で独自の調査を開始することになっている」
「つまり、えと、葵ちゃんはその調査対象ということ?」
「ええ、そうよ」
美原さんはあくまで真剣だ。
「でも、じゃあどうして葵ちゃんにあんなことを言ったり? 黙っていたほうがいいんじゃ……」
「調査権限は各調査員に一任されてる。私はああやって、わざと同じものが見えるふりをすることで、あの子の警戒を解こうとしたのよ。だって、そのほうが調査はしやすいでしょう?」
わたしは黙ってしまうしかない。
「ねえ、真野さん」
「――はい?」
「このことは絶対に誰にも言わないでね。もしそんなことをしたら、あなたのほうが困ったことになるわよ。これからも平穏無事に過ごしたいのなら、このことは胸の奥にきちっとしまって、頑丈な鍵をかけておくことね」
「…………」
わたしはもごもごと口を動かして、わかりましたとか何とか、返事らしきものを口にした。
「そう、よかったわ」
美原さんはにこっと笑った。空気が何グラムか軽くなってしまいそうな、物理的な影響力を持った笑顔である。
「誤解は解けたようだから、話はもうこれくらいにしておきましょう。あなたはこれからも、宮瀬さんと友達でいるべきね。彼女にはきっと、あなたみたいな人が必要だから」
「わたしは、でも……」
「ああ、そうだ。このことは宮瀬さんには内緒にしておいてね。自分が調査されてるなんて知ったら、あまりいい気はしないでしょうから。あの子にとっても、そのほうがいいでしょうしね」
どこかで聞いたようなセリフだった。
「じゃあ、そういうことで。あなたとはまたこうして話をすることになるかもしれないわね、真野春海さん」
ほんの気配みたいな笑顔を浮かべると、彼女は出入り口のほうへと姿を消した。屋上には沈黙が戻ってきて、ふと耳を澄ますと運動場のほうからは大きな掛け声が聞こえてきたりしている。
わたしは狐につままれたような顔で、しばらくのあいだじっと立ちつくしていた。
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