彼に当たって見事砕け散ったで候
タクシーを降りると、私は戦いの地となる小さなアパートを見上げた。目的地である二階の左端の部屋には、ちゃんと明かりが灯っている。
彼はこの格好を見て、どう思うだろう? 惚れ直してくれるだろうか? 好きだと言ってくれるだろうか?
それとも、もう……手遅れ、なんだろうか?
嫌な想像を振り払うように、私は頭を振った。動きに釣られてエクステがふわふわと舞う。
大丈夫、こんなに可愛くなったんだ。私だって負けない!
裾を踏まないように気を付けながら錆びた階段を上り、部屋のインターフォンを押す。が、応答なし。
もしかして、部屋にまで突撃するファンが現れて警戒してるのかも? 大分見た目が変わったから、モニターからじゃ誰だかわからないだろうし。
少し待っても出てくる様子はなかったので、私は合鍵を取り出して扉を開いた。
「トーヤ、いるのー?」
明かりを点けたままコンビニかどこかに出かけた可能性を考え、一応声をかけてパンプスを脱ぎかけた瞬間――呼吸が止まった。
雑然とした玄関に、きちんと並べられた女物の靴があったのだ。
「えっ……うわっ!」
そこへ、十哉の悲鳴。
私は靴も脱がずに部屋に上がった。廊下を占領する荷物を蹴散らし、リビングのドアを開け、そして――――心臓までも止まった、気がした。
キュンプリグッズで埋め尽くされた狭い室内に、一組の男女がいる。
銀髪の美男美女はどちらも揃って、下着姿だった。
しかも、ベッドの上で。
男が女を押し倒す形で。
膝が、震える。
声が、出ない。
息が、できない。
「サク殿、これは……」
脱力して倒れる前に、私は最後の力を振り絞ってその場から逃亡した。
「サク殿!」
十哉が私の名前を叫ぶ。けれど、私は無視して走り続けた。
「サク殿!」
全力疾走している間にも、十哉の声が聞こえる。
でも、これはただの幻聴。だって彼はもう――。
「サク殿!」
呼ぶな呼ぶな呼ぶな!
聞きたくない聞きたくない聞きたくない!!
「サク殿!」
嫌だ、十哉の声なんて幻聴でも聞きたくない!
十哉の姿なんて幻覚でも見たくない!
十哉のことなんて、考えたくもない!!
「サク殿!」
思い切り肩を掴まれてやっと、私は聞こえていた声が幻聴ではなく、追いかけてきた十哉が発し続けていたものだったと知った。
でも、だから何だというんだ。
「離せ!」
腕を振り解き、私はまた逃げようとした。けれど相手は男、どれだけ頑張っても力では敵わない。
「サク殿、違うので
「何が誤解だよ! 見たまんまだろーが! 離せっつってんだよ、クソ野郎!」
野獣みたいに暴れる私の両肩を押さえ込んで無理矢理自分の方を向かせると、十哉は真剣な表情で訴えた。
「あれは衣裳合わせをしていただけで候! 足を滑らせて、ああなってしまっただけで候!」
「何でお前ん家で衣裳合わせする必要があんだよ! 嘘ならもっとマシなこと言え!」
「嘘ではないで候! 学校の所用で本日のサイズ調整に行けなかったゆえ、
「じゃあ何であいつまで裸になってんだよ! おかしいだろうが!」
「それは吾輩にもわからないで候! 外で待っていてくれと言ったのに押し入ってきて、勝手に脱ぎ始めたので候!」
改めて見ると、十哉は部屋で見た時と同じ、パンツ一枚の裸足だった。
それを見ても、すぐに追いかけて来てくれたんだと喜ぶ気持ちなんて、微塵も湧かなかった。
「じゃあトーヤは、私が同じことしても許せるの!? 他の男と裸で抱き合ってても、理由があるなら仕方ないって信じてくれる!?」
「他の男とは……
肩を掴む十哉の手に、一層強い力が加わる。締め上げられるような痛みとその言葉が、私の怒りをさらに煽った。
「まさか、あの噂を真に受けてたの? 私が体で仕事取ってるって……そう思ってたの?」
「そ、そういうわけでは……」
「だったら、何でここで池崎の名前が出てくるんだよ!? 僕のことは信じてないくせに、自分のことは信じろって!? ふざけんじゃねーぞ、てめえ!」
「ち、違うで候! それも誤解で候! 吾輩はサク殿を信じているで候!」
何を言われても、全部嘘にしか聞こえなかった。
信じてもいない相手に、信じろと言う。
僕が現れなかったら、あのまま最後までやっちゃってたに違いないのに、誤解だと言う。
現実の女なんかとは比べ物にならないほど美しい理想の女と出会い、心奪われたのに――必死に引き止めようとする、フリをする。
「……バカみたい。トーヤにとって、僕はいい女じゃなくて、ただの都合のいい女だったんじゃん。何したって受け止めてくれるもんね。尻軽だって思ってるから、気にせず浮気できるもんね。ほったらかしても勝手に追いかけてくれる、便利なキープだったんだよね! 何したっていいと思ってるんだよね! 好きでも何でもないから!!」
頬に、重い衝撃が走った。
十哉が僕を平手で打ったんだと理解するまで、少し時間がかかった。
殴ったことは何度もあるけれど、十哉に殴られたのは初めてだった。
何、これ……何で僕が殴られなきゃなんないの?
すごく痛い。
痛くて痛くて――――涙、止まらない。
「サ、サク殿、すまぬ。つ、つい……」
「…………触らないで」
恐る恐る伸ばしてきた十哉の手を、私は振り払った。
「もういい。もう、疲れた。私、トーヤが望む都合の良い女になんかなりたくない。だからもう……別れて」
俯いていたから、十哉がどんな表情をしていたかはわからない。でも、何も言わなかった。
もしかしたら、ううん、もしかしなくても私から別れを切り出してくるのを待っていたんだろう。
本当にバカみたい。最後まで都合の良い女だ。
「…………トーヤなんか、好きになるんじゃなかった。初めての彼氏がこんな奴だったなんて、人生最大の汚点だよ!」
惨めにも程がある捨て台詞を吐いて、私は走り去った。
十哉は、追いかけて来なかった。
忙しく吸い込む空気に、秋の物寂しい匂いがほんのりと滲む。涙で濡れた頬に、夜気が冷たい。十哉に叩かれた痛みが、ひりひりと染みる。
――もう夏は終わったんだ。
その時になって初めて、私は季節の移ろいに気が付いた。
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