2012.10.31有【最終章】08

「空飛ぶ魚定食を無理やり弁当にしたもんだから、カレンは気をきかせて魚をフライにしたんだろ。そんなことしたら、味がぜんぜん、ちがうものになるのは当然だ。同じ材料なのに、こうも行き着く姿が変わってくる。有くんはどっちになりたい? 限定の定食か? はたまた、どこにでもありふれたフライになりさがるか?」


「よくわかりませんが、お刺身よりもフライが好きな人もいるでしょ。だから、どっちもいいところがあるんじゃないんですか?」


 病院生活のせいで、有に馴染みぶかいのはフライだ。量は多く食べられないけれど、大好きだ。一方でお刺身は、聖里菜がたまに持ってきてくれる巻き寿司の中に入っているごちそうだ。


「弁当で例えたのが失敗だったな。ハッキリいう。初恋の人のピンチに逃げたら、ボクみたいにすれた大人に成長する。でも敗北必死の戦いに臨んでいたら、たぶん死ぬ時も満足した生き方が出来るだろうよ」


 空飛ぶ魚定食も、お持ち帰りした魚フライの弁当も、材料は同じ魚だった。素材は同じだったとしても、料理人のさじ加減で全くちがうものに姿を変える。

 人生に起きるイベントが同じだったとしても、乗り越える人によっては、ちがった道をたどる。

 病気を発症した有が、岩田屋に引っ越してきたかどうかでも、ちがった人生になっていたようなものだ。


「あの走り屋とボクの初恋は、どこか近いものがあったんだ。もしかしたら、逆の立場になっていたかもしれない。ああ、なんでだ。どうして、ボクのほうがこんな人生になってるんだ」


 走り屋ときいて、有は無意識に立ち上がった。正面の山を眺めて、MR2を探す。ヘッドライトは見えないし、エンジン音は聞こえない。

 嘘つきだ。

 走るって言ってたのに。


「取り乱して悪かったね。立ち上がったところをみるに、帰りたくなった? いいよ。そろそろ病室に戻ろうか。ここで寝たら大変だしね」


「いやです。寝たくないんです」


「でも、今日は色々と大変だったから疲れてるはずでしょ。はやく眠る準備をして布団に入ったほうがいいって」


「色々とあったからこそ、寝たくないんです。今日は、僕にとっては特別な一日だったんです。明日になったら、今日の強さがなくなってるかもしれない。それが、こわい。また弱くなってるんじゃないかって思うと不安で」


 有の発言は年相応で子供じみている。

 大人の風見が困っているのは、暗い中でも手に取るようにわかった。


「ごめん。大人なのに、なに言っていいかわからない。都合のいい言葉はいくらでも口にできるけど、そんなのはガキの言葉と同じで、なんの意味もないだろ」


 なんとなくだけれど、風見が後悔している初恋を有は素晴らしいものではないかと思ってしまった。ここまで真摯になってくれるのは、そのはじまりがあったからにほかならない。

 小学三年生の子供では、なにも口にできないのが、くやしい。

 渦巻いている言葉たちも、いまはまだ心に留めておいたほうが、価値があるように思える。


「ボクの経験では、ダメなんだ。強いていうなら、こうなるなとしか言えない。逃げずに戦う大人になってくれ。間違っても、暗くてどっちかわからないって言い訳するような大人にはなるんじゃない。覚えておいて。言い訳を続ければ、それが本当になるんだ。きづいたときには、明日の方向すらわかんなくなるぞ」


 分厚い雲の下に位置する病院の屋上は、途方もなく暗い。

 タバコの匂いがなければ、人がいることにきづかなかったかもしれない。名乗ってもらえなければ、風見がいると確信を持てなかったほどに、なにも見えない。

 それでも、長いあいだ入院している有だから、闇の中でも確信を持てるものがある。

 煙草の残り香を漂わせる風見の向こう側には、陽が昇ってくる山があるのを知っている。


「明日は、あっちからきますよ」


「いや、日が昇る方角とかいう意味じゃなくてね」


 闇を切り裂くのは、なにも太陽だけではない。

 空を移動しない流れ星。蛇のように地を這って駆け抜けていく。

 ヘッドライトの輝きと激しいエンジン音に、有の心は震えた。

 MR2だ。

 コーナーの度に命をかけて、死ななかった自分を過去に置き去りにする。

 前へ前へ。全力で。

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