1章 王の求婚 その3
どれほど時間が経っただろうか。
柔らかな夜風に頬をくすぐられて、はっとアリシアは我に返った。
(えっと……今、陛下は私に求婚……し、た?)
かなり遅れて脳みそが物事を処理し始め、やっとアリシアも状況が理解できた。
できたが、それを素直に呑み込むことはできそうにない。
見目麗しく若い王様が、口うるさいだけの年増に求婚した。
そんなことを周りの者に言っても、「いい年こいて夢でも見ているのではないか」と言われそうだ。
(そ、そういえばさっき陛下は、お酒も飲める年齢になったのだから――と、大臣たちにワインを勧められていたわ)
きっと慣れないアルコールに酔って、心にもないことを口走ってしまったのだろう。
(だとすれば、いずれ酔いも覚める……はずよね)
うんうんと一人納得した後、アリシアは気を引き締める。
「……陛下、年上をからかわないでくださいませ」
ここは年上の余裕を見せねばならないだろう。
そう思ってゆったりと微笑んだアリシアだが、跪いたままのジュリアンは首を横に振った。
「すぐには信じられないかもしれないが、僕は本気だ」
「わたくしはあなたより二つも年上で、しかも結婚歴があるのですよ」
「何か問題でもあるか?」
「大ありです! わたくしより若くて美しいご令嬢なんていくらでもいらっしゃいます。なにも、わざわざわたくしをお選びにならずともよろしいでしょう」
「君じゃないとだめなんだ」
アリシアの言葉に反論するジュリアンの眼差しにからかいや冗談の色はない上、酔っている様子でもない――ということは。
(ひょっとして……ジュリアン様は、本気なの?)
ひやり、と背筋を冷たい汗が流れる。
ジュリアンは本気でアリシアを妃に望んでいる。それも――王妃として。
(そんなの、あってはならないことよ!)
吠えたくなるのを堪え、アリシアはぷるぷると首を横に振る。
「む、無理でございます」
「案ずることはない。周りの者なら、僕がなんとでも言いくるめる」
「よくないです! そんなことをすれば陛下の治世を崩すことになりかねません!」
「そうならないためにこの一年、努力してきたんだ。君は、僕のことが嫌い?」
「嫌いではありません!」
「じゃあ、いいだろう」
「いいえ。わたくしは妃ではなく臣下として、陛下にお仕えしたいのです!」
「もちろんこれからも、僕の執務を手伝ってほしい。……王妃として」
「……せ、せめて寵妃ではいけないのですか。他のご令嬢を王妃に迎えて――」
「アリシアを差し置いて他の令嬢を王妃にするなんて、絶対に嫌だ」
彼は折れるつもりがないようだ。だが、だからといって「はい分かりました王妃になります」なんて言えるはずがない。
未亡人、年上、色気より仕事、実家は没落済み。
王妃としては最悪のスペックである。
(ここは、ジュリアン様を説得しなければならないわ!)
アリシアは数度深呼吸し、気持ちを落ち着ける。話術は苦手だが、そうも言っていられない。
「わたくしは陛下を敬愛しておりますが、それはあくまでも臣下の立場としてでございます」
「そうだな。では、結婚してから少しずつ僕のことを好きになればいい。君のよい夫になれるよう、僕も頑張るよ」
「いえ、その……わたくしには、陛下のお助けになれるような家族がおりません。ご存じの通り、実家はとうの昔に没落しており――」
「そうだな。だが、王妃の実家に頼らなくても僕は十分強いし優秀だ」
「も、もうすぐ二十歳を迎えようとする女を王妃にするなんて、外聞がよろしくないです!」
「そうか? 別に法に触れているわけでもないだろう」
案の定、けろっとして全て論破されてしまう。そんな彼の涼しそうな顔を見ていると、最初は穏便に事を運ぼうと思っていたアリシアも、だんだんと頭に血が上ってしまった。
「……陛下になんと言われようと、わたくしは王妃になれません! 一時の気の迷いです!」
「僕の思いは気の迷いなんかじゃない。アリシア、僕には君が必要なんだ」
「わたくしが必要であれば王妃にせずとも、臣下のままでよい話です。きっと陛下はご幼少のみぎりから近くにいたわたくしに、王妃の幻想を重ねているだけです」
「幻想なんて言うな」
さしものジュリアンも顔をゆがめ、やや硬い声になっていた。
「僕は本気だ。君を王妃に迎えたい」
「きっと戴冠式直後で、お気持ちが高ぶってらっしゃるのでしょう」
「……アリシアの分からず屋」
「分からず屋で結構でございます。どうかお考え直しください、陛下」
アリシアは立ち上がり、さっさとガゼボから出た。「アリシア!」と背後からジュリアンが呼ぶ声がするが、無礼とは分かっていても振り返ることはできない。
(ごめんなさい、ジュリアン様。でも、お話はお受けできません)
今夜はどちらも頭に血が上っている。冷静になればジュリアンは自分の発言を撤回するだろう。そしてアリシアも、たいそうな口を利いたことを彼に謝らなければならない。
ガゼボを出たときはかっかと火照っていた体も、庭園の出口に戻る頃にはすっかり冷えていた。煉瓦塀に座っていたレイバンは足音を耳にしたらしく振り返り、ため息をつくアリシアを見てにやっと笑った。
「……あんたらが喧嘩する声、ここまで聞こえてきた。なかなかのもんだったな」
「……あなた、陛下の考えを知っていて私を呼んだのね」
八つ当たりとは分かりつつもじろっとレイバンを睨むが、彼はへらりと笑うだけ。
「当たり前だろう。でも俺はちゃんと陛下に忠告したんだぜ。なんつったってアリシアだぜアリシア。求婚したって、『はい分かりました』なんて従順な返事をするタマじゃないってのにさぁ。あーあ、フラれた陛下、かわいそー」
「フったわけではないわ」
レイバンを伴って自室に戻る道中、アリシアはぽつんと零した。
「これはきっと、気の迷いよ。私を王妃にしたって何の利益も生まれないし、陛下のためにもならない。明日になればきっと、何もなかったことになさるはずよ」
「……あんたはそれでいいのか?」
「ええ、いいのよ」
アリシアは迷いない口調で言った。
アリシアの願いは、「臣下としてジュリアンを支えること」であり、「王妃になること」ではないのだから。
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