第二回 序章

「おじいさま! 今日はあのご本を読んで」

 リシュアが指さしたのは、書斎の本棚に収まっていた『光と影の英雄譚』だ。祖父であるモーガンは感心したように呟く。

「ずいぶん高い位置にあるのに、よく背表紙が読めたな」

「えへへ」

 八歳になると背はぐんぐんと伸び、目線が高くなる。だから一番上の棚から革の背表紙が見えたときには、胸が高鳴った。

 本棚にはわくわくするような物語がたくさんあり、リシュアはモーガンによる読み聞かせが大好きだった。キラキラとした視線で再度「読んで」と訴えかけると、彼は苦笑しながら棚に手を伸ばす。

「わかった。来なさいリシュア」

 それからモーガンはソファに腰をおろし、リシュアはその膝の上に座る。

 魅力的な題名だが、あまり読まれていないのか新品のようだ。いざ表紙をめくると、十三本の剣の挿絵と難しそうな文章が目に入る。

「なんて読むの?」

 するとモーガンの温かい手がリシュアの頭を撫でる。

「剣に誓うは民の意志、断ち切るは悪の欲」

 はっきりと放たれた声が、頭の中でこだました。どんな意味かはわからなかったが、言葉の響きを忘れないよう、リシュアも唱えてみる。

「剣にちかうは民のいし、たち切るは悪のよく……。剣ってことはもしかして、おじいさまのような騎士さまのお話なの?」

「当たりだよリシュア! お前は天才かい?」

 背後からモーガンに抱きしめられ、リシュアはきゃあっと笑う。

 優しい祖父だが、こう見えて騎士の名家であるジュノー男爵家の当主であり、騎士団の団長という一面も持っていた。団服姿のモーガンは物語に登場する騎士さまのようにカッコいい。

 しばらくじゃれていると、書斎の扉から誰かが現れる。

「師匠、手紙が届いていた……て、二人ともなにをしているんだ?」

 呆れ声を出したのは、モーガンの弟子であるジュリアスだった。

(あ、ジュリアス。またお顔が石みたいになってる)

 彼とは一年以上前から一緒に暮らしているが、相変わらず表情が硬い。いつか、いろんなお顔を見ることができればいいな、とリシュアは思っていた。

「任務についての報告書は届いていたかな?」

「なかったよ」

「わかった。ありがとう、手紙は机に置いてくれ」

 彼らの会話に一区切りがつくと、リシュアは声を弾ませる。

「ジュリアスもいっしょにご本を読んで」

 にっこりと微笑みかけると、彼はしょうがないと言わんばかりにふっと肩の力を抜く。

「今日はなんの本?」

「ええっと、これ!」

「……ふうん『光と影の英雄譚』か。君には難しい文字がたくさん出てくるぞ?」

「だから読んでほしいの!」

 ジュリアスはモーガンの隣に座り、膝上で頬杖をつきながら本を覗きこむ。無愛想でちょっと意地悪なところもあるけれど、なんだかんだで付き合ってくれる。

 リシュアは本に向き直り、人差し指で先ほどの文章をなぞる。

「どんなお話なの?」

「そうだなあ。民のために剣を振るった、光盾の騎士団と呼ばれる十二人の騎士さまの活躍が書かれているんだ」

「わたしその騎士さまを知っているよ! 悪い人をやっつける正義の味方だよね?」

「リシュアは物知りだね」

 褒められたことが嬉しくて、リシュアは足をぶらぶらと揺らした。

 光盾の騎士団は、最近の戦争で大活躍した騎士団の名前だった。みな全身を覆う甲冑と白いマントを身に着けていたため、誰もその正体を知らない。唯一彼らの真の姿を知っているのは、いまの国王陛下だけと言われていた。

 たまたま目に入った本が、正義の味方のことが書かれた本だったとは。

 こぼれそうなほど大きなエメラルド色の瞳で、リシュアは挿絵の剣を眺めていく。

(あれ……? ひとつだけ仲間はずれの剣がある)

 一番左の剣を指さし、モーガンのほうを見あげる。

「ねえ、おじいさま。どうしてこの剣だけ黒いの?」

「それは……」

 いつもならすらすらと答えをくれるモーガンの表情に、迷いが見えた。だが、すぐにその違和感は消え、彼は柔和な笑みを浮かべる。

「光盾の騎士団にはね、幻の十三人目がいると言われているんだ」

「十三番目の騎士さま……?」

 リシュアは小さな手でぱらぱらとページをめくり、挿絵だけを目で追っていく。すると、一人の騎士のマントだけが黒く塗られていた。その近くには彼の名前らしき文字もある。

「ほんとうだ。剣影の騎士?」

「そう正解だ。彼だけ影のように真っ黒だろう? だから剣影の騎士と呼ばれているんだ」

 黒いマントに、リシュアは引っかかりを覚えた。

(わたしは、この騎士さまを知っている?)

 脳裏に蘇るのは、灰色の視界と燃える赤。

 リシュア自身もその戦争に巻きこまれ、母親と避難しているときに敵と出遭った。咄嗟に母親に逃げてと背中を押され、一人で駆け出したが、運悪く他の敵と出くわしてしまった。

 敵が剣を振りあげて、あまりの恐怖心に逃げることもできず、立ち尽くしたとき。

 とある人影が現れた。

 それは全身を甲冑で覆い、黒いマントをなびかせた、一人の男。剣を構えた姿は、物語の騎士さまと同じだった。

 彼の剣が青白くひらめいたと思ったら、いつの間にか敵は倒れていた。その騎士は振り返ることもなく、どこかへ消えてしまった。

 その後、リシュアは無事に騎士団に保護された。

(助けてくれた騎士さまも、お顔が見えなかったけど黒いマントだった)

 それを口に出そうとすると、ジュリアスによって遮られる。

「でも実際に戦争で活躍したのは十二人の光盾の騎士団だけだろう?」

「そう、なの……?」

「ああ。剣影の騎士は『光と影の英雄譚』にしか出てこないんだ。世間からは架空の登場人物とまで言われているし」

「かくう?」

「物語の中の登場人物ってこと」

 では助けてくれたのは誰なのか。いまのリシュアに確かめる方法はないが、自分にとって間違いなくあの騎士は正義の味方だった。

 同時に、どうにもならない想いが湧きあがる。

「どうして光盾の騎士団は十二人しかいなかったのかな」

 モーガンとジュリアスは虚をつかれたように、目を見開いた。

 リシュアはさらに言葉を続ける。

「いっぱいいたらね、悲しいことは起きなかったと思うの。もしかしたら、おかあさまも死ななかったかもしれない」

「……リシュア」

 モーガンに再び抱きしめられ、リシュアはうつむく。

 戦争で、母親は帰らぬ人となってしまった。

(もしもあのとき、わたしが大人で、助けてくれた騎士さまのような力があったら)

 どんな未来が待ち受けていただろうか。死んだ人は蘇らない。それはわかっている。

 ならば。

「わたしも騎士さまになる」

 リシュアはモーガンの膝から飛びおりて、「やあ」と手で剣を構えるふりをした。ジュリアスは顔色を変え、勢いよく立ちあがる。

「なにを言い出すかと思えば。君が騎士だって? 無理だ。無理に決まってる!」

 モーガンもすぐさまリシュアの視線に合わせて膝をついた。動揺しながらも、はっきりとした声で諭す。

「いいかい、リシュア。この国で女の子は騎士さまになれない」

「どうして女の子は騎士さまになれないの?」

「女の子は女の子らしくしないといけないからだ。わかるかい?」

「……うん」

 女の子はお姫さまのように、と父親から教わっていた。

 リシュアにはジュノー家の長女という肩書もある。ゆくゆくは令嬢として幸せになるために、さまざまな教養を身につけはじめたところだ。

 モーガンの言いたいことはわかるが、リシュアには純粋な疑問がある。

「女の子も騎士さまになれば、いっぱい増えるのにね」

「……剣を持つには強い覚悟がいる。それは男の子ですら大変なことなんだ」

「じゃあ男の子のようにずっと思い続ければ騎士さまになれるのね!」

「それはどうだろうなあ」

 モーガンは困ったように眉を寄せるだけだ。

「騎士さまにならなくても、勇気と優しさがあればみんなを助けることはできるよ」

「でも」

 そのとき、ジュリアスが言葉を挟む。

「何度も言わせるな。君は騎士になれないんだよ」

 強い口調に、リシュアの瞳が潤む。こんなに怒った彼を見たことがなかった。せっかく仲良くなれたと思っていたのに。

(──ちょっと怖い)

 視線をそらすように下を向くと、リシュアの両肩にモーガンの手が添えられる。

「ジュリアスはお前を心配しているだけだ。騎士はときとして命のやり取りをする。そんな危ない世界に巻きこみたくないからね」

 黙って耳を傾けていたリシュアは、スカートの裾を握りしめた。きっと二人も危ない目にあったことがあるから、そう言うのだろう。

 なおさら決意が固まる。

「ジュリアスや、おじいさまを守るために騎士さまになることもいけないの?」

 リシュアだってこれ以上大切な人を失いたくはない。騎士になれば、もっと近い場所で家族を支えることができるかもしれない。

「き、君に守られるほど落ちぶれてない!」

 ジュリアスは焦りに焦ったのか声が裏返った。

(騎士さまになるって、そんなにへんなことなのかなあ)

 周りの反応に、リシュアは唇を尖らせる。うつむくように足元を眺めていると、なにやら考え事をしていたモーガンが口を開く。

「わかった。私が稽古をつけよう」

 リシュアは勢いよく顔をあげた。

「ほんとう?」

「え……嘘だろう」

 ジュリアスは表情を失くして、モーガンに詰め寄る。

「師匠どうして」

「あの子は頑固だからなあ。実際にやってみないと諦めがつかないだろう」

 小声で話していたがリシュアには筒抜けだ。

 なんだか失礼なことを言われた気がするが、むっとするよりもドキドキのほうが勝った。騎士としてカッコいい祖父から剣を教わるのだ。不思議と背筋が伸びるのは、自分にも騎士の血が入っているからかもしれない。

 庭に出ると空は晴れわたり、リシュアはその眩しさに目をすがめる。不機嫌さを隠そうとしないジュリアスは屋敷の二階から様子をうかがっていた。

「さあ、リシュア。これを持ちなさい」

 モーガンから練習用の木剣を受け取ると、リシュアは「こう?」と構えてみる。

 そして対面には木剣を手にした祖父が立つ。少しだけ、空気が変わった。

「リシュア。騎士になるということは、そう簡単ではない。辛くて、悲しい思いをしても、誰かのために剣を振るわなければならない。それはわかっているな?」

 いつもより重々しい言葉に、リシュアは試されていると思った。だから「うん」ではなく「はい」と返事をした。

 モーガンは目を細め、木剣を構える。

「よろしい。初めに言っておくが、私の稽古は厳しいぞ?」

 リシュアは大きく頷く。

「よろしくおねがいします!」

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