3(もうやめるから)

 お昼休みになると、わたしたちは机をよせあってお弁当を食べる。わたしのお弁当は母親の作ってくれたもので、ピンクのハンカチに包まれた、ごく普通のランチボックスに入っている。

 昼食時の話題は、色々だ。身近なことから世界の出来事まで。でも大抵の場合は、テレビのこととか、芸能人のこととか、街でよく流れている音楽とか、そういうのが話題になることが多い。

 そういう時、わたしは積極的に話題を提供したり盛りあげたりするタイプじゃないので、聞き役というか適宜に相槌を打つ、というのが主になる。時間としては、黙っているあいだのほうが長いだろう――それに実のところ、わたしはそういう話題があんまり好きではないのだ。

 その日、それは理科の先生が風邪で休んで二時間目が自習になった以外には特に変わったことのない日だったけど、わたしたちはいつものように机をひっつけてお昼を食べていた。

 校舎の外には澄んだ青空が広がっていて、窓からはずっと遠くから旅してきたみたいな気持ちのよい風が吹きこんでいた。

 その日の話題は、昨日放送していたクイズ番組のことで、私あれすぐにわかった、とか、賞金もらったら何に使う、とかそんなことをとりとめもなくしゃべりあっていた。

 わたしは例によって、適当に耳を傾けながらお弁当箱の玉子焼きを食べていた。母親の作る玉子焼きはちょっと甘めの味つけで、他の人に食べさせると不評だったけど、わたしはこの味がとても気に入っている。

 その玉子焼きを食べながら、わたしはちらっと葵ちゃんのほうをうかがった。

 葵ちゃんは教室の後ろのほうで、一人でお弁当箱を広げていた。まわりには、誰もいない。葵ちゃんはけれど、そのことを気にしたふうもなく箸を動かしていた。

「宮瀬さんてさ――」

 わたしのその視線に気づいたのかもしれない。隣に座っていた森田さんが言った。

「いっつも一人じゃない?」

 たぶん、わたしはどういう表情もなく、みんなのほうに視線を戻していた。

「そうそう、いっつも一人だよね。休み時間のときも、お昼休みのときも」

 阿川さんが嬉しそうに相槌を打つ。

「友達いないんじゃないの?」

「いや、そりゃそうでしょ。友達なんているわけないじゃん。何しろ、あれだし」

「〝イタコ〟だもんね、宮瀬さん」

 イタコ――東北地方の巫女とか、あとは〝痛い子〟という意味で、葵ちゃんのことを噂するときに使われたりする。もちろん、いい意味なんてあるはずはない。

「だからさ、邪魔しちゃ悪いもんね。何しろ超自然現象発生中だから」

「そっか、修行中だもんね、イタコ」

 くすくす笑う。

「――――」

 たぶんそれは、葵ちゃんにも聞こえていただろう。こんなに近くで、こんなに大声でしゃべって、耳に入らないはずがない。というより二人は、葵ちゃんにわざと聞かせようとしていたんだと思う。

 それは単純に、葵ちゃんのことを目障りに思っていたせいもあるだろう。理不尽な話かもしれないけど、一人でいる人間というのは、それだけでグループの存在を脅かすところがある。グループの必然性みたいなものを、こっそりと否定してしまうところが。

 それともう一つは、わたしに対する無意識的な牽制みたいなところがあったのかもしれない。わたしが葵ちゃんと親しくするのが、みんなにとっては不愉快なのだ。それは別にわたしを取られたくないとか、そんなことではなくて、たんなるプライドというか、面子の問題だった。集団には、個人とはまるで別の心理作用みたいなものが存在する。

 要するに何と言うか、これは葵ちゃんに対する嫌がらせであると同時に、わたしに対する警告のようなものでもあるわけだった。真野さんも、ああはなりたくないよね、というような。

 けれど――

 気づいたときには、わたしはもう立ちあがっていた。

「――ごめん、わたしもうやめるから」



 わたしの妹は精神遅滞というか、いわゆる〝知恵遅れ〟というやつで、今も普通の学校には通っていない。同じ市内にある特別養護施設に通所していて、そこで訓練というか、日常生活を問題なく送れるよう経験を積んでいる。妹はもう十歳になるけれど、いまだに両手の指より多くは数えられないし、五画以上の漢字を書くこともできない。

 妹がそんなふうになったのは、子供の頃の病気が原因だった。ある日突然、ものすごい熱を出したのだ。体に触れていられないくらいの高熱だった。両親は二人とも、世界がひっくり返ったみたいに大騒ぎをして、わたしも何だか怖くて、毎日不安で、流れ星に向かって必死にお祈りをしたりした(わたしの星に対する興味の一部は、それも含まれている)。

 結局、妹の命は何とか助かることになった。両親はほっとして、わたしもほっとしたけど、見ためは何ともない妹は、脳の一部に障害を抱えることになった。その障害は最初に言ったように知能的なものと、体に残る麻痺として現れている。妹は右足がうまく動かせなくて、いつも足を引きずるような格好で歩く。

 妹がそんなふうに普通じゃなくなったとき、家の中はひどくばたばたとしていた。母親はしょっちゅう病院に通い、何か考えこみ、父親と二人で夜遅くまで相談したりしていた。

 二人が家を留守にするとき、妹の面倒を見るのはわたしの仕事で、わたしはよく妹と二人だけで遊んでいた。

 その頃のわたしは妹の病気とか障害についてはよくわかっていなくて、精神遅滞なんて言葉も知らなかった。妹が具体的にどういう状態になっているのかなんて、まるで知るよしもなかったのだ。

 でもわたしが妹といっしょに遊んでいて思ったのは、この子はなんてきれいな目をしているんだろう、ということだった。それはまるで、世界中の色という色をみんな集めて作った、きらきらした飴玉みたいな瞳だったのだ。

 わたしはその瞳を見るのが好きだった。その、まるで曇りを知らない瞳は、世界の本当の姿を映しているみたいで安心させられた。

 ――ううん、違う。

 わたしはその瞳に、姿が映っているみたいで、ほっとしていたのだ。そこに、わたしの正しい姿が保存されているみたいで。

 けどそんなあれやこれやも、今から思い返してみれば、ということなのかもしれない。当時のわたしはやっぱり、妹という存在と、それがわたしに一任されているということに、どこかしら誇らしい気持ちでいたような気がする。その誇らしさが、妹に対するそんな特別な想いを形作ったのかも。

 とはいえ、わたしは今でも妹の瞳を見るのが好きだった。世界をまっすぐに見つめるような、その瞳を。そしてそういう瞳をした人に出会ったことは、今までに一度もないのだった。

 ――中学校で、葵ちゃんと出会うまでは。



「――ごめん、わたしもうやめるから」

 やめる? わたしは何をやめるつもりなんだろう。

 でも頭の中の混乱とは別に、わたしの体はほとんど自動的に動いていて、食べかけのお弁当を片づけていた。まるで何かの糸が切れてしまったみたいに、体のほうはわたしを置き去りにして勝手に動き続けている。

 みんなはそれを、ぽかんとした表情で見ていた。まるで、間の抜けた案山子か何かみたいに。

 わたしはお弁当を片づけてしまうと、何の迷いもなく葵ちゃんのところに歩いていった。そして、

「葵ちゃん、行こ」

 と、それだけをごく手短に言った。

 葵ちゃんはきょとんとして、何が何だかよくわからない顔をしていたけど、わたしは彼女のお弁当をちょっと乱暴に片づけてしまった。そしてそれを無理に持たせて、イスから立たせてしまう。

 そうしてわたしは葵ちゃんの手を摑んで、強引に教室をあとにした。辺りがしんと静まりかえっていたような気もするけど、うまく思い出せない。

 わたしはただ、わたしが握っている葵ちゃんの、その手のどうしようもないくらいの小ささばかりを感じていた。


「ねえ、ハルちゃん、どうしたの?」

 葵ちゃんは歩いている途中で、そう訊ねてきた。葵ちゃんはもう自分で歩いていて、その手をひっぱる必要なんてなかったけど、わたしはその手を離さなかった。

 昼食時間ももうだいぶ過ぎていて、廊下にはちらほらと人影があった。わたしたちはお弁当箱を持って、そのあいだを歩いている。わたしは自分がどんな顔をしているのかよくわからなかったし、そのことを気にするような余裕もなかった。たぶん、向こうからやって来たら、急いで道を譲ってしまいそうな顔だったと思う。

 わたしは葵ちゃんの質問には答えないまま、とにかくあの場所から離れたくてずんずん歩いている。

「ねえ、ハルちゃんてば」

「…………」

「戻ったほうがいいよ、みんな驚いてたし」

「…………」

「それによくないよ、こんなの。私といっしょにいると、ハルちゃんまで変な目で見られるし、みんなのところに戻れなくなるよ?」

「――いいの」

 わたしは怒ったような口調で、短く言った。

「いい、って……ハルちゃんはわかってないんだよ、自分が何をしたのか。私のせいで、ハルちゃんは困ったことになるんだよ?」

 わたしは立ちどまって、そして振り返って言った。

「いいって言ったら、いいの! それにわたしは、葵ちゃんにそんなふうに言って欲しくない。葵ちゃんがそんなふうに言わなきゃならない場所になんて、わたしは戻りたくない!」

 葵ちゃんはその言葉に、というよりはわたしの剣幕に驚いたみたいに口を噤んでしまった。びっくりしたような、きょとんとしたような顔で、葵ちゃんはわたしのことを見ている。

 けどわたしはと言えば、毛を逆立てて怒る猫みたいに苛立っていて、自分が何を言っているのかもよくわかってはいなかった。何もわたしは、だいそれたことをしようとか、正義のために戦おう、なんて思っていたわけでない。わたしはただ、自分のこの感情、どこから湧きあがって来るんだかよくわからない、この見知らぬ感情に従おうとしているだけなのだ。

 わたしは黙った葵ちゃんの手を引いて、再び歩きはじめた。相変わらず、行く先は決めていない。

 廊下から見える窓の外には、それでも変わることのない青空がのぞいている。

「――――」

 と、しばらくして葵ちゃんが立ちどまった。わたしは手をひっぱられて、足をとめる。

「ねえ、ハルちゃん」

 と葵ちゃんは言った。

「――屋上に行ってみようか」

 そう言った葵ちゃんの顔には、いつもと同じ笑顔が浮かんでいた。

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