5(「佐野」)
それは、わたしが部活に向かう途中のことだった。
「もしかして、真野春海さん?」
放課後で、みんなが帰宅したり、部活に向かっている時間のことだった。運動場からは早くもサッカー部の掛け声が聞こえている。ただ、四階のこの廊下には、あまり人通りはなくてしんとしていた。
「……?」
声に聞き覚えがなくて、わたしが振り向いてみると、そこには段ボール箱いっぱいに紙束を入れるという、やけに重たげな荷物を抱えた見知らぬ男子生徒の姿があった。すれ違ってから声をかけられたので、お互いに半ば背中を向けあうような格好をしている。
よく見ると、その人は胸に「佐野」と書かれた緑色のネームプレートをしていた。ということは、三年生とうわけだ。だったらなおさら、わたしがその人のことを知っているはずがない。
「……えっと、誰ですか?」
わたしはその「佐野」さんに訊ねた。
「おっと、悪い悪い」
「佐野」さんは明るい調子で言いながら、持っていた段ボールをいったん床に降ろした。どさっと、わかりやすすぎるくらい重そうな音がする。ジェンガみたいに不安定に積まれた紙束を、よく崩さないものだ。
「生徒会の仕事でね、倉庫の整理をしてるんだ」
わたしの視線に気づいたのか、「佐野」さんは気さくな感じに説明してくれる。とりあえず、悪い人ではなさそうだった。
「そうなんですか……」
不得要領な返事をしながら、わたしはあらためて「佐野」さんを観察した。
背はちょっと高めで、髪はさっぱりと短く切っている。黒縁の、セルロイドの眼鏡。スポーツマンタイプの体つきをしているけれど、何となく頭のよさそうな顔をしていた。かなりかっこよくもある。一言で表現すると、爽やかな、運動部の部長的な人だった。
「そうなんだ。で、君は真野春海さんに間違いない?」
「はい、そうですけど」
「葵と同じ、一年二組の?」
急に葵ちゃんの名前が出てきたので、わたしはびっくりしてしまった。それも、呼び捨てで。「佐野」さんはそれを見て、悪戯にでも成功したみたいににこにこしている。
「俺の名前は
それでも、わたしはやっぱりきょとんとしていた。
妹? ということは、この人は葵ちゃんのお兄さん? 葵ちゃんは兄弟がいるなんて言ってたっけ? というか、えっと……
わたしが混乱しているあいだにも、「佐野」さんは言葉を続けていた。
「君のことは、葵のやつから聞いてたんだ。同じクラスに友達ができた、ってね。すごく嬉しそうに話すんだよ、あいつ。最近、あまり元気がなさそうだったから、俺としてもほっとしてさ。で、今日こうやって歩いてたら、向こうから何となく見覚えのある子が歩いてくるな、って思ったんだ。『誰だっけ?』と思うんだけど、思い出せなくてさ。それですれ違ってから、ぴんと来たんだ。この子が真野春海じゃないか、ってね」
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
わたしは佐野さんのセリフのほとんどを無視して言った。
「いいよ、もちろん」
と、佐野さんはまるで気にした様子もなく、簡単にうなずいてみせる。
「佐野っていう名字は……?」
葵ちゃんの名字は、「宮瀬」というはずだ。ネームプレートにだって、そう書いてある。でもこの葵ちゃんのお兄さんだという人は、自分のことを「佐野」だと名のっていた。
「もしかして、葵のやつから聞いてない?」
佐野さんは確認するように言った。
「ええ……」
聞いてないも何も、わたしには何のことだかわからない。
「そっか、葵のやつ話してないのか」
自称、葵ちゃんのお兄さんは少し困ったような顔をした。というか、本当に葵ちゃんのお兄さんなんだろうか、この人は。よくよく見ると、顔だってあまり似ていない。
「どうするかな、本人が話してないんなら……」
「いえ、その、気になるので教えてください」
わたしはちょっと慌てて言った。このままだと、一日中悶々として過ごすはめになりそうだった。
「そう? まあ知っておいても、問題はないと思うけど……」
佐野さんはまだちょっと迷っているみたいだったけど、結局は教えてくれた。
「つまり、俺は葵の義理の兄にあたるっていうわけなんだ」
義理ということは、つまりその、血のつながりがないということだ。
「うちの親父と、葵のとこの母親が再婚して、そうなったんだ。二年くらい前の話だよ。それからはいっしょに暮らしてる。家族は四人だけ」
「でも、確か葵ちゃんは宮瀬って……」
「再婚しても、子供のほうは手続きしないと名字が変わらないんだよ。で、葵はまだその手続きをしてないというわけだ。だからうちでは、葵だけが宮瀬のままなんだ」
「はあ」
これだけだとまだ何だかよくわからなかったけど、つまりそういうことなのだろう。
「でも、どうして葵ちゃんは名前を変えなかったんですか? 元の名前がなくなっちゃうのは、確かに嫌かもしれないけど――」
「その辺のことは、俺にもよくわからないな。本人がそうしたいって言ったらしいけど」
その時、廊下の向こうからいきなり声がした。かなり怒ったような声である。
「佐野葉一――!」
見ると、ショートカットの女子生徒が一人、腰に手を当ててこっちをにらんでいた。けっこうな距離があるはずなのに、その眼光の鋭さは灯台の明かりみたいにはっきりしている。
「あんた、まだ仕事中でしょ。何をさぼってるのよ、そんなところで」
佐野さんは彼女に向かって、気軽に手を振ってみせた。
「悪い、すぐ行くよ」
その女子生徒(たぶん、三年生)は、様子をうかがうというにはちょっと強すぎるくらいの視線をわたしのほうに向けてから、何も言わずにその場を去っていった。
「……というわけで、話の途中だけどタイムオーバーみたいだ」
佐野さんはそう言って、床に置いていた段ボール箱を、よっと担ぎなおした。
「長々時間をとらせて悪かったね。部活に行く途中だった?」
「あ、いえ、大丈夫です」
わたしが慌てて首を振ると、佐野さんはにこりと笑った。その笑顔は葵ちゃんのものとは違っていて、取り替えたばかりの電球みたいにむやみと明るかった。
「それと、今日のことは葵には内緒にしておいてもらえるかな?」
「……? どうしてですか」
「あいつさ、自分のことで俺に迷惑がかかるのが嫌らしいんだよ。葵のやつって、ちょっと変わったところがあるだろ? だからそのことで俺が面倒に巻きこまれるかもしれないから、学校じゃ自分とのことはあまり話さないように、って言うんだ。俺はそんなの気にしないんだけど、あいつがそうして欲しいって言うから」
「…………」
「だから俺が葵のことを心配してるっていうのは、秘密にしておいて欲しいんだ。でないと、あいつきっと気にするから」
「――わかりました」
わたしはこくんと、うなずいた。
ありがとう、と言って、佐野さんは最後にもう一度だけ笑ってから去っていった。
時間は猫が歩くみたいに音もなく過ぎていて、いつのまにか運動場からは色々な喚声が聞こえていた。わたしは段差になった時間を踏み越えるみたいにしてから、思い出したように足をまた動かした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます