8(光)
そして今、わたしは同じ屋上にいる。
今度は、宮原さんはいなくて、葵ちゃんといっしょだ。お昼休みで、食事はもうすませてしまっている。空は晴れていて、南のほうに向かって白い飛行機雲がまっすぐにのびていた。
「…………」
あれから、葵ちゃんには何の変化もない。何かの秘密を聞かされたふうも、変てこなごたごたにまきこまれたふうも、何も。葵ちゃんはあくまで、葵ちゃんだ。いつも通り、明るくて元気な。
美原さんのほうは、音信不通の状態。といっても、同じ学校にいるし、話をしようと思えばいつでもできるのだけど、わたしはもう一度五組の教室に行こうとはしなかった。美原さんはその後、葵ちゃんとは会っていないみたいだけど、彼女の言う「調査」云々がどこまで本当なのかはわからない。もしかしたら、あれはわたしのためについた嘘で、本当はやっぱり「見えている」のかもしれない。話としては、そっちのほうが自然なようにも思える。
けどいずれにせよ、わたしと葵ちゃんは相変わらずいっしょだった。クラスでも何となくわたしたちのことが容認されてきたらしく、悪口や陰口も減ってきている。わたしと香坂さんのグループとは、関係修復不可能のままだったけど――
今、葵ちゃんは青い空を見上げて、はるか彼方のその場所に向かってちょっとだけ手をのばしている。葵ちゃんには今日もやっぱり、見えない光が見えているらしい。
それは、わたしには決して見えないものだ。
「ねえ葵ちゃん、聞いてもいいかな?」
わたしはまるで、ずっと前から用意してきた言葉みたいに、自然にそう口にしていた。
「ん、何、ハルちゃん?」
「実はね、葵ちゃんのお兄さんに会ったんだ」
葵ちゃんはちょっと不思議そうな感じに、わたしのことを見た。
「偶然、会ったんだ。わたしは向こうのことを知らなかったけど、向こうはわたしのこと知ってて。それで、少し話をしたの。葵ちゃんの名前のこととか。でも、お兄さんに今日のことは内緒にしておいてくれ、葵ちゃんがきっと気にするだろうからって言われて……だから、今までそのことは黙ってた」
「…………」
「それでね、こんなこと聞くべきじゃないのかもしれないけど、でもね、どうしても気になって。つまり、葵ちゃんは何で名前を変えないんだろう、って。わたしはそのことがわからなくて――」
葵ちゃんはしばらく黙っていた。空の上では、飛行機雲がゆっくりと青色の中に溶けていこうとしていた。
「あのね、光が見えたの」
「光……?」
わたしはよくわからないまま、その言葉を繰り返した。
「うん、光」
葵ちゃんは何かを思い出すような、何かを懐かしむような、そんな顔をしている。
「お父さんが亡くなるときにね、光が見えたの。お父さんの体からぱっと飛び散る光が。それはちょっと弱かったけど、わたしがいつも見てる、空から降ってくる光と同じものなの。それでね、その時はじめてわかったんだ。『ああ、あれは命がなくなるときに出る光なんだ』って」
命がなくなるときに出る光?
「うん、本当のことは、私にもよくわからないんだけどね」
葵ちゃんは子供みたいにちょっと舌を出してみせた。
「でも、私はそんな気がする。あの光は――ううん、私が今も見てるこの光は、きっと命の証か何かみたいなものだって。命がそこにあったんだっていう証。例え命そのものはなくなっても、それは残るんだと思う」
「それが、理由――?」
「うん、たぶん、そうだと思う」
にこっと、葵ちゃんは笑った。世界がほんの少しだけ、どこかで変わってしまうような笑顔で。
「…………」
人には見えないものが見えるという葵ちゃん。
名前を変えようとしない葵ちゃん。
――つまりは、そういうことなのだ。
葵ちゃんはお父さんのことが「なかったこと」になってしまうのが嫌なのだ。お父さんが亡くなったときに見えたという光、葵ちゃんにしか見えない、命の証みたいな光。例えみんなが見えないと言っても、葵ちゃんのことを嘘つきだと言っても、葵ちゃんはそれを「なかったこと」にはできなかった。その光は、お父さんの命の証でもあるのだから。
そして葵ちゃんは、みんなには見えない光を見えると言い続けなくてはならなかったのと同じように、お父さんと同じ名前でい続けなくてはならなかった。例えそれで、人にどんなふうに思われたとしても。
葵ちゃんは守りたかったのだ、自分の中の〝大切なもの〟を。
(そうなんだ、葵ちゃんは……)
葵ちゃんはずっと、一人で戦ってきたんだ。ずっと、一人で守り続けてきたんだ。
だからこそ、葵ちゃんは――
「……もしも」
と、わたしは言おうとした。もしも、葵ちゃんと同じものが見える人がいたとしたら……
でも、葵ちゃんは、
「え、何か言った、ハルちゃん?」
とわたしの声は聞こえていないみたいだった。
「――ううん、何でも」
わたしは首を振った。たぶんそれは、葵ちゃんが自分だけで決めるべきことなのだろう。わたしが余計な影響を与えたりはせずに。
「変なハルちゃん」
そう笑って、葵ちゃんはまた見えない光を追って空を見上げた。
「…………」
少しだけ、わたしは顔を上げた。
葵ちゃんが見えているというその光は、やっぱりわたしには見えない。どんなに目を凝らしても、星の光のすべてが見えるわけじゃないように。どんなに耳を澄ませても、夜の音のすべてが聞こえるわけじゃないように。
でもその時のわたしは、きっと、できるだけ葵ちゃんのそばにいたいと、そんなことを思っていた。どんなに不可解で、納得できないことがあったとしても。たぶんそれが、わたしにとっての〝大切なもの〟なのだから。
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