1章 王の求婚 その1
開け放たれたままの窓から流れ込んでくる風は暖かくて、ほんのりと甘い香りを孕んでいる。
花と、草と、土の匂い。
王城の庭園にも春が訪れた証である。
そんな春の風が吹き抜ける王城の開放廊下を、一人の若い娘が歩いていた。艶のある金髪を後頭部で簡素にまとめ前髪も撫でつけているので、きりりとした美貌が露わになっていた。仕事がしやすいよう華美な装飾を取り払っている黒のシンプルなドレスは、日光を浴びてほんのりと明るい色合いに見えている。
「……陛下の即位から、もうすぐ一年か」
廊下の角を曲がろうとした彼女は、前方から聞こえてきた声を耳にして足を止めた。
「初めはどうなることかと思ったが、陛下の努力はすばらしいな」
「若いからと舐めていた当時の自分を殴りたい。まさか、一年でここまで国を栄えさせるとは」
どうやら官僚たちが、若き国王をネタにした噂話に興じているようだ。
主君に対する礼儀を欠いたような内容であれば彼女も一言物申しただろうが、彼らは和やかに主君の手腕と成長を評価しているようだ。
(そうでしょう、そうでしょう。なんていったって、ジュリアン様だもの!)
壁に寄り掛かって話を立ち聞きしていた彼女は、会心の笑みを浮かべてうんうんと頷く。
夫アレクシスの死によってエンブレン王家から降りた自分がジュリアンに仕えるようになって、早一年。即位直後は不安なことも多かったが、一年間で彼はみるみる成長した。彼を支えてきた身としては誇らしいばかりである。
「これには、アリシア様の存在も大きいだろうな」
満足そうに頷いていた彼女は、自分の名を耳にして動きを止めた。
「もちろんだ。アレクシス様の寵妃が女官になるなんて、それこそ世も末だと思ったものだが、アリシア様はすばらしい働きをなさっている」
「陛下も、義姉であったアリシア様を信頼なさっているようだな。よいことだ」
彼女――ジュリアン王の女官であるアリシアは、眉間に皺を寄せた。主君を讃える言葉ならいくらでも聞いていたいが、いち臣下に過ぎない自分を褒められるのはお門違いだと思う。
(……ジュリアン様のところに行かないと)
まだ官僚たちの立ち話は続きそうだから、廊下を迂回しよう。そう思ってきびすを返したアリシアの背に、官僚のしみじみとしたような声が届いた。
「本当に。……あとは、陛下が妃を迎えられるばかりなのだがなぁ」
「……税率を上げる。これは決定事項だ」
「しかし国民の多くは、急な増税に反感を抱くことでしょう」
「国民には如何様にしてご説明をなさるおつもりですか?」
「増税の理由と、それによる効果を明らかにすればよい。農村地域への農具の提供や馬車道の整備など、効果が早く現れ、なおかつ国民への還元が分かりやすい改革と、将来を見越した改革を同時に行う。たとえ増税しようと、それが結果として自分たちのためにもなると分かれば反対意見を抑えられるだろう」
「徴収した税のうち、早期に効果が現れるものと時間が必要なもので割り振りを行うのですな」
「ああ。その割合も検討せねばならないが――」
アリシアはそっと、国王の執務室に顔を覗かせた。そこではガラスのテーブルを挟み、若き国王と五名の大臣が額を突き合わせて協議を行っていた。本日の議題は増税のようだ。
話が終わるまで待とうと壁際に控えたアリシアは、目を細くして国王ジュリアンの横顔を見つめる。
少し癖の付いた柔らかい髪は、艶やかな黒色。前髪は額の中央で分けているので、目尻のつり上がった紫色の目が露わになっている。十七歳の体は騎士たちと比べると一見華奢な印象があるが、護身用として剣を習っていることもあり、これからの成長が大いに期待できる。
まもなく協議は一段落付いたらしく、大臣たちは一礼して国王の御前から辞去した。
……大臣たちは皆、先々代国王の御代から王家を支えてきた忠臣で、主君の前ではきびきびとしている。だが隣の部屋に移動すると、「……長時間の協議は腰が痛くてかなわん」「陛下に気力を吸い取られるのぉ」と口々に言っていた。今度、彼らのために疲労回復効果のある薬草茶を買いに行こう。
「待たせた、アリシア」
大臣たちを見送るアリシアに、柔らかい声が掛かった。ジュリアンは書き込みで真っ黒になった書類をまとめ、アリシアに向かって手招きしていた。
「城下町の視察が終わったのかな」
「はい。結果をまとめた資料をお持ちしました」
アリシアはソファに腰を下ろし、胸に抱えていた紐綴じの資料をテーブルに置く。
ジュリアンの女官であるアリシアの仕事内容は、多岐にわたる。今日のように、多忙なジュリアンに代わって城下町の視察に行くこともあれば、執務室で書類整理を手伝うこともある。夜会などではアリシアが招待客の選定を行ったり案内状送布の指揮を執ったりする機会も多く、先代国王アレクシスの寵妃時代に培った能力を存分に発揮していた。
(アレクシス様とラーラ様が、私を政治の場に出してくださったおかげだわ)
ジュリアンが資料を確認している間、アリシアは瞑目する。
王侯貴族の一夫多妻が認められているエンブレン王国において、代々の国王の大半は様々な理由で寵妃を据えていた。だが、夜会を取り仕切ったり国王に同伴して視察に行ったりするのは専ら王妃の仕事。寵妃に政治的な役割はなく、国王の来訪を自室で待つことがほとんどであった。
アリシアはもともとスチュワート侯爵家の娘だったが、産みの母親が使用人だった。母親は早くに亡くなったものの、アリシアは父親から愛されていたため実家に居座ることができた。
だがその父も九年前に亡くなり、異母兄が爵位を継いだ。アリシアの存在を快く思っていなかった兄はこれがいい機会だとばかりに、当時即位間もなかった二十代前半のアレクシス王に十歳のアリシアを押しつけたのだ。
(お父様が先々代国王陛下の側近だったから当時の侯爵家は発言力があって、既に婚約者がいたアレクシス様も否とは言えなかったのよね)
不安で泣いていたアリシアは結婚式を終えた日の夜、アレクシスにそっと頭を撫でられた。
「辛かっただろう。でも、もう大丈夫。私は決して、君を傷つけたりしないよ」
夫となった国王の優しい声に、アリシアは涙いっぱいの目を見開く。
「……でも、わたくしは、アレクシス様の奥さんに――」
「それは、君が望んだことではないだろう?」
「……」
「よく聞いてくれ、アリシア。私はいずれ、王妃を迎える。だが絶対に、君を放り出したりしない。君の将来のことも、一緒に考えていこう。私のことは兄のような存在だと思ってくれればいいよ。これからよろしく、アリシア」
望んで嫁いだのではないのだから、自分のことは夫ではなく、兄と思って接してくれればいい。
アレクシスのその言葉は、アリシアにとって青天の霹靂だった。
そうしてアリシアは、アレクシスとの結婚生活を送ることになった。彼は宣言した通り、アリシアに手を出すことはしなかった。まだ成長途中のアリシアに家庭教師をつけて学びの場を提供し、それでいて公の場ではアリシアを「妻」として扱い、尊厳を守ってくれる。
やがて彼は、婚約者だった公爵家の令嬢を王妃に迎えた。王妃ラーラはアリシアが寵妃になったいきさつを知ると、我がことのように悲しんでくれたものだ。
それからは、三人で行動することが多くなった。王妃を迎えてもなお、アレクシスはアリシアを妻として扱ってくれた。ラーラも公務に出る際アリシアを誘ってくれたので、「ラーラ様とアリシア様はご姉妹のようですね」と言われたこともある。
だからアリシアは、アレクシスとラーラが旅先で遭遇した事故で崩御した今も、政治の場に出るだけの才覚や人脈を手元に残すことができていた。もし彼らがアリシアをただのお飾り寵妃扱いしていたなら、アリシアは田舎に引っ込んで隠居生活を送るしかなかっただろう。
『アリシア、幸せになりなさい』
事故に遭い、命の灯火が消えようとしていた夫のいまわの言葉が脳裏によみがえる。ラーラは即死だったが、アレクシスはかろうじて息のあるうちに王城に運ばれた。だが回復の兆しは見えず、医師に余命宣告された――その日のことだった。
彼の示す「アリシアの幸せ」がどういうものなのか、アリシアには分からなかった。
分からないからこそ、彼女は夫の死後、生活資金をもらって悠々自適の隠居生活を送るという選択肢を拒否し、女官として新国王ジュリアンに仕えるという道を選んだ。
ジュリアンとは、王城内でたまに会う程度の間柄だった。兄アレクシスと十歳以上年齢差のあるジュリアンとアリシアとでは生活環境が違い、アレクシスの崩御までにほとんど言葉を交わしたこともなかった。
そうして女官として仕えるようになったジュリアンだが、儚そうな見た目に反して図太く、したたかで優秀だった。とはいえそんな彼も、まだ十七歳の少年。迷うことも悩むこともある。
(アレクシス様とラーラ様から受けた恩を、ジュリアン様をお助けするという形で返したい)
アレクシスとラーラが愛した国を、ジュリアンと共に守り、繁栄に導くこと。
そしていずれ彼が妃を迎えた際には、誠心誠意国王夫妻にお仕えする。王子王女が生まれたなら、御子の教育係に名乗りを上げようとも思っていた。
王国の未来を担う者たちを育て、見守りながら年老いていくのもすてきなことだろう。
(これが私の幸せです、アレクシス様)
ジュリアンが資料を確認し押印したところで、アリシアはふと机上の予定表を見て口にした。
「……三日後は、いよいよ陛下の戴冠式ですね」
「ああ。……ここまでが、長かったな」
ジュリアンも、この一年間を振り返るかのように遠い眼差しになって頷く。
エンブレン王国では、国王が即位してちょうど一年後に戴冠式を執り行うことになっている。新国王が即位して最初の一年を乗り越えた記念でもあり、また――今回のように、先代国王の死によって譲位した場合は、喪明けの意味も含んでいるのだ。この一年間黒を基調とした服のみ着用していたアリシアやジュリアンも、戴冠式以降は黒以外の服を着ることができる。
「そうですね。城下町でも、陛下の戴冠式を心待ちにする声を多く耳にしました。皆も、陛下の治世を心から願っていることでしょう」
「そうだな。皆の期待に応えなければならない。アリシアもよろしく頼むぞ」
「もちろんでございます」
アリシアは笑顔で自分の胸を叩く。
ジュリアンはそんな彼女の姿を見て目を細め、そして一つ咳払いした。
「……アリシア。戴冠式の日の夜に、何か予定は入っていないか」
「夜……ですか? はい、特には」
「そうか。では、夜に少し時間をくれ。話がある」
「……かしこまりました」
夜にジュリアンから呼び出されるとは珍しいが、断る理由はない。
(翌日以降の打ち合わせかしら?)
アリシアは素直に承諾し、テーブルに広げられていた資料を手早くまとめる。そんな彼女を見つめるジュリアンの眼差しに熱がこもっていることに、アリシアは気づかなかった。
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