第29話 貴方という人は
そろそろ撤退しないと見つかる恐れがあるので、先程茶会をしていた場所に戻ろうとアレクに耳打ちする。アレクは私に不意に耳打ちをされて驚き、また顔を赤くしていた。
アレクもそれに賛成してくれて、2人でコソコソとその場を去った。元々護衛達は気配を消す事に慣れているのでお手の物である。
戻ってきた後、アレクは私の両手を握り込み、その、まさにアレキサンドライトの宝石のような瞳を私に向けた。私は思わず姿勢を正し彼の言葉を待つ。
「これから気をつけなさい。さっきので俺は分かった。護衛を必ず傍につかせるんだ」
私は無言で深く頷き、視線をちらとアレクから向けられたガリレオは胸に手を当てて丁寧に一礼する。私達の反応に安心したのか、彼の何処か強ばっていた頬はふわりと緩む。
すると、「セレイラ!!!」と必死な、そしてほんの少し怒気が混ざった私の名を呼ぶ声が聞こえたので、私達はその声の方へ顔を向けた。私はその声の主に驚きのあまり、その人の名を口先だけで紡ぐことしか出来なかった。
「殿下………」
ウィリアムはスタスタとその長い脚で寄ってきたと思うと、スパーンと凄い勢いでアレクの手を引き離した。ウィリアムはアレクを射殺す様な眼力で睨みつけ、それに彼は顔を引き攣らせ、両手を高く上げて降参の意を示す。
そうしてウィリアムは溜息を落とすと、「ちょっといい?」と私の手首を掴み、何処かに歩き始めた。振り返れば、アレクが「行ってらっしゃーい」と手を優雅に振っている。
突然の展開に整理がつかないまま、私の手を引く目の前の彼の背中を見る。ウィリアムはいつもシワ1つない服装をきちりと着こなし、1番ラフでもシャツにベストにネクタイ、しかもそのシャツは1番上のボタンが外れているのみ。
そんな彼が今、制服のまま、それもジャケットは脱ぎ、いつも上まで締められているネクタイは緩められ、ベストのボタンが全て外れていたのだ。切りそろえられた綺麗な髪も、今は走っていたのか乱れている。
何かあったのだろうかと、小走りになりながら考える。そうする内にやってきたのは――――ウィリアムの私室。
いやいや可笑しい。未婚の男女が私室に2人等言語道断である。ガリレオに助けを求めようと振り返っても誰もいなかった。最初はついてきて居たのだが、途中からウィリアムが撒いたようだ。
私の抵抗も虚しく、ウィリアムに引かれて入らざる負えなかった。ドアがパタンと閉まった瞬間、私はウィリアムと扉の間に挟まれ、逃げ道も彼の腕で塞がれる。
私はウィリアムの顔が近くて、自分の吐息が掛かってしまいそうで、そして自分の高鳴る鼓動が彼に伝わってしまいそうで、顔に熱を持つのを感じつつ、顔を逸らした。
「――――すまない」
「え……?」
ウィリアムは顔を歪ませて、私から離れていった。泣きそうな、苦しそうな、そういう表情だった。左手を腰に当て、右手で色鮮やかな赤髪をクシャリと掻く彼の背中をただ困惑しながら見るしかなかった。
ウィリアムが一体何を私に言いたいのかが掴めない。私はさっきからウィリアムの後ろ姿しか見ていないのも心にずっと引っ掛かっている。
話をするなら貴方の顔を見て話したい――――。
そう思うのは私の我儘だからだろうか?
「殿下……?」
「……怖がらせる訳では無かったのだ。すまない」
「殿下、それは誤解です。怖がっていた訳ではありませんわ」
「………よかった」
それでも項垂れた頭も、背中しか見せてくれないのも変わらない。私は思い切ってウィリアムの前に回り込んで顔を覗き込んだ。ウィリアムの瞳はめいいっぱい開かれる。
「殿下、お顔を上げて下さいまし」
「セレイラ……」
顔を上げたウィリアムにほっとしたのも束の間で、彼は眉間に皺を寄せて右斜め下に顔を逸らしてしまう。
「殿下、婚約破棄の件は申し訳ありませんでした」
「驚いた。まだ了承はしていない。私はするつもりはない。しかし……婚約破棄は……セレイラが望んだ事だろう……?」
「……そう……思っておりました」
私は婚約破棄をしなければならないという、半ば義務のように思っていた。
「殿下がもし……許してくださるなら……」
貴方がもし隣に私を立たせて頂けるのなら、それはどんなに幸せな事か。アルを失った悲しみから余計にそう思う。
「婚約破棄の話を無かったことにして頂けませんでしょうか……?」
もう少し自覚するのが早ければ今こんな事にはなっていなかっただろうと、自分の鈍感さに何度悔しく思った事だろう。ウィリアムは許してくれないかもしれない。許してくれと言う方が烏滸がましい。
瞼をギュッと瞑り、恐怖と緊張とで震える睫毛と手足に力を入れる。頭を下げているので、彼がどんな表情を浮かべているのか私には分からない。雰囲気から読み取ることも、今の正常ではない私にはとてもでは無いが出来なかった。
低く私を呼ぶ声がして、頭を上げてくれと小さな声で言われた。私はゆっくりと重い頭を上げる。
その瞬間、何か温かいものに身体を包まれて、私の見知っている香りが鼻を掠めた。驚いて小さな声を上げる。今の状況を把握するのには、そんなに時間はかからなかった。
私が頬を寄せているそこは、いつもより薄着な為か、彼の早鐘を打つような心拍が良く聴こえる。それに共鳴する様に私の鼓動もトクトクと強く早く脈を打つ。
私を包む、細身ながらも剣術の訓練で鍛え上げられたその腕は逞しく、私が彼の背中に腕を回すと、ウィリアムはその抱きしめる力を強くした。
「………良いに決まってる………」
息と共に零したその言葉は酷く繊細で、しかし芯が真っ直ぐ通った意思の強いものだった。私はそれに笑みが零れた。
数分位、同じ体制を崩さずいるので、そろそろ私は恥じらいの気持ちが全面に出てきた。彼の胸板をグッと押してみるが、力の差は圧倒的でビクともしない。
「殿下……っ!そろそろ……!」
「違う」
「……殿下……?」
するとウィリアムは少しだけ身体を離し、額と額をコツンとぶつける。予想以上に近いその距離に、私は耳まで赤くした。
「『殿下』じゃないだろう……?……呼んで?」
乞う様に甘く言われてしまえば逆らえるはずもなく、私はさ迷わせていた目を、目の前の夕焼けの空のような美しい瞳に合わせる。
「ウィ……ウィリアム様っ……」
名を呼ばれたウィリアムは、それはそれは嬉しそうに破顔した。そして再度私を抱きしめて、私の銀髪に顔を埋めた。そのこそばゆい感じに羞恥が込み上げる。
「何だ?セレイラ。私の名を呼んでそのまま?」
悪戯に口角を上げているウィリアムの顔が目に浮かぶ。また貴方という人は。楽しんでいる感情がその声に乗せられている。私は何がなんやらで、彼を叩きながら「何を仰ってるのですか!?」と文句を言った。
肩を震わせてクククと笑いを零すウィリアムを恨みつつ、私は日常となりかけていた日々が戻ってきたことに安堵し、そして喜びを感じたのだった。
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