彼のことが離れない頭に顎エルボーで候

 ベッドに身を横たえると、揺れていた平衡感覚がさらなる浮遊感に揺れた。


 さぞ良き寝具なのであろうな、と感触を確かめる間もなく、池崎いけざきもベッドに乗ってくる。



「サクちゃん……もしかして、初めて?」



 酔っ払ってるとはいえ、スイートルームのベッドで寝ることではなく、男性経験の有無について聞いているんだということくらいは鈍い私にもわかった。


 なので素直に頷き、こちらからも尋ねてみる。



「池崎は百人くらい? それとも千人超えてたりする?」



 スーツのジャケットを脱いでいた池崎は、しゅんと肩を落とした。



「俺って、そんなに遊んでそうに見えるんだ……一人しか経験ないんだけど」



 あら、意外。金持ちのイケメンっつったら、どいつもこいつも星の数ほど女を侍らせてハーレムワッショイしてるイメージだったよ。


 しかしこのワンコは、どうやら純情一直線の忠犬のようだ。


 一途ワンコ攻めってやつか……ハイスペでも溺愛系スパダリとはまた異なる、クソ萌え設定の一つですな!



「じゃ私とそんなに変わんないんだね。でも一応は経験者ってことで、よろしく頼むよ」



 その一人が誰なのか、いちいち突っ込むのも野暮なので、私は適当に鼓舞するだけにしておいた。



「が、頑張りますっ!」



 生真面目に返事すると、池崎はついに私の体の上にのしかかってきた。




 初めて経験する、男性の肉体の重み。




 こういうことは、絶対に十哉トーヤとするんだと思っていた。その時を、密かに心待ちにしていた。身も心も結ばれる日がいつか来ると、何の疑いもなく信じていた。


 一番欲しかったそれが、まさか目の前で奪われるなんて。私じゃない誰かと結ばれる瞬間を、この目で見ることになるなんて。



「サクちゃん」

『サク殿』



 池崎の声に、十哉の声が重なる。


 夢小説に出てきそうな甘く爽やかなイケメンが、悪夢に出てきそうな鼻毛の出た汚顔のキショメンに変わる。



 その顔を見たくなくて、私は固く目を閉じた。



『サク殿』



 名前を呼ぶのはやめて。お前なんか大嫌い。



『サク殿』



 やめろっつってんだよ。お前なんか忘れるって決めたんだ。



『サク殿』



 ああ、もう! うるせえうるせえうるせえ!!



『サク殿』



 しつこいんだよ、好きでもないくせに!



 ずっと一方通行だった――好きで好きで、今もこんなに好きで堪らないのは自分だけで!



 僕だけが苦しい思いして! 僕だけが忘れられなくて!




『サク殿』




「……いい加減にしろ! 黙れっつってんのがわからねえのか、キショヲタ野郎! 馴れ馴れしく僕の名前を呼ぶんじゃねえ! 殺すぞ!!」



 怒鳴りながら瞼をかっ開いたら、何故か目の前に紐がある。



 僕は迷わず、それを力一杯引っ張った。



 酔っていたせいで、悪夢をオンオフできるスイッチかと思ったのだ。




「ぐえあ!」

「痛えー!」




 しかしそれはスイッチでも何でもなく――池崎が身に着けていた、私セレクトのマッチョマンネクタイだった。


 ネクタイごと思い切り首を前方に引かれた彼が、勢い余って倒れ込む。


 ついでに、私の額に顎をしたたかに打ち付けてくれた……。




「やっぱり……この作戦は失敗だったね。ねえ、俺の顎、ひしゃげてない? 大丈夫?」


「ちょっと無理があったよね……ねえ、私のおでこは? 凹んでない? 穴空いてない?」



 ベッドの上で苦痛に悶絶しながら、私と池崎は改めて互いの無事を確認し合うと、揃って苦笑いした。



「サクちゃん、僕っなんだね。私って一人称より似合うなぁ」


「うるさいな、これでも頑張って直したんだよ。まだたまに出るけど」



 私は身を起こし、ベッドに正座した。



「……すぐに忘れるなんて、やっぱりできない。トーヤのこと、すごく好きだったもん。浮気されても殴られても、私のことなんて好きじゃないってわかってても、それでもまだこんなに好きなんだもん……!」



 再び涙が溢れてくる。私は側にあった触り心地が鬼ゴージャスな枕を抱き締め、それに顔を埋めて嗚咽を殺した。


 そんな私の頭を、池崎は優しく撫でてくれた。



「今日くらい、思う存分泣こ? 俺も……レイカのことばっかり考えてた。サクちゃんには申し訳ないけど、ここにいるのがレイカだったら、って……」



 そっと顔を上げてみれば、彼もまた涙を零しながら必死な顔で嗚咽を堪えている。私はベッドの上に乗っていたもう一つの枕を、彼に手早く渡した。



「うう……ごめんね、サクちゃん。ちょっとだけ、おっぱい揉んじゃった……!」



 枕に顔を押し付けると、池崎は涙声で詫びた。私もまた、枕に顔を沈めて答えた。



「いいってことよ……。極厚パッドでモリモリのブラにシリコンパッドまで仕込んでたから、触られたことにすら気付かなかったし……!」


「そっか……俺、中綿とシリコンに興奮してたんだね……! 変態だね……!」


「失恋からの変態発覚って、辛すぎるな……! お前は誰より泣いていいよ……!」




 こうして私達は泣いて泣いて、目も脳も溶けるんじゃないかってくらい泣いて――極上のスイートルームを舞台に、素晴らしく間抜けで情けない一夜を過ごした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る