第四回 第一章_2

 セレティシア王国は現在、アルフレッド国王陛下が統治している。

 五つの都市から成り立ち、中央の都市クレンバレス、北の都市ロッシュフォード、南の都市サンクルス、西の都市ミレズレイ、東の都市キルヒンがある。もともとは五つの小国だったところを初代国王が統一し、その名残で土地名の響きがバラバラだった。

 さらに首都であるクレンバレスは一から七までの区にわけられる円形都市だ。第一区には王宮や大聖堂などが立ち並び、国の中枢を担っている。

 その北東に第二区があり、第七区までが時計回りに取り囲む。貴族や商人など幅広い階級の人々が暮らし、第一区側に近づくほど貴族が多くなる。

 リシュアが住む第七区は第一区の北側に面し、未だ雪の白さを残した山脈がよく見える自然豊かな街だった。

 遠目でそれを眺めながら、リシュアは何度目かわからないため息をつく。ジュリアスと共に向かった先は、クレンバレス第七区騎士団の駐屯所だ。

 奥行がある建物で、出入り口の扉をくぐれば広間となっている。一階は市民のための相談所や事務室があり、二階と三階は講堂や部隊ごとの部屋にわかれていた。敷地内には訓練場と馬小屋、食堂に宿舎も完備されている。

 相談所の事務員がジュリアスに気づく。

「お帰り、ジュリアス」

「団長は?」

「いつものところにいるぞ」

 ジュリアスは頷くと、重い足取りのリシュアを連れていく。それを見ていた事務員が「またやらかしたのか?」と呆れ顔になった。

 歩きながら、リシュアは相談所の辺りを見渡す。父親であるレオナルドも第七区騎士団の事務長として働いている。彼は騎士ではないが、事務に関してのみ、一般市民の職員も認められていた。

 心優しい父親であまり怒ることはないが、代わりにとても悲しそうな顔をする。

(――いないみたいね)

 ひとまず胸を撫でおろした。怖い怪物と優しい怪物を一度に相手する気力はない。

 三階まであがると、奥に団長室がある。

 ジュリアスが重厚な扉をノックすると、「入れ」と厳かな声が返ってきた。

 部屋の中に入ると、立派な机に現団長のオーガスタスが頬杖をついている。

 背後の壁にはクレンバレス第七区騎士団の証である、翼を広げた鷲と七つの星が刻まれた白地の旗が飾られていた。その両脇には窓があり、逆光によって彼の表情は見えない。

 部屋の中央にある応接用の背の低い卓とソファを通り抜け、ジュリアスは一礼する。

「先ほど起きた事件について報告に参りました」

 ジュリアスにぐっと背中を押され、リシュアは一歩前に出る。

 オーガスタスは三十歳過ぎの騎士で、強面の頬には、痛々しい傷痕が残っている。屈強な体つきは衰え知らずで、真っ黒な髪は刈りあげられ、黒い瞳に鋭い眼光が灯る。

 彼はモーガンが体調を崩したことをきっかけに、三年前に団長の座についた。性格は見た目通りに厳格そのもので、リシュアが無茶したと聞いて椅子が倒れるほど勢いよく立ちあがる。

「この馬鹿者がああああああ!」

 リシュアは身を縮ませて、オーガスタスの雷に耐えた。鼓膜がビリビリと刺激される。

「まったくお前というやつは! 今度は強盗を捕まえただと!?」

 オーガスタスの眉はつりあがり、瞳はギラギラと血走っていた。口はまだなにか言いたげに動くが、感情を押しこめるように大きく息を吐き出す。

「ほんっとに手のかかる……」

 片手で額を押さえながら、オーガスタスは椅子を立て直した。

 彼は泣く子どころか大人も黙る怪物と呼ばれているが、幼い頃から騎士団に入り浸っているリシュアにとって、憧れの騎士の一人でもあった。

「私は、人助けをしたまでです」

「あと先考えていなかったくせに。怪我人が出なかったのは奇跡だからな」

 間髪容れずにジュリアスの鋭い声が飛んできた。リシュアはぐっと唇を噛み、苦々しい表情を浮かべる。

「お前みたいな小娘が騎士の真似など、無鉄砲にも程があるぞ」

「同感ですね。目を離すと、すぐこれだ。俺たちの気持ちにもなってもらいたい」

 二人がかりで責められると分が悪いが、

「騎士になるために頑張ることの、なにがいけないんですか?」

 リシュアは拳を握りしめ、声を張った。ジュリアスとオーガスタスが口をつぐむ。

 セレティシア王国で騎士になるには、国家試験の合格が必須だ。年に一回、秋分の季節に第一区の闘技場で行われ、剣術と馬術を審査される。参加資格は、成人として認められる十八歳以上の男性のみ。

 ──どうして女の子は騎士さまになれないの?

 幼い頃の疑問が、リシュアの頭の中を巡る。

 モーガンの稽古に手加減は一切なかった。本物の厳しさを体験させることによって、夢を諦めさせようとしたのだ。

(だけど私はお祖父さまの予想を裏切ってしまった)

 リシュアの強い想いと努力は、結果的に国家試験の合格標準を満たせるほど成長させた。

 ひとつの手段として、男装で国家試験にもぐりこもうと考えたこともあったが。実行しないのは、ありのままの自分を見てもらいたいからだ。

(そのために必要なのよ。『若鷲勲章』が)

 活路がないなら、大衆を味方につければいい。

 王国には若者を支援するための制度が整っている。

 最も代表的なのがメダル形の勲章である『若鷲勲章』だ。

 毎年夏至を迎える日、五つの都市から成人未満の若き功績者が一人ずつ選ばれ、表彰されると願い事を叶えてもらえる。歴代の受章者に女性はいないが、こちらに男性のみという規定はなかった。

 リシュアの願いは、騎士の国家試験に参加すること。表彰されるために、幼い頃から剣技を磨いて人助けをしてきた。

 しかし。あっという間に十七歳となり、今年が最後の機会となった。

「剣術も馬術も、騎士に必要な技術は身につけてきました。騎士に対する想いは誰にも負けません!」

 リシュアは真剣な眼差しでオーガスタスに訴えかけるが、彼の表情は変わらない。

「お前は、騎士というものをなにも理解していない」

「時に危険が伴おうと、正義のために戦わなければいけないことはわかっています!」

「それだけでは駄目なんだ」

 オーガスタスの言葉に、リシュアは静かに耐える。

(誰よりも騎士の背中を見て育ってきたのに。なにがいけないの?)

 思わずうつむくと、オーガスタスとジュリアスが諭すように口を開く。

「夢を諦めるのは、辛く悲しいことだ。大人になるにつれて、諦めることへの勇気が必要になる。騎士になることだけが人生のすべてではない。お前には、他の道もあるんだ」

「団長の言う通りだ。それに、たとえ君が騎士になれたとしてもいいことはなにもない」

 ちらりと顔をあげると、二人は苦しそうに眉を寄せていた。

 またその表情か、と苛立ちが募る。どうしてこちらの本気を見てくれないのだろう。段々と悲しくなってきて、視界が揺らいだ。

「今日のところはもういい。ジュリアス、リシュアを下まで送ってやれ」

「わかりました」

 彼らの気遣いに、胸が痛くなる。

 ジュリアスは「失礼します」と踵を返した。リシュアも頭をさげてから、彼のあとに続いて団長室を出る。

(…………)

 廊下をとぼとぼと歩きながら、リシュアはか細い声でぽつりと呟く。

「私の夢を……良いとか、悪いとか、勝手に決めないで。幸せかどうかを決めるのは私だわ」

 それを聞いていたジュリアスが、追い打ちをかけるように言う。

「これを機に、騎士の真似事なんかやめてしまえ」

「うるさい! このわからずや!」

「なんだと!?」

 ジュリアスの叫びから逃れるように、リシュアは駆け足で階段をおりた。




 鼻をすする音は、水しぶきによってかき消される。

 駐屯所を飛び出したリシュアは、噴水の縁に腰をかけていた。

 ここはクレンバレス第七区の大通りから路地裏に入ったところにある。建物がひしめき合って並んでいるため、蜘蛛の糸のように細い道が入り組み、ときどき小さな空間ができる。そこに川から水を引き、憩いの場とした噴水広場が点々とあった。

 リシュアがいる場所もそのうちのひとつだ。静けさが心地よく、落ちこむたびに来てしまう。

(見た目だけは令嬢なのにね)

 水面に映る自分の姿を見て苦笑した。

 騎士と令嬢。普通なら相容れないだろう。

 それにもかかわらずリシュアが教養を学んできたのは、父親であるレオナルドとの約束だからだ。彼は娘の夢に反対せず、モーガンに一任した。その代わりジュノー男爵家の令嬢として、恥じない嗜みを身につけることに力を注いだ。

(……私がいつ夢を諦めてもいいように)

 誰もが令嬢として幸せになるべきだと言う。でも自分の気持ちと、モーガンの熱意を無駄にしたくはなかった。

(こんなとき、お祖父さまがいてくれたら)

 モーガン・ジュノーは、一年前に病で亡くなっていた。

 彼は生まれながら騎士として育ち、長年クレンバレス第七区騎士団の団長を務めてきた。そのほがらかな笑みは人を引きつけ、慕う者は未だ多い。

 指導者としてのモーガンは、強さと真心を持ち合わせていた。彼の弟子であるジュリアスの才能はさらに磨かれ、若くして第一部隊の隊長を務めるまでに成長した。

 そんな祖父をリシュアは敬愛し、憧れた。

 亡くなる直前まで剣術と馬術の指導をしてくれたのだ。そこに孫に対する甘さはなかった。最後の最後には長年の想いが届いて、純粋に夢を応援してくれたと思っている。

 リシュアは焦っているがために無茶をし、ジュリアスたちの前でむきになったことも自覚している。だが『若鷲勲章』の表彰式まで一か月半。立ち止まってなんかいられない。

 表彰されるかどうかは王宮や騎士団、国民からの評価で決まる。歴代の受章者の大半が騎士を目指す者たちだった。

 受章者は式典の一週間前に個別で発表されるらしい。そう考えると残り一か月しかない。それまでにジュリアスたちを含めた国民に認められなければ。

 リシュアは深呼吸をしながら、頭の中にとある影を描く。

 それは全身を甲冑で覆い黒いマントを身に着けた、剣影の騎士。

 リシュアはガリシア戦争のときに助けてくれた騎士のことが忘れられず、『光と影の英雄譚』を何度も読み返してきた。するとあのときの騎士と似たような特徴があり、確信した。

(架空の登場人物と言われようが関係ない。私にとって彼は、目指すべき姿だから)

 最も思い焦がれる英雄は、常に前を向く立派な人に違いない。もっと努力を重ねようと意気込み、顔をあげた。

 そのとき太陽の光が射しこみ、柔らかな金髪を優しく照らす。


「驚いた、天使がいる」


 余韻に甘さを残した、男性特有の低音がしっとりと響く。

 路地裏の陰から一人の青年が現れた。赤みが強い茶色の髪は上品な紅茶のようで、ブラウンの瞳は色っぽいのにどこか愛嬌がある。仕立てのいい紳士服の胸元には、モノクルと呼ばれる片眼鏡が結びつけられていて、片手には革張りのトランクが握られていた。おそらくジュリアスより年上だろう。

 青年は、優雅な足取りでこちらに近づいてくる。

「羽がないのは、天界からのお忍びだからかな」

「……羽がないのはただの人間だから、よ?」

 彼の問いかけに、おそるおそる答えた。あまりこの辺りで見かけない顔だった。

 ややあって青年の足が止まる。

「あれ、お気に召さなかったかい?」

 そういって彼は苦笑した。長いまつ毛が影を落とし、その表情でさえ絵になる。

(こ、こういうときってどうすればいいの?)

 リシュアはじっと青年を観察する。一度見たら忘れられないほど、彼の容姿は整っていた。しかし、細身の体には不釣り合いなほど大きなトランクに目がいく。いったいなにが入っているのだろう。

「これが気になるの?」

「あ、えっと。そういうわけじゃ」

「いいよ。君にだけ特別にお見せしよう」

 青年はトランクを持ったままリシュアに近づく。じろじろ見過ぎてしまったことに慌てていると、彼を止める機会を失った。

 そんなリシュアの様子に、青年は冗談交じりに笑う。

「身構えなくてもおばけは出てこないよ」

 彼は噴水の縁にトランクを置き、鍵を外す。中から現れたのは、宝飾が施された短剣だった。

 リシュアは思わず感嘆の声をあげる。

「……すごい。これ、いつの時代の物なの?」

「約二百年前で、ほら、柄に赤い石がはめこまれているだろう? 当時流行りの意匠なんだ」

 ところどころ錆がついていたが、磨けば輝きを取り戻すだろう。歴史の香りに包まれた短剣は、一目で高価なものだとわかる。

「本当に……私が見てもよかったのかしら?」

「もちろん。これは誰かに愛でられるために造られたものだから」

 彼の言葉から察するに、美術品らしい。紳士的な服装や、一連の流れから想像してみると。

「あなたは美術品の収集家で?」

「当たり。僕の雇い主はこういった物に目がなくて」

 話を聞くと、彼は南の都市サンクルスのエリオット侯爵に雇われているらしい。

 収集家の多くは富裕層の貴族や教会からの命により、戦争などで各地に散らばった彫刻や工芸品などの古代美術品を所蔵(コレクション)する、もしくは保護するために各地に出向いている。

「国中の美術品を集めるために、最近はクレンバレス第七区を拠点にしているんだ」

「そうだったの」

 頷きながら再び短剣を眺めようとして、青年の視線に気づいた。彼は膝上で頬杖をつきながら、じっとこちらを見つめてくる。探られているように感じるのは、気のせいだろうか。

「お、お仕事中のようだけど。お話をしている時間はあって?」

 すると彼は困ったように眉を曇らす。

「悲しそうな顔をしている女性を見過ごせない性分なんだ」

「──え?」

 表情には出していないはずなのに、どうして見抜かれてしまったのか。

(まさか、涙を堪えているところを見られていた?)

 咄嗟に頬を両手で覆うと、青年は優しく声をかけてくる。

「僕に話してみない?」

「……あなたには関係ないわ」

 見ず知らずの人に聞かせる内容ではない。そう意味を込めて語尾を強めたが。

「そうだね、関係ないけれど。深刻な悩みほど、誰かに話すことで気持ちが軽くなるときもある。とくに僕のような出会ったばかりの人間になら、君の心の負担にはならないと思うけど」

 リシュアはぱちぱちと瞬きをした。

 周囲には夢を反対する人ばかりで、悩みを打ち明けられる相手はいなかった。一度くらい、誰かに話してみるのもいいかもしれない。思いきって口元を緩めてみる。

「叶えたい夢があるの。憧れの人に近づきたいのに、難しくて」

「応援してくれる人は?」

 青年の問いかけに、リシュアは首を横に振る。

「ずっと反対され続けていたら、私のほうが間違っているような気がしてきて。なにも言い返せないことが悔しくなって」

 彼は真剣な面持ちで相槌を打つと、ブラウンの瞳を和ます。

「……君は愛されているんだね」

「そう、かしら?」

「その場に居合わせてないから、ちょっとした助言しかできないけど。大切な人たちの想いに応えることよりも、自分の気持ちに正直であることが一番だと思うよ」

 青年はリシュアの迷いを見透かしていた。自分の夢を取るか、令嬢としての幸せを取るか。

 騎士を目指しはじめてから、ジュリアスと口喧嘩ばかりしている。自分に実力がないから反対されたと思い、モーガンから剣術と馬術を必死に学んだ。そして力がついてきたと思ったら、今度は「君には向かない。できない」と否定される。そのときの表情が誰よりも悲しそうで、見ているこちらまで苦しくなる。

 誰かを悲しませて追う夢は、本当に自分が望むことなのか。

(私がまだ答えを出せないのは、夢も、みんなの期待に応えることも、どちらも大切だから)

 リシュアは改めて青年に向き合う。

「ありがとうございます。少しだけ、気持ちの整理ができたわ」

「それはよかった。ええっと、いけない、僕としたことが。名前を名乗っていなかったね」

 青年は背筋を伸ばして、リシュアに向き合う。

「僕はエドワード。君は?」

「リシュア・ジュノーです。以後お見知りおきを、エドワードさま」

「もしかして、男爵家の令嬢かい? 知らずとはいえ、失礼いたしました」

 エドワードはクレンバレスの貴族についてずいぶん詳しいらしい。ジュノー家のことまで知っているとは思わなかった。

 急にかしこまる彼に、リシュアは苦笑する。

「気にしないで。いままで通りで大丈夫よ」

「……では、お言葉に甘えて。僕のことは気軽にエドワードとでも」

 そういって彼はにっこりと微笑んだ。

 エドワードはいままでに国中を訪ねているらしく、いろんな話をしてくれる。その中でも一番印象的な都市が、クレンバレスらしい。

「ほんと、こんなに入り組んだ街はここだけだったよ」

 道が曲がりくねっているだけではなく、土地の高低差もあるため坂道や階段もあった。リシュアもうんうんと頷く。

「ずっとむかしのクレンバレスは巨大な要塞都市だったから。その名残ね」

 十年前のガリシア戦争では第七区まで敵に侵入されたが、道が複雑化していたために王宮まで攻め入られることはなかった。

「迷わないコツってあるの?」

「もちろん。あそこの窓枠を見て。青い旗があるでしょう?」

 リシュアが指さしたのは、正面の建物だった。

「方向がわかるように北側の窓には青、南は赤、西は黄、東は緑の旗を掲げているの。だからあっちが北ね」

 ガリシア戦争の爪痕により、損傷が激しい場所は建て直した。そのせいで道が少し変わってしまったのだ。前々から迷子があとを絶たなかったこともあり、市民は建物に方角によって色の異なる旗を掲げるようになった。

「なるほど。この目印があれば大通りまで行けそうだ」

 ひとりでに頷くエドワードに、心の中で心配する。

(まさか、迷っていたの?)

 慌てた素振りはなかったが、内心では焦っていたかもしれない。次はリシュアが助ける番だ。

「行きたいところまで案内しましょうか?」

「いいのかい?」

 彼はブラウンの瞳をキラキラと輝かせる。リシュアは苦笑しながら頷く。

「ええもちろん」

 そういうと、彼はトランクを持って立ちあがった。

 リシュアはエドワードを先導して青色の旗を目印にして路地裏を歩く。ちらりと横を見れば、彼は「すごいね、さっきとは見違えるように歩けるよ」と無邪気な笑みを浮かべている。

(……思いのほか、いい人なのかもしれないわ)

 しばらく歩き続けると、大通りが見えてきた。

「リシュア嬢、本当にありがとうございました」

「困ったときはお互いさまよ」

 そろそろ日が暮れるだろう。リシュアがジュノー家の屋敷に帰ることを告げると、彼は紳士らしい気遣いを見せる。

「お屋敷まで送ろうか?」

「ありがとう。でもこの近くだから大丈夫よ」

 エドワードは物分かりがいいのかすぐに引きさがる。と思いきや、とろけるような笑みを浮かべる。

「そうだ。今度、食事でもどうかな?」

「ええっ、私と?」

 リシュアは焦りによって声が裏返る。

(もしかして。これ、ナンパだったの?)

 返事を考えあぐねていると、エドワードは「ふーむ」と顎に手を添える。

「その反応はまだ手付かずかな。……これは番犬がいるな」

「? 犬は飼っていないわよ」

「こっちの話だよ。食事はまた今度にしようか。僕は夏至まで第七区の八番街のアトリエにいる。よかったら遊びに来て」

「八番街って……あの芸術街の?」

 第七区の八番街は土地が狭く、安い賃金で建物が借りられるため、多くの芸術家が住んでいると言われている。市民からはそのまま、芸術街と呼ばれていた。

「そうだよ。君ならいつでも歓迎するよ」

 エドワードはリシュアの右手を取り、キスを贈る。

 流れるような手つきに、リシュアはぽかんとした。そのまま硬直していると、彼は人ごみの中に溶けこみ、姿が見えなくなってしまった。

「……び、びっくりした」

 リシュアは無意識のうちに胸元を押さえ、やがて踵を返した。

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