3章 アリシアの作戦 その1
「私とラーラの間に子どもが生まれたら、君と離縁しようと思うんだ」
夫アレクシスにそう言われたのは、十六歳の頃――スチュワート侯爵家が没落して間もなくのことだった。
やはりそうなのか、とアリシアは肩を落とす。結婚して六年経ち、アリシアも大人の女性になった。それでもラーラと違い夫が夜に訪ねてくれることはなかったので、いろいろと悟り始めていた頃だった。
だがアレクシスはそんなアリシアの髪をそっと撫で、優しく言った。
「私が君に触れようとしないのは、君に今度こそ本当の幸せを掴んでほしいからだ。エンブレン王国憲章によれば、王妃が世継ぎを生んだならば、他の妃と円満に離縁することができるんだ。そうすれば君も自由になれる」
「自由――ですか?」
「そう。……君の兄上が原因とはいえ、君の青春時代は私が奪ってしまった。だから、離縁後は私たち夫婦が君の後見人になる。そして、君が本当に愛する人と結婚できるよう尽力するよ」
アレクシスの言葉の意味をしばし考えた後、アリシアは首を横に振る。
「……私には、愛する人とか、よく分かりません」
「いずれ分かるよ。もしこれから先好きな人ができたら、私たちに相談しなさい。君が幸せになれることが、私やラーラの願いだからね」
そう言うアレクシスは、笑顔だった。
押しつけられた花嫁であるアリシアを守り、慈しんでくれたアレクシス。
彼と離縁して別の人と結婚するなんて、その頃は想像もつかなかった。
自由になり、幸せになること。
それは十六歳の少女には、途方もなく難解なことに思われたのだった。
* * *
官僚が、終業時間を告げる。
「アリシア、そんなにすぐに出て行こうとしなくてもいいじゃないか」
執務室から撤退しようとしたアリシアだが、背後から掛かってきた主君の声にぎくっと体を震わせた。ぎこちなく振り返ると、デスクに頬杖をついていたジュリアンと視線がぶつかる。
彼はアリシアが動きを止めたことに安堵したようで、ほっとした顔で微笑んだ。
「仕事は終わったのだし、お茶でも飲んでいかない?」
「ありがとう存じます。しかし、これから約束がございますので」
「約束? それは、男と?」
とたん、ジュリアンの紫の目にちらりと不穏な炎が宿った。
ジュリアンが「絶対に落としてみせる」と宣言して、早三日。
彼はやたら、アリシアの言動に目を光らせるようになっていた。アリシアがどのようにジュリアンに「抵抗」するのか、推し量っているかのような眼差しで。
(でも私だって、ジュリアン様の手のひらの上でおとなしく踊らされているわけじゃないわ)
仕事道具を入れた鞄を肩から提げたアリシアは、にっこりと笑みを浮かべた。
「いいえ、ノースブルック伯爵夫人との約束です。仕事の後、夕食をご一緒させていただく予定ですので」
「ノースブルック伯爵夫人……レイバンの妹か」
女なら、いっか。と呟き、ジュリアンは微笑む。
「それじゃあ、伯爵夫人とごゆっくり。また明日頼むよ、アリシア」
「はい。では失礼します」
アリシアは優雅にお辞儀をし、執務室を出た。
廊下ではレイバンが待っていてくれた。
「よう。今日はカレンと飯を食うんだっけ?」
「そう、伯爵邸にお呼ばれしているの。伯爵は今日、仕事でお食事会に行くのでしょう?」
「そうそう、軍事関連のね。面倒だけど俺も行かなきゃならねぇんだよな。……いったんあんたの家に寄っていくか?」
「いいえ、このままお邪魔することになっているから、伯爵家に直行するわ」
「了解。妹の婚家だし、俺もついでについて行くわ」
アリシアは普段、城下町の一等地にある実家――スチュワート侯爵の屋敷で生活している。
三年前の没落の際に屋敷は一度売り払っており、今アリシアが暮らしているのは別の貴族から譲ってもらった小振りの邸宅だ。それでも使用人や護衛は雇えているし、一人で暮らすには十分な広さである。
「つーかさぁ、さっさと王妃になっちまえよ。陛下への決め台詞は……そうだな。『私をあなたのお嫁さんにして!』ってのはどうだ?」
「そんな返事一つで決められるものじゃないでしょう。あなたは自分の仕事が楽になるから、そう言っているだけじゃない」
「んなことないって。あんたが王妃になった際の利益だって考えてる。だいたい、あんたより陛下の王妃にふさわしいお姫様がいるかどうかすら怪しいだろう」
「いないとは言い切れないわ。ここで私が王妃になることを即決して後々に悔いることになるよりは、今できる限り調査しておく方がいいじゃない」
「そうかいそうかい」
レイバンはつまらなそうだ。彼の行動理念はまず、「アレクシスの遺言に則れるか」であり、続いて「おもしろいか」と「自分が楽できるか」を基準に分類するという。アリシアが別の令嬢を王妃候補として連れて来ると言っても、彼は協力する気になれないのだ。
(いいわよいいわよ。レイバンは頼りにならなくても、私にはカレンがいるわ)
カレンはレイバンの妹で、ノースブルック伯爵の妻である。アリシアとは同い年で、十五歳くらいの頃にレイバンの紹介で出会った。
顔立ちや身長からどことなく大人びた雰囲気を漂わせるアリシアと違い、カレンはふわふわと愛らしい女の子だった。そんな見た目に反して兄同様なかなか個性的な性格をしているが、アリシアにとっては数少ない、腹を割って話ができる貴重な親友である。それは、アリシアが寵妃から女官になり、カレンが侯爵令嬢から伯爵夫人になっても変わることがなかった。
二人が乗る馬車は、城下町の片隅に居を構えるノースブルック邸に到着した。レイバンは妹に挨拶をした後、食事会に出るため城に戻るそうだ。
「久しぶり、アリシア! お仕事は順調?」
「久しぶりね、カレン。仕事はいい感じよ」
玄関ホールでアリシアを出迎えたカレンは、ふわりと微笑んでくれた。兄とおそろいの赤い髪はきれいなウェーブを描いており、くりくりとした大きな茶色の目と丸い顔立ちは、皆の愛情を受けて育ったかわいらしいお姫様といった感じを醸し出している。ルージュのような鮮やかな赤のドレスやフリルが似合うのも、彼女の特徴だ。
レイバンを見送った後、二人は屋敷に入った。ここは夫である伯爵の実家だが結婚してからカレンの趣味で模様替えしたらしく、全体的にかわいらしい雰囲気になっている。通された居間も、貴族の屋敷にありがちな壺や肖像画、剣や甲冑などの代わりに、スズラン型のランプや巨大なクマのぬいぐるみが飾られている。ノースブルック伯爵は妻の趣味を全面的に許容しているようだ。
二人が席に着くとまもなく、使用人たちが夕食を運んできた。アリシアの仕事が終わるだいたいの時間は先んじて知らせていたので、到着後すぐに温かい料理が食べられるよう、料理人が準備してくれていたとのことだ。
「すてきなお食事をありがとう、カレン」
「なんてことないわ。こちらこそアリシアのお家でおいしいおやつを食べているんだし、アリシアをお招きしたってことで箔も付くから」
「国王専属女官を自宅に招いた、と自慢できる」という、第三者が聞けばとんでもない台詞だが、アリシアは笑顔でカレンの言葉を受け取る。
(私としては、笑顔の裏でいろいろ企まれるよりは、カレンのように自分の願望や狙いをあけすけに明かしてくれる方が気が楽なのよね)
エンブレン王国は、春真っ盛りだ。そんな今の時季にぴったりな冷製スープや甘酸っぱいドレッシングの掛けられたサラダに続き、薄く切った鴨肉で葉野菜やレモンジュレを巻いた前菜、子羊の肉をとろとろになるまで煮たエンブレンの伝統料理などが運ばれてくる。
「……今日はカレンに相談したいことがあるの」
料理人が丹誠込めて作った料理を堪能した後にアリシアが切り出すと、使用人にティーサーブを命じていたカレンの目がきらりと輝いた。
「そんな感じはしてたわ。悩み事?」
「うん……よかったら、二人きりにさせてもらえないかしら?」
「了解よ」
カレンは快諾し、茶を淹れ終えた使用人たちに退室を命じた。アリシアの身分を理解している使用人たちは嫌な顔一つせず素早く席を外し、ポップな色調の居間にはアリシアとカレンだけが残された。ティーポットや茶菓子はテーブル脇のワゴンに置かれているので、しばらくの間は二人きりでも問題なさそうだ。
「……で? 女官としてばりばり働くアリシアの頭を悩ませる案件は、何?」
カレンは好奇心旺盛でありとあらゆる事件に首を突っ込みたがるのだが、非常に口は堅い。彼女曰く、「信頼関係がないと情報収集なんてできないから」とのことだ。
そういうわけでアリシアはカレンに、ジュリアンからプロポーズされたこと、大臣やレイバンからは肯定的に捉えられていること、そして一年間の約束と、ジュリアンにふさわしい妃を見つけようとしていることなどをかいつまんで説明した。
最初は茶色の目をらんらんと輝かせて聞き入っていたカレンだが、だんだんとその眼差しは落ち着きを取り戻し、最後には目尻を垂らしてうんうんと頷いた。
「そっか……それは災難だったわね。いくら周りに薦められようと、結婚なんてそう簡単に踏み切れるものじゃない。ましてや、相手は王様だもの。大変だったわね、アリシア」
「カレン……!」
思わずアリシアは、テーブル越しに親友の手をしっかりと握った。
(持つべきものはやっぱり、気の合う同性の友達ね!)
「めんどくせー」「おもしろくねー」で全てを終わらせようとするレイバンとは大違いだ。
「アリシアが女官としての仕事に誇りを持ってるってこと、私は分かっている。それに、アリシアの言い分も納得できるわ。だって、陛下にとって一番ふさわしい妃がアリシアであるなんて断定できないもの。エンブレン王国内貴族の年頃の娘から、アリシア以上に王妃にふさわしいご令嬢が今後ひょっこりと現れる可能性だって、十分あるわ」
「そう、そうよね!」
「……で、それを踏まえて私に相談したいってことは?」
「ええ。情報通のカレンだからこそ、お願いしたいことがあるの」
アリシアは背筋を伸ばし、カレンの手を優しく握った。ペンを持ち、ときには重い書類や雑巾も持つためあちこち骨張ったりタコができたりしているアリシアの手と違い、カレンの手は柔らかくて小さかった。
「私はこれから、王妃にふさわしそうなご令嬢を集めたいの」
「お見合いパーティーでも開くということ?」
「そんな感じよ。私はこれでもいろいろと伝があるから、ご令嬢に手紙を書くなりして呼びかけることはできる。カレンにはご令嬢たちの情報や、彼女たちがどれほどジュリアン様に関心を持っているのかを調べてもらいたいの」
「……なるほどね。私が令嬢の情報や陛下への関心の度合いを調べ、それを元にアリシアがお見合い会を開くということね」
そう呟くカレンの目は、またしても強い輝きを孕んでいた。
カレンと兄レイバンの大きな違いは、レイバンが「おもしろそうで、かつ面倒くさくないなら取り組む」というのに対し、カレンは「おもしろそうなら、面倒でも取り組む」という点だ。
カレンは一度興味を持ったら、川に飛び込むなりと森の中をさまようなりと下町の酒場に潜入するなりと、何だってする。結婚前のカレンはかなり無茶な冒険をしてきており、アリシアも肝を冷やしたものだ。
「いいわねぇ。結婚してから『奥様はもう少し落ち着いてください』って言われてばっかりだったから、退屈していたところなのよ」
「もちろん、よかったらでいいのよ。旦那様にもご意見を伺わないといけないだろうし」
「夫なら大丈夫よ。それに今回は泥まみれになる内容じゃないし、『ご令嬢たちとの親睦を深めるための下調べ』とでも何とでも言い訳できるわ。このカレンに任せなさい」
「……ええ、ありがとう」
国王付き女官と伯爵夫人は、互いの手を固く握り合ったのだった。
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