2012.10.31 エピローグ01

 病院前のバス停のベンチで、風見は夜風を感じている。

 最終のバスは時刻表を見る限り、かなり前に出発しているようだ。

 始発までバスが来ないのを知っているのか、赤いMR2がバスの停車場所に駐車されている。


 首筋の痛みと痒みに耐えながら、柄にもなく感情的になった有との会話を思い出した。

 今日の昼に、ここで須東と再会しなければ、あのような選択に命を運ばなかっただろう。

 迂闊にも有に真実を語ってしまった。そうるすことで、自分の命が尽きるまでの運命が変化すると、わかっているにも関わらずだ。


 イリヤ・ヒナ・プレステージという人魚の生存は『悪魔の証明』ではない。

 この事実は、風見をまともな死に方から遠ざける。

 悪魔の証明――新約聖書で、サタンがイエスを試した逸話から来ている言葉だ。


 ある事実・現象が『まったくない・なかった』というような、非常に困難な命題を証明することを指す意味でも使われる。

 たとえば「人魚のヒナがどこかで泳いでいる」というのを証明するとしたら、泳いでいるヒナを捕まえればいいだけだ。


 一方で「人魚のヒナがどこかで泳いでいない」というのを証明するならば、地球全土を探査しなくてはならない。そんなものは、非常に困難で、事実上不可能だろうという場合に『悪魔の証明』という言葉を使う。

 だから、人魚を否定する奴は『いない』ことを証明してみろ。出来ないのならば『いる』ということだ――なんてことを言った場合、それは悪魔の証明ですね。と煽られて終わるだけだった。

 だった。

 過去形。いまはちがう。


 あの大陸の存在を知って、悪魔の証明という言葉を使える事象ではなくなった。

 管理社の管轄ともいえる情報だ。これ以上、片岡潤之助に利用されるのはいやだから、すんなりと真実を認める訳にはいかなかった。

 初恋から目を背ける言い訳に、片岡を利用させてもらっただけに過ぎない。

 誤魔化して生きるのも悪くないと、自分を騙してきた。


 無論、歪んだ生き方をしていると勘づいている人もいた。いましがた、病院の入口から出てきた龍浪女医もその一人だ。

 くわえたタバコに火を点けながら、龍浪がベンチに近づいてくる。


「チャンくんを見かけたから、妙な胸騒ぎがしてたんだけど、そういうことか」


「大陸の人間をくんづけで呼ぶって、龍浪先生こわすぎますよ」


 風見がへらへらしていると、いきなり龍浪に体をぐいっと引っ張られる。

 さきほど、首筋で飼っている『クラーケン』を取り出す際にできた傷口の診察がはじまったようだ。さすがの名医でも、月明かりとタバコの火が頼りでは、たいしたことはわからないのではないか。

 しかも、顔を近づけられると酒の臭いがした。

 これはダメだ。期待できない。

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