2章 それぞれの宣戦布告 その2

 これはまずい、とアリシアは今になって本格的な危機感を覚えた。

 大臣たちはジュリアンを説得してくれるどころか、「求婚を受けてくれ」と逆にアリシアに頼み込んでくる始末。「自分とジュリアンで話を付けるから、大臣以外には口外しないでほしい」と頼んでその場はお開きとなったものの、きっと今頃彼らは、本日この場に同席しなかった後二人の大臣を交えて熱心に報告会を行っていることだろう。

(でも、私の目標はジュリアン様の王妃になることじゃない。女官として、エンブレン王国の未来を築くことなのだから)

 エンブレンの貴族として国を支え、守り、繁栄に導く。それは寵妃であろうと女官だろうと変わることのない、アリシアの使命である。決して、王妃になることではない。

 ……ということを、事情を知っているレイバンに話したのだが。

「いいじゃん、王妃になれば」

「あなたに相談した私が愚かだったわ」

 アリシアは恨めしい気持ちでレイバンをじろりと睨んだ。

 今、アリシアは執務室で郵便物の整理作業を行っていた。一般の郵便物であれば他の官僚に任せればいいのだが、これらは地方の貴族や他国の諸侯から送られた機密書類が多く含まれている。アレクシスの寵妃として公務を手伝っていたアリシアの身分は、こういうときにも役に立つのだ。

 護衛であるレイバンは、現在部屋の主であるジュリアンが外出中であるのをいいことに、だらけた姿勢で壁に寄り掛かっていた。ジュリアンがアリシアに求婚したことを知っている数少ない人物である彼だが、相談相手には全く適していなかった。

「だってさ、あんたと陛下がくっつけばまとめてあんたたちの面倒を見ることができて、俺の仕事も楽になるじゃん」

「……あなたってとことん、自分本位の合理主義者よね」

「そりゃそうさ。俺はね、『弟とアリシアを頼む』っていうアレクシス様の遺言を全うするためなら、後のことはどうでもいいの」

「あなたの言う『後のこと』に、私や陛下も入ってしまっている気がするわよ」

「仕方ないだろう。人間、本当にほしいもんややりたいことがあれば、何が何でも手に入れようとするんだよ。俺だけじゃないからな」

「……物騒きわまりないわ」

 とんだ理論を振りかざしてくる男だ、とアリシアは昔なじみを三白眼で睨んだが、椅子の上にあぐらを掻いていたレイバンはアリシアの視線に物怖じすることなく言い返す。

「陛下に言いたいことがあるなら、ちゃんと言えよ。逃げたり喧嘩腰になったりしたって結論は出ないだろ」

「わ、分かってるわよ」

 痛いところを突かれ、アリシアは言い返した。いつも飄々としており人を食ったような態度を取るレイバンだが、その指摘はいつも的確で、胸が痛い。

(……レイバンの言う通りだわ。今日のうちに、ちゃんと話をしないと)


 勤務時間終了後、アリシアは改まってジュリアンに面会を申し入れた。

「昨夜のことで、お話がございます」

 仕事用のシンプルなドレスから正装に着替えたアリシアは、姿勢を正した。

 勤務時間中は後頭部でさっとまとめるだけだった金髪は頭頂部で結い上げ、小さなティアラで飾っている。体にぴったりとフィットしたスレンダーラインのドレスは、アリシアが好きな鮮やかなブルー。今の流行は胸元を開くタイプなのだが、あえて詰め襟で胸を主張しないデザインのものを選んだ。

 一方のジュリアンは、執務中の服装そのままだった。だが落ち着いた様子でアリシアを見守る彼はこれといって服装を整えずとも、清潔感と威厳が漂っている。

「そうだね。僕も君とちゃんと話をしなければならないと思っていた」

「……昨夜は臣下の身分でありながら過ぎた発言をいたしましたことを、お詫び申し上げます」

 そう言い、アリシアは深々と頭を下げた。侍女がピンを駆使して結ってくれた髪は、頭を垂れたくらいでは一縷の乱れも起こさない。

 だが対するジュリアンは、心外だ、とばかりにひょいと片眉を跳ね上げた。

「……面を上げよ。アリシア、なぜ君が謝る? 過ぎた発言も何も、君は僕の申し出に否と答えただけではないか。まあ突然ではあったし、僕もちょっと焦ってしまったと後悔しているけれどね」

「……その。陛下はわたくしとの結婚を――」

「うん、本気だ」

 ジュリアンは唇の端にほんの少し笑みを浮かべ、アリシアを見つめてきた。執務中は絶対に見せない柔らかな微笑を正面から見せつけられ、ほんの少しアリシアの指先が震える。

「君を王妃に迎えたい、その思いは本当だよ」

 主君の穏やかな言葉に、ごくり、とアリシアは唾を飲み込む。

(やっぱり、本気でいらしたのね……)

 昼前に笑みを向けられたときから、きっとそうだろうとは思っていた。

 だがアリシアは表情を引き締めて首を横に振る。

「わたくしでは王妃は務まりません。わたくしは陛下よりも年上で、今は王家から外れたとはいえ先代国王の寵妃でございます。陛下のお兄様の妻を譲り受けるとなれば、よからぬことを噂する者も出てくるでしょう。わたくしと結婚したことにより、陛下の名誉を傷つけることがあってはなりません。陛下は、婚姻によって優秀な後ろ盾を得るべきです」

 言い訳がましくなってしまったが、単刀直入に言えば「無理です」である。

 だがジュリアンは憤ることも動揺することもなく、むしろ満足そうな笑みを浮かべてアリシアの言葉にしっかりと頷いてみせた。

「毎日僕のことを助けてくれているのに王妃は務まらないだなんて、君は謙虚な女性だね」

「いえ、謙虚とかそういうわけじゃなくて――」

「僕が君と結婚して王妃に迎えるということには、なんら問題はない。国王より年上の妃も寵妃の再婚も法に抵触していないし、実際前例がある。過去には、二十歳年上の未亡人を王妃にした国王だっていたくらいだ。……それに、僕自身がうまく世を統治できさえすれば、妃の実家の権力をあてにする必要はない。それどころか場合によっては、下手に権力の強い貴族なんて邪魔になることだってある」

 彼の言うことももっともだ。高位貴族の娘を王妃に迎えれば万事安泰、というわけではないのである。

「……しかし、スチュワート侯爵家は権力のあるなし以前に、没落しております。陛下もご存じのように、わたくしの兄ダミアンは経営に失敗し、家族もろとも行方をくらましました。今はわたくしが臣下に下り、陛下のご温情あってスチュワートの名はかろうじて残っておりますが、わたくしの実家は陛下の助けになるどころか、足枷にしかなりません」

 アリシアをアレクシスにあてがった異母兄ダミアンは三年前、事業に失敗して全財産を失い、領地も借金も全て投げ出して逃亡したのだ。そのしわ寄せは十六歳だったアリシアに向けられたが、アレクシスのおかげで借金は工面され、アリシアが罪を被ることは避けられた。

 寵妃から女官になった際には、名ばかりではあるがアリシアに侯爵の身分が戻り、アリシアは独身時代のように「アリシア・スチュワート」と名乗ることになった。

(今はジュリアン様のご温情でなんとか持ちこたえているけれど、醜聞まみれの家名を背負う私が王妃になると聞いて、あることないことを噂する者だって出てくるはずだわ)

 実家のことを考えると、どうしても気持ちが落ち込んでしまう。ジュリアンもそれに気づいたようで、つり上がった目尻を垂らして気遣わしげにアリシアの顔を見つめてきた。

「……侯爵家の没落は、君の責任じゃない。ダミアン・スチュワートが今どこで何をしているのかは分からないが、君は女官として立派に職務をこなしている。皆も、君がいかに努力してきたかよく知っている。そして僕も、君に関してあらぬ噂なんて立てさせない。求婚したからには、何が何でも君を守る」

「なりません。わたくし一人のために陛下がご心労なさることがあってはならないのです」

「それはおかしいだろう。君が求婚を受けてくれたなら、僕は夫として妻を守る責務がある。妻を守るために身を削ることの、何がいけない?」

 ジュリアンの言葉に、昨夜のような勢いや激しさはない。静かに優しい口調でひとつひとつ説明するからこそ、じわじわとアリシアの胸にも罪悪感がわき上がってきた。

 ひとつ、アリシアが頷けばいい話。そうすれば丸く収まる。

(でも、それは私が望むことじゃない)

「……わたくしの願いは、陛下がわたくしを必要としてくださる限り、臣下としてお仕えすること。そして、陛下がお妃様を迎えられた際には心より祝福すること。そして叶うことなら、陛下の御子をお育てし申し上げることです」

 意を決してアリシアが告げると、ジュリアンは満足そうに微笑んで頷いた。

「うん、すばらしい願いだ。僕が君を必要としなくなる日なんて来やしないから、是非とも僕の妃になって、これからも公務を手伝ってほしい」

「そういうことじゃないです!」

「僕たちの間に子どもが生まれたら、乳母に任せきりにするんじゃなくて一緒に育てよう。君は勉強家で賢いから、子どもの教育を任せても大丈夫だろう。僕は、君に似た子がほしいね。さぞかわいいだろうなぁ……」

「い、いえ! ですからわたくしの願いは、そういうことではなくて――」

 かあっと頬に熱が上り、舌がもつれそうになる。

 アレクシスとの八年間の婚姻がいわゆる「白い結婚」だったアリシアは、恋愛ごとの矢印が自分の方向を向くとなるとどうしても、普段のように軽くいなすことはできなかった。

(ジュリアン様は本気だわ。でも……いったい何と申し上げれば)

 答えに窮したアリシアがぎゅっとドレスのスカート部分を掴んで逡巡していると、ジュリアンの柔らかい声が掛かった。

「アリシア。僕は君に望まぬ関係を強いたいわけじゃない。義務感のみで僕の求婚を受けた君を手に入れたって、嬉しくはない。……だから、ね」

 ソファの革がきしむ音を立てて、ジュリアンが立ち上がった。彼はテーブルを迂回すると、向かいの席に座っていたアリシアの横に来てその場に跪く。

 柔らかな炎を灯した紫の目が、アリシアをじっと見つめていた。

「君の方から、僕の妃になりたいと思ってもらえるようにするから」

「……え?」

「落としてみせる」

 そう囁くと共に、ジュリアンの手がアリシアの左手を取り、手袋越しにキスを落とした。

 手の甲へのキスは、男性から女性への親愛の証。恋愛感情は含まれていない一般的な行為だから、アリシアも慣れているはずなのに――

 ジュリアンの甘くかすれた囁きを耳にすると、びくっと背中が震えてしまった。

「お、落とす――?」

「そうだな……一年、にしようか。一年以内に君を口説き落とし、僕の王妃にしてみせる。もし一年経っても君の心が変わらなかったり他の男がよいと言うようになったりすれば、僕の負けだ。そのときは、大臣たちと相談しつつ別の令嬢を王妃に迎えよう」

 いちねん、とアリシアは呟く。そして、自分の左手に恭しい手つきで触れるジュリアンの顔をじっと見つめた。

 ジュリアンはアリシアより二つ年下で、顔つきもまだどこか幼い。だが非常に頭が切れるし、口も達者だ。世渡りがうまく、甘え上手で人の懐にするりと入ったら最後、どんな相手だろうところころと手のひらで転がしてしまうという物騒な才能も持っている。

(ジュリアン様が、私に無理を強いたくないとおっしゃる気持ちは本当だと思うわ。でも――)

『本当にほしいもんややりたいことがあれば、何が何でも手に入れようとするんだよ』

 先ほどのレイバンの言葉が脳裏によみがえる。

「一年以内に口説き落とす」と条件を付けたなら、あの手この手でアリシアを籠絡してくるだろう。元義弟の性格は、アリシアもよく分かっている。見た目に騙されると痛い目に遭うのだ。

(……でも、ここでびくびくするほど私は柔じゃないわ)

 自分はもう、周りに怯えていた十歳の少女ではない。寵妃時代、女官時代と荒れ狂う波のような日々を過ごす中で、アリシアだって図太さと図々しさを身につけたのだ。

(恋愛経験が皆無でも、ジュリアン様より二年間長く生きただけの意味がある――はず!)

 アリシアは目を伏せ、頷いた。

「……かしこまりました」

「アリ――」

「しかし、わたくしだって一年間をいたずらに過ごすわけにはいきません」

 さっと顔を上げる。そこには、紫色の目を見開いてぽかんとするジュリアンの顔が。こうした無防備な表情は、十七歳という彼の実年齢相応である。

「陛下だけ行動し、わたくしが受け身になるだけなんて平等ではございません。わたくしが陛下に口説き落とされる前に、陛下が他の令嬢と恋に落ちるように動いても構いませんよね? エンブレン王国内にもあまたいらっしゃる、お美しいご令嬢たち。きっとわたくし以上に王妃にふさわしいお方がいらっしゃるはずです」

「……なるほど。君は、僕が別の令嬢に恋をするようにあれこれ手を回すというのだね」

 納得がいったらしいジュリアンはにやりと笑う。それは、少年王だからと見くびってきた貴族を完膚無きまでに論破したとき、彼が見せる笑顔だった。

「君のそういう、負けず嫌いで前向きなところも魅力的だよ。落とし甲斐があるね」

「……ありがとうございます」

「それじゃあ、君は僕が心変わりするくらいすばらしい令嬢を探してみるといい。まあ、どうせ一年も経たずに君が白旗を振るだろうけれど……ね」

「受けて立ちます」

 アリシアは背筋を真っ直ぐ伸ばして、朗々と言った。

 これはもう、アリシアとジュリアン二人の問題ではない。

 エンブレン王国にとって最良の王妃を迎えるため、一年間で決着を付けるのだ。

「わたくしには寵妃時代に培った人脈があります。年上の尊厳もありますからね。皆が納得するような結果をご期待くださいませ」

 自信たっぷりにアリシアが宣言すると、すうっとジュリアンの目が細くなった。

 ――この眼差しは、危険信号だ。

 彼は何か企んでいるときや自分にとって有益な手札があるとき、こういう目をするのだ。

「……そっか。それじゃあ僕はそんな自信満々なお姉さんに、僕じゃないと生きていけない、って言わせてあげようかな」

 そうして彼は立ち上がり、ほっそりとした指先でアリシアのあごを捉えた。

 紫の目が、アリシアをじっと見つめている。その顔が傾き、左耳に吐息が注がれ――

「……絶対に、落としてみせる」

「ひっ!?」

 耳元で囁かれた声はいつもよりも低くてざらつきがあり、ぞくぞくっとアリシアの背中を甘いしびれが走ったため、ついはしたない声を上げてしまった。これまで異性とこんな至近距離で接したことも囁かれたこともなかったので、免疫がないのだ。

 勇ましく宣言した直後に真っ赤になって跳び上がってしまったアリシアを、ジュリアンは薄く笑いながら見つめていた。

「顔、真っ赤。かわいい」

「くっ……! ま、負けませんから!」

「うん、僕もね」

 年下の王様は、どこまでも自信たっぷりに言うのだった。

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