2012.10.31 銀河② 02
「おれ、その人に弟子入りするよ」
「珍しいっすね。ギンギンが男の人の下につくなんて」
「なんとかして、性転換してもらうから、大丈夫!」
拳を握って目標を大声で言うと、診察室の引き戸が開いた。
「あーれー? 七海ちゃん、サボってたら、だめだろーが」
入口に背を向けている銀河は、声の主の姿を振り返らずに想像する。
喋り方や声の高さからして、女性がやって来たようだ。まだ情報が少ない。こちらから喋りかけて、変に警戒されるのは得策ではない。いまは、黙って聞き耳を立てる。
スライドの扉が閉まる。
コンビニの袋でも持っているのか、猫が好きそうなガサガサ音が診察室に響く。
「サボってないっすよ。というよりも、休憩中にも注射の練習してるんすから、ちょーマジメっす。だから、給料あげてくださいっす」
「それだったら、私も自慢するよ。こっちは、休みなのに出勤してんだからね」
「おつかれさまっす、先生」
「これで三ヶ月休みなしになった。もうやってけない。転職するから、後は任せた」
銀河と七海の横を白衣の女性が通り過ぎる。先生と七海が呼んでいたから女医なのだろう。机に袋を置きながら、女医は診察するように銀河の顔をみつめる。
銀河もまた、女医の観察をはじめる。
化粧をしているが、色気を出すためというよりは、疲れを隠すためにしているような印象を受ける。メガネをかけているのも、少しでも頭をよく見せるためではないか。
そこはかとない、チンピラ臭をかぎとれた。
おっぱいの揉み応えを想像すべく胸を眺める。
ほどほどのサイズだ。おおよそのカップ数を把握しようとして、名札にきづく。平仮名で『たつなみ』と書かれている。
「七海ちゃんの彼氏? やるじゃん、連れ込んだの?」
たつなみ先生はヤブ医者かもしれない。とんだ診察眼だ。七海が彼女たちの一人のはずがなかろう。日曜日に遊んだことのあるセフレの一人だ。
「ちがいます。ぼくは、あなたの彼氏です。たつなみ先生の未来の旦那です」
「あれ? ギンギンは先生と面識あったんっすか?」
「無いわよ。おおかた、名札を見たってだけでしょ。その証拠に、私の名前を漢字で書けないでしょうから。ほら、書いてみ」
過去に肉体関係を持った女性が、ここでも力になる。
連絡先を登録しているので、漢字も覚えている。得意げになって、受け取った紙にペンで『立浪』と書いた。
「はい、間違い」
正解を赤のボールペンで書きなぐってくれる。
龍浪。
子供から大人まで読み間違えるかもしれない。だからこそ、名札には平仮名を使っていたのだろう。
「相変わらず綺麗な字ですね。これを見たくて、わざと間違えたんですよ。やっぱり好きですよ、龍浪先生」
「なるほど、把握したわ。脳の手術が必要みたいね。最高の医者に紹介状かいてあげるわ。任せてね」
龍浪はノンアルコールビールを袋から取り出した。ふられた銀河にくれてもいいのに、一人で飲み始めた。
「あー。本物の酒が飲めたら、もっと幸せになれるんだけどな」
「ノンアルコールビールにも、ちょっとアルコール入ってるらしいですよ」
銀河がひけらかしたのは、ベッドの上で教わった知識だ。
へーと、素直に感心してくれるのは七海だけだった。
龍浪は、ぐいっと缶を傾けたあとに、なにかを思い出したように微笑む。
「それぐらいのこと知ってるわよ。私の幼馴染みは、ノンアルコールビールでも酔っ払うからね」
本気か冗談かわからなくて、銀河は自他共に認める男前の表情になってうなずいた。数ヶ月前に、この表情でちょろく落とされた七海は、今回ときめかなかったようだ。
銀河よりも、龍浪の話に食いつく。
「それって、前に話してくれた、ぶどうジュースで酔っ払った人のことっすか?」
「よく覚えてたわね。そいつのことよ」
「そんな人いるんですね。なんつーか、人生の何割か損してるように思いますね」
銀河の意見を耳にして、龍浪はくぐもった声で笑う。
同意の笑みにしては、冷たすぎる。
「ははは、うけるねー。バカ島が本人の知らないところで、おこちゃまに軽く見られるなんてね。いいわよ、それ。最高かよ」
ノンアルコールビールの肴としては一流の品だったようだ。龍浪は機嫌よく、そのまま一気飲みしている。
「では、笑いを提供したところで、おれはここらでおさばらしますね」
口説けない女と同じ空間にいたくない。とはいえ決して慌てずに、堂々と診察室から出ていこうとする。
「待ちなさい」
銀河は立ち止まり踵を返す。
診察室の机に肘をつきながら、龍浪が険しい表情をしている。
その横の七海は、とりあえず笑みを浮かべて空気を少しでもよくしようと努力している。
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