4(亡国の王女とその侍女)
こうして、わたしと葵ちゃんはきちんとした友達になった。
話をするときはこそこそ隠れたりしないし、お昼休みには屋上でいっしょにお弁当を食べたりもする。葵ちゃんと二人でいるのは楽しいし、彼女の笑顔や瞳をすぐ近くで見ていると、何だか世界がとても柔らかくなったような気がした。
でもそれにもかかわらず、わたしはそのことを少し後悔してもいた。あの時は勢いであんなことを言ってしまったけれど、そのせいでやってきた現実は、けっこう厄介なものだったのだ。
わたしはもちろん、元いた香坂グループに戻ることなんてできず、それどころかその四人からは何かにつけて嫌味を言われたり、嫌がらせを受けたりするようになった。小学校からの友達だった藤かなみとも、もう何の関係もなくなってしまって、ほとんど口も利いてくれなくなっている。
と同時に、クラス全体でもわたしに対してどこかよそよそしい雰囲気を作るようになって、ひどく居心地が悪かった。まるで、言葉の通じない外国にでも来てしまったみたいなのだ。わたしが何か言おうとすると、それは口から出た途端に、みんなにとっては意味不明の言語に変わってしまう。
たぶん、わたしは間違いを犯したのだ。
わたしはもっとうまく立ちまわって、現状を維持すべきだった。もっと、別の方法をとるべきだった。わたしの立場を傷つけずに、葵ちゃんとも仲良くして、みんなにもいい顔ができるような、そんな方法を。
それが難しいことだというのは、わかっている。
でも少なくとも、こういうのは本来のやりかたじゃなかったな、とわたしは思うのだ。わたしは何が何でも友達を守るような熱血漢でも、どんな失敗をしても平然としていられるような自信家でもない。
わたしはその辺の、掃いて捨てるほどたくさんいる、ごく普通の女の子の一人にすぎないのだ。
「――ハルちゃん、どうかしたの?」
そんなことを考えているとき、葵ちゃんは心配そうにわたしのほうをのぞきこんでくることがある。
「ううん、何でもないよ」
わたしは首を振って、そう答える。
――それは必ずしも、強がりなんかじゃない。
わたしは弱くて、何の力も持っていなくて、今の状態を少し後悔しているし、もっとうまくやれたはずだとも思っている。
でも……それでも、わたしはやっぱり葵ちゃんのことが好きで、葵ちゃんの笑顔や瞳が好きで、わたしは葵ちゃんといっしょにいたいんだと、そう思うのだ。
「葵ちゃんの髪型って、ちょっと変」
わたしがそう言うと、葵ちゃんは軽くショックを受けたみたいだった。
「そうかな……」
お昼休みで、わたしたち二人は屋上にいた。まわりには誰もいなくて、天気はよく晴れていて、空から直接高度を下げてきたみたいな風が吹いていた。
わたしも葵ちゃんも、もうお昼はすませてしまっていて、出入り口近くの段差のところに座っている。
「うん、だって無理やり形を作ってるみたいだもん」
葵ちゃんは気にするように、頭の後ろでまとめてある自分の髪に触った。
「……そうかな、ちゃんとしてるつもりだけど」
「おかしいってほどじゃないけど、でももっと良くなるはずだよ」
「うーん」
「ねえ、わたしが直してあげようか?」
葵ちゃんはちょっと不思議そうな顔をした。
「ハルちゃんが?」
「うん」
昔から妹の世話をしているので、わたしはそういうことには慣れているのだ。
「大丈夫かな?」
「任せなさい」
不安そうな顔をする葵ちゃんに、わたしは自信満々でうなずいてみせた。実際には、特に根拠のない自信だったけど。
「じゃあ、お願いします」
葵ちゃんはちょっと笑って、くるりと後ろを向いた。
「しばらく、じっとしててね」
わたしはさっそく、葵ちゃんの髪の検分に入った。葵ちゃんはまとめた後ろ髪をくるりと巻いて留めているのだけど、予想通りのそのまとめかたは歪で、何だかできそこないの犬のしっぽみたいな感じだった。
大体のイメージを固めてしまうと、わたしはピンやら髪留めやら輪ゴムやらを解いて、その髪を再構築しにかかった。いったん梳きなおした髪をあらためてまとめ、正しい手順を踏んでピンで留め、形を整えていく。
そのあいだ、葵ちゃんはくすぐったそうな、ちょっとだけ気恥ずかしそうな様子をしていたけど、黙ったままじっとしていた。わたしも一言も口をきかずに、作業を進めていく。それは何だか、古い時代の神聖な儀式でも行っているみたいな、そんな厳かな気持ちを抱かせるものだった。亡国の王女と、その侍女、とでもいうような。
「――うん、できたよ」
しばらくして、わたしは葵ちゃんの髪から手を離した。個人的には、かなり満足のいく出来である。
「本当に? おかしくないかな、私……」
「大丈夫。ほら、鏡貸してあげるから」
そう言って、わたしはポケットから小さな鏡を取りだして葵ちゃんに渡した。
「…………」
葵ちゃんはその鏡に自分の姿を映して、じっとのぞきこんでいる。その仕草は何だか、世界の秘密でも見つめているみたいだった。
「どうかな?」
と、わたしは訊いてみた。
「うん、悪くない」
葵ちゃんは何の裏表もない、太陽みたいな笑顔を浮かべた。
「ハルちゃんはすごく上手だね、まるでお母さんみたいだよ」
わたしはあまり人に誉められたことがないので、どうにも照れてしまって、自分でもわかるくらいに顔を赤くした。
「あ……」
その時、葵ちゃんは不意に何かに気づいたみたいに立ちあがった。そのまま、誰かにひっぱられるような格好で歩いていく。
「ねえ、ハルちゃん、すごいよ!」
葵ちゃんは振り返って、わたしに向かって嬉しそうに言った。
「……?」
けどわたしには、葵ちゃんが何を言っているのかわからない。屋上には相変わらず誰もいなくて、空は相変わらず真っ青で、風は相変わらず気持ちよかった。
「葵ちゃん、どうかしたの?」
「――雨みたいだよ」
わたしの言うことなんて聞こえていないみたいに、葵ちゃんは空を見上げながらつぶやいた。
「光がいっぱい、降ってくる。流れ星がここまで落ちてきたみたい。落ちてきて、そのままどこかに通り抜けていく。まるで魂を突きぬけて行っちゃうみたいに。ほら、こんなにいっぱい、いっぱい落ちてくるよ」
その言葉通り、降ってくる雨粒を全身で受けとめるみたいに、葵ちゃんは両手を広げていた。雨の日に、子供がきれいな傘を差して喜ぶみたいに、葵ちゃんはくるくる回っている。
「いつもはね、こんなにもいっぱいは降ってこないんだ。時々、見えるくらい。でも今は、いっぱいいっぱい、雨みたいに降ってる。本当に、すごいよ、こんなの」
もちろん、わたしの目には何も変わったことなんて映っていない。空はいつも通りの格好で、何も降ってきてなんていない。
「…………」
でも、わたしが葵ちゃんの言葉を聞いて思い出していたのは、ニュートリノのことだった。
ニュートリノは、三種類ある中性レプトンのことだ。といっても、わたしには何のことだかよくわからないけど、要するに原子核よりもっと小さい、素粒子の一種だ。すごく小さくて、質量もほとんどないので、何でもかんでもすり抜けてしまう。こうしているあいだにも、その辺を何百兆個と飛びかっているのだけど、周囲への影響はほぼゼロだ。
電気的にも中性なので、検出するのがとても難しく、存在を見つけるのには大規模な実験施設が必要になる。大量の水と検出器を備えた地下深くの水槽とか。ニュートリノは、例えば太陽の観測なんかにも役立つ。太陽内部の光というのは、表面に達するまでに数十万年という時がかかるけど、ニュートリノならそれがたったの二分ですんでしまう。つまり、太陽ニュートリノの観測を行えば、太陽内部で今何が起こっているのかがリアルタイムで予想できるというわけである。
ニュートリノは重力の影響も、電気的な影響もほとんど受けないので、宇宙の彼方からだって地球まで届いてしまう。はるか遠く離れた星のことだって、ニュートリノを調べればわかってしまうというわけだ。
「…………」
空から降ってくる〝何か〟を見つめる葵ちゃんを眺めながら、わたしはふとそんなことを考えていた。どこか、わたしたちの想像さえ追いつかないようなどこか遠く、そこからまっすぐに、まったく一直線にこの場所まで届いた物質の小さな小さな一欠片。
けれどそのか細いメッセージは、わたしたちには伝わらない。その言葉はあまりに小さくて、あまりに目立たないものだから。
そう思うと、わたしは葵ちゃんの何かに触れたような気がした。
彼女の見ている何か――ううん、葵ちゃんの心の世界、そのものに。
地球から約16万光年離れた宇宙、大マゼラン雲で恒星の一つが超新星爆発を起こしたと観測されて話題になったのは、その日の午後も遅くなってからのことだった。
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