6(小さな世界)

 入学式から一ヶ月ほどが経過したけれど、クラスの中でのわたしの立場は相変わらずだった。

 陰湿ないじめを受ける、というほどじゃなかったけれど、おしゃべりの輪にわたしが近づくとみんな一瞬口を噤んだし、何かを頼もうとしても慌ててどこかへ行ってしまったり、体よく断わられたりした。そういうのはやっぱり、時と場合によってはとても応えてしまう。

 香坂グループとの関係も、修復不可能な状態だった。彼女たちとは特に、直接対決みたいなことをしているので、その関係性は友好とはほど遠くて、露骨に陰口をたたかれたり、嫌がらせを受けたりする。

 わたしがショックだったのは、小学校時代からのつきあいだったかなみが、もはや友達でもなんでもなくなってしまっている、という事実だった。かなみはもう完全に香坂グループに属していて、わたしとの友情なんて何もなかったみたいな顔をしている。そういうのを見ると、何だか混乱して、自分の存在そのものに疑問を持ってしまう。心のどこかで、大切なものに罅が入るみたいに。

 それでも、どんなことにでも慣れというものはあるらしい。

 わたしは次第にそういう状況に対して、ショックを受けたり、憤ったり、落ち込んだりすることが少なくなってきた。周囲でも、わたしの扱いに慣れてきたのか、軋轢みたいなものは減っていった。要するに、わたしにはわたしなりの居場所が与えられた、ということだ。それが良いことなのかどうかは、よくわからなかったけれど。

 もちろん、わたしがそんな状況に耐えられていたのは、葵ちゃんがいてくれたからだった(もっとも、葵ちゃんがいたからこんな状況になった、とも言えるのだけど)。

 わたしと葵ちゃんはずいぶん親しくなって、いろんなことを話すようになった。それでわかったのは、葵ちゃんとわたしは似たような趣味と傾向を持っている、ということだ。派手なことが苦手で、どちらかというと流行に無頓着で、自分の興味があることに対しては強いこだわりを持っている。良きにつけ、悪しきにつけ、ということだけど。

 佐野さんから聞いた話については、葵ちゃんには何も言っていない。佐野さんが内緒にしておいて欲しい、と釘をさしたこともあるし、わたしのほうからは何となく訊きにくかった、というのもある。それに、葵ちゃん自身がそのことについて何も言わない以上、わたしのほうではそれを問題にするつもりはなかった。

 わたしは今の葵ちゃんにも、今の葵ちゃんとの関係にも満足していて、それを無理にどうこうするつもりはなかった。

 ――つまり、わたしは概ねのところで幸せだったのである。たぶん、80パーセントくらいは。


 ある日のことだった。

 わたしは部活がお休みだったので、葵ちゃんといっしょに帰ろうとしていた。ちょっとした買い物につきあってもらうつもりだったのだ。

「あれ?」

 けど帰る準備をしてから教室を見渡してみると、そこには葵ちゃんの姿はなかった。

 こういう時、誰かに質問できないというのは面倒なことだ。わたしは仕方なく、一人で葵ちゃんを探しにかかった。葵ちゃんの机の中にはまだ荷物が残っていたので、学校のどこかにいるのは間違いない。

 わたしは心あたりの場所をまわってみたけれど、葵ちゃんの姿はどこにも見あたらなかった。屋上、中庭、トイレ、休憩所――どこにもいない。

(校舎の外にでも行ったのかな?)

 玄関で靴を履きかえて、わたしは外に出た。

 その時点で、わたしは今日のことについては半分諦めていた。どうしてだか葵ちゃんは見つからないし、買い物はまた今度でいいかな、と。

 ――実際、形は違うけれどその予感は実現することになる。

 わたしは校舎裏の、ほとんど誰も来ないようなところまで探してみた。そしてようやく、葵ちゃんの姿を見つける。わたしはほっとしたせいで、どうしてこんなところに葵ちゃんがいるんだろう、とは考えもしなかった。

「あお……」

 声をかけようとしたその時、誰か他の人影がいることに気づいた。

 わたしはとっさに口を噤んで、校舎の陰に身を隠してしまっている。どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。わたしの声はふと聞こえた空耳みたいに、大人しくその場から姿を消している。

 心臓だけが、わたしの胸の奥で妙な音を立てて動いていた。


 どうしてわたしは、隠れたりしたんだろう――?

 どうしてわたしは、声をかけるのをやめたりしたんだろう――?

 どうしてわたしは――


 でも、そんなことを考える暇もなくて、わたしはその場の様子にじっと耳を澄ませていた。顔を出すと見つかってしまいそうなので、直接現場を目にすることはできない。葵ちゃんがいったい誰といっしょにいるのかも、わたしにはわからなかった。

「……ということね」

 声が聞こえた。少し聞きとりにくかったけど、何とか聞こえないことはない。

 その声は、聞いたことのないものだった。大人びて、落ち着いていて、澄んだ鈴の音みたいな声。でもちょっと近づきにくい感じのする、きれいな声。少なくともわたしのクラスに、こんな声の人はいない。

「うん、そうだよ」

 これは、葵ちゃんの声だ。いつもと変わらない、素直な明るい声。その声を聞くかぎり、事態は特に切迫しているというわけではなさそうだった。

「でも、どうしてかしら?」

 相手が、そう質問した。その声の調子は、先生が生徒に質問するのにとてもよく似ている。

「あなたはどうして、そのことをみんなにしゃべったりするの?」

「――どうしてって、言われても」

「普通の人には、あなたの見えているものは見えない。そのことは、あなたもわかっているはずよ。だったら、そのことを言っても、みんなに気味悪がられるだけじゃないかしら?」

「私は――嘘はつきたくないから」

「でも嘘といったって、それはでしょう? みんなにとっては、逆にあなたが嘘をついていることになる。みんなには、それが見えないのだから」

「でも……」

「あなたの言いたいことはわかるわ。けど世界は、真実に対して優しいとはかぎらないのよ。時にはそれを怖れたり、歪めてしまったりしようとする。私たちのこの世界は、見ためほど頑丈じゃないから。いえ、あるいは、頑丈すぎるのかしら?」

「…………」

「世界は、それ自体が自動的に自分を守ろうとするときがある。私たちにとっては不可解で納得できないことでも、世界の側からしてみれば、意図的で必然的なことだった、ということもある。あなたがみんなから疎まれるのも、世界が自身の恒常性ホメオスタシスを守ろうとする自律作用なのかもしれない」

「……私にはわからないよ」

「本当にそうかしら? あなたにはもう、わかっているんじゃないの? いつまでもこのままではいられない、と。このままの時間が永遠に続くわけじゃない、と。あなたは決断しなくてはならない。避けられない選択を、難しい選択を。誰にも、時間をその場所に留めておくことなどできはしないのだから」

「…………」

「いきなりこんな話をして、困らせてしまったみたいね。でも私は間違ったことは言っていないわ――残念ながら、ということだけど。この話は、頭の片隅にでもしまっておくといいわ。きっと、何かの役に立つから」

 話はそこで終わりみたいだった。

 人の動く気配がして、わたしは慌てて身を小さくした。その格好で何とかのぞき見たところでは、きれいな長い髪をした、わたしたちと同じ一年生らしい生徒が向こうへ歩いていくのが見えた。一瞬ちらっと見ただけだったけれど、声の印象とよく似た、上品で凛とした顔立ちの女の子である。

 それだけを確認してから、わたしはそっと逃げだすみたいにしてその場をあとにした。心臓は訳のわからない脈打ちかたをして、こめかみの辺りが変に締めつけられたように熱を持っていた。

 逃げだすみたいにして――

 ううん、わたしは本当に逃げだしたのだ。何だかとても、嫌な感じがしたのだ。何だかとても、怖い感じがしたのだ。

 まるで夢の中で、わたしだけが電車に乗り遅れたみたいに。

 まるでわたしだけが、何もない駅のホームに置き去りにされてしまったみたいに。

 わたしは何故だか、とても怖かった。


 ――もしかしたら、あの子には葵ちゃんと同じものが見えているのかもしれない、とわたしは思った。

 あの、空から無数に降ってくる光。雨粒みたいに手の平に落ちてくる光。

 彼女には、それが見えているのだ。だから葵ちゃんのことを聞いて、そのことを話に来た。私にもそれが見えている、と。

 だとしたら、彼女は葵ちゃんの本当の仲間だ。

 ――だって、彼女には葵ちゃんと同じものが見えて、同じ世界を共有しているのだから。

 わたしには見ることのできない、同じ世界を。わたしには決して共有することのできない、同じ世界を。

 そのことに気づくと、わたしは胸の奥にちくりと痛みが走るのを覚えた。それは思い出すたびに、ちくちくわたしを刺してくる痛みだった。心臓の剥きだしになった部分が、透明な棘にでも刺されてしまったみたいな、そんな痛み。

 わたしにはでも、その痛みの正体がわかっている。

 つまり、わたしは二人にとってなんじゃないか、ということだ。せっかく見つけた仲間の、ようやく見つけた同じ目で世界を見る仲間の、そのあいだに入って、その小さな世界を汚してしまうような存在。

 二人はきっと、友達になれる。わたしなんかとは違って、本当の友達に。だって、二人は同じものを見ることができるんだから――

 葵ちゃんにとって、わたしはいないほうがいいのかもしれない。

 わたしは――

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