彼を避けたら上司の逆鱗を踏んづけたで候
翌日は
まともにメイクする暇もなかったけれど、まつエクのおかげで眉毛描いてUVカット付きのパウダー叩いてチークしてリップ塗るくらいで見られる顔になれたのが救い。
しかもそれらの工程を、親切な池崎様がお送りしてくださったお車の中でさせていただけた。
アホだけど、何だかんだで良い奴だ。本当にどうしようもないくらいアホだけど。
「……
適当メイクでも、髪型が変わったせいで随分と雰囲気が違って見えたらしい。
何せもう、頭が痛くて痛くて。
飲み過ぎに泣き過ぎ、おまけに睡眠不足、ついでに頭突きやら顎エルボーやらのダメージまで加わったおかげで、可愛いという言葉に喜ぶ余裕もない。
せっかく大変身したんだから完全版オトメイクで披露したかったのに、いきなりこれだよ……。
さらに本日は、
その御姿があまりにもヱロチックなもんだから、同じ事務室にいるとドキドキしちゃって仕事が手につかない。我を惑わす魔物ですか、あなたは。
「式島さん、大丈夫ですか? コーヒーでも淹れましょうか?」
「え、ええ、大丈夫。私のことは気にしないでいいから、古泉はもう行って」
私の申し出を断ると、式島さんは無理矢理に笑った。どことなく、その笑顔が悲しげに見えた……のは、さておき。
「行くってどこへですか?」
今日の私の仕事は発注納品業務、それと店内のコスチューム整理と倉庫の在庫チェックで、外出の予定はないはずなのだが。
「あっ! ああ、いけない、伝えるのを忘れてたわ。ごめんなさい……やだ、もう本当にどうかしてる」
式島さんは頭を抱え、艷やかな長い髪を掻き毟った。それから両頬を叩いて喝を入れ、私に向き直った。
「
キュンプリ。
その単語を聞くなり、私の顔面から表情が消えた。
「熱いジャンルは熱い人に任せるのが一番だわ。古泉が書いたレポ記事、熱量がすごかったもの。あれを読んでイベントに興味を持ってくださった方も多いのよ」
イベント。
そこには実写メンバーがいる。
中には、今一番会いたくない二人も。
「だから、今日のイベントから復帰して……古泉? どうしたの?」
俯いて固まっていた私は、式島さんの問いかけに重い口を開いた。
「…………行けません」
少しの間を置いて、式島さんが静かに尋ねた。
「
私は思わず顔を上げた。こちらに向けられた式島さんの目は、部下を心配する労りなど欠片もなく――ひたすら冷淡で厳しいものだった。
「あなたのプライベートに突っ込む気はないわ。でもそれが仕事に影響するなら、話は別。今朝、あなたが池崎
「違います! そんなんじゃ……」
「じゃあ何なのよ? イベントに行けない理由は何? キュンプリが好きじゃなくなったとでも言うの?」
言いたいことはたくさんあった。しかしどれも、言い訳にしかならないのもわかっていた。
ぐっと奥歯を噛み締めながら、私は頷いた。
「……はい。もうキュンプリなんて、見たくもないほど嫌いになったんです」
式島さんは私から目を逸らし、大きく溜息をついた。
「帰りなさい。今のあなたに、ここでできる仕事なんてないわ」
低い声音で下された通告に、私は慌ててパソコン画面を見た。
「でも、今日は入荷数も多くて……」
すると式島さんは立ち上がり、私のパソコンを強制的にシャットダウンした。
「作品へのリスペクトをなくした人間が、ウチの商品に触れることは許さない。わかった? わかったら帰りなさい!」
彼女の表情は、これまで見た中で最も強い怒りに満ちていた。
式島さんは、誰よりも作品を愛している。そしてそれ以上に、作品を愛する人を愛している。
私は、彼女の逆鱗に触れてしまった――それも、強く深く。
震える足を叱咤して立ち上がると、私はこちらを見てもいない式島さんにそれでも頭を下げ、無言のまま事務所を出た。
式島さんは、私に失望したに違いない。
クビにされるかもしれないな、とぼんやり考えながら、私は店舗でキュンプリ特設コーナーを整えている優愛ちゃんの元に、帰宅する旨を伝えに向かった。
「あ、古泉先輩! どうかしました? 死にそうな顔してますけど、早退ですか?」
事務室でのやり取りを知らない優愛ちゃんが、貼ろうとしていたポスターを放り出して駆け寄ってくる。
「うん……ごめんね。迷惑かけて申し訳ないけど、今日は帰らせてもらうね」
後で式島さんから詳細を伝えられるだろうけれど、心配かけたくなくて、私は曖昧に濁した。
と、そこへ。
「おおっ、古泉殿! 久々でござるな! ちょうど良かったでござる!」
「我ら、キュンプリカード全シリーズのはあと嬢をついにフルコンプしたのでござる! カードファイルを持参したゆえ、披露してさしあげるでござる!」
嬉しそうな声を上げて、こちらのキュンプリコーナーへと一直線に向かってきたのは、
彼らの顔を見た瞬間、私は力が抜けるのを感じ――そのままふらりと足元が揺れたのを最後に、記憶は途切れた。
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