2012.10.31有【最終章】03

「里菜ちゃん、僕は行くね」


「酔うてるから今日は注意するで。いい加減その呼び方やめーや」


「なに、いやなの?」


「そりゃまぁ。聖里菜から聖なるものを抜いた呼び方ってのが気に入らんやん」


「そういう意味で、ぼくやお父さんは呼んでたんじゃないんだよ。背抜きって言葉があるんだ。知らない?」


「なんか、どっかのアホも言うてたな。どういう意味なんや、それ?」


「介護の言葉で、優しい意味よ」


 診察用の椅子に座り、足を組んで龍浪が答える。


「電動ベッドを傾けた後に、使用者の身体をマットレスから一旦離して戻す介助、それが『背抜き』よ」


 有が説明するよりも、龍浪に任せたほうが詳しく話してもらえそうだ。黙ってきいておこう。


「ベッドが傾いた後って、どうしても違和感があるの。崩れかけたり、曲がったり、傾いたままの姿勢は不自然だし、しわくちゃの衣類やシーツが当たる感じもよろしくない。そんな嫌な感じは、身体とマットレスを離すだけで、ほとんど取り除ける。

 でも、電動ベッドを使ってる人の中には、そんなことすら出来ない人もいるわけで。そんなとき、他の人が『背抜き』をしてあげたら、快適な状態になるのよ」


 さすがは、お医者様だ。丁寧な説明でした。

 聖里菜はひどく感心した様子で、検尿コップを傾けて酒を飲み進める。

 有たちの父が聖里菜から『せ』を抜いて呼びはじめたのも『背抜き』が理由となっている。父にとっては、聖里菜の存在が、快適でリラックスなものをもたらしてくれていたそうだ。

 それは、有にとっても同じだ。だからこそ、これからも里菜ちゃんと呼び続けていきたい。


「はー。そんな意味があったとはなぁ。なんか、世界が変わった気がするで」


 有が補足の説明を入れなくても、聖里菜は家族の優しさに気づいてくれたようだ。空野家以外の人間には、理解できなくてもいい。

 有と目が合った聖里菜は、そんなことを言いたそうに微笑んでいた。


「そんなに美味しいんですか? みなさんにも配らないと」


 案の定、勘違いした様子の七海が、笑顔で酒の入った検尿コップを配っていく。

 未来がコップを受け取り、七海と乾杯する。七海は飲むのだが、未来はくるくるとコップを回しているだけだ。

 飲まない人の横で、龍浪は瓶に直接口をつけて、ラッパ飲みをはじめる。圧倒される有に続いて、七海も龍浪の飲み方に気づく。


「ちょっと先生、豪快すぎませんか?」


「え? みんなについだから、べつにいいでしょ?」


「いや、よくないですよ。もしかして、酔ってます? ここに来る前から飲んでたんですか?」


「失礼ね。飲んでるわけないでしょ。それとね。たとえ、この一升瓶を飲みきっても、この程度では変化ないから」


「少しは酔っ払ってくださいよ。あの子みたいに」


 七海が楓をビシッと指さした。病室ではいつもネガティブだったのに、見たことがないぐらいにハッピーオーラ全開だ。


「お酒を飲んで、世界変わるんだったら、楓にもくださいよ。楓の世界は、エッチしても変わらなかったんですよ。お酒でどうにかなるか確かめてやるんです」


 患者の症状を正確に把握したように、龍浪はうなずく。


「発言から察するに、まだ飲んでないと。雰囲気にのまれてるだけね」


「ねぇ先生、運命の人のおちんちんだったら世界は変わるんですかー?」


「楓ちゃん。有くんの前で、そういう下の話は控えなさい」


「ごめんなさーい。あ、そうだ。先生。楓はぁ、知りたいんですけどぉ。運命と宿命のちがいを説明できますか?」


 専門外だったのか、龍浪は答えることなく、ラッパ飲みを再開する。みるみるうちに、瓶の中の液体が減っていく。

 ごくごくという音が聞こえてきそうだが、実際に有の耳に届くのは「おちんちん、おちんちん」という楓の連呼だった。


「ええかげんにせーや、楓ちゃん。たいがいやかましいから、有に調べてもらうってことで、この話は終わらせようや。な。ほれ、有。深夜の勉強にはつきものの夜食をやるわ」


 聖里菜が差し出してきたのは、弁当の入った袋だ。袋に印刷されている『あつもり食堂』という店名に見覚えがある。

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