五月初旬


皐月(5/5)


 早朝、霧がうっすらと谷を覆い、幻想的の観を呈している。その朝霧に誘われて家を出る。近頃、緑のあるところには必ず足長蜂や雀蜂が重低音を鳴らして飛び回っているので、散歩をするにはまだ彼女たちの動き出さない早朝のうちが良い。蜜蜂ならまだしも、雀蜂は屋内から観察するに限る。

 薄い霧の中を歩き、人気のない公園の原っぱに出ると、夢うつつの間を彷徨っているような、ふわふわとした気分になる。

 数日ぶりに歩いた雑木林の暗い林床には純白の立浪草たつなみそうが群れ咲いている。立浪草の仲間は同定が難しいと言うが、あれは正確には何という種なのだろう。黒と茶と緑に覆われた林の底では立浪草の白さが一際目を引く。人の目にも明らかなのだから、虫たちにとってもさぞ見つけ易かろうと思う。

 林の中に入ってしまうと見えなくなるが、谷の対岸から見ると、水木みずきの乳白色の花が咲いているのが分かる。葉が大枝に横一線につくため、樹形は階層を成す。根は水をよく吸い、枝幹や葉は水分を多く含む。水木の名はここから。

 雑木林のある斜面は、丘の北側に位置する。尾根を挟んで向こう、南側の斜面では、立浪草も水木も、何週間も前から花を咲かせていた。丘というにも大袈裟過ぎるほどの小さな丘だが、植物はこのほんの僅かな環境の違いも敏感に察知するらしい。

 散歩から帰ってくる頃には、霧は晴れ、歩いているだけでも汗ばむような初夏の陽気になる。


 昼までの晴天が一転俄かに差し曇り、湿気含みの涼しい風が吹き出したなと思うと、その風に花の香りが混じっている。縁側の前の蜜柑が、ここ数日の暑さで一斉に咲いたのである。平素は鼻先を近づけなければ分からぬほど微かな、しかしはっきりと甘い香りが、風に乗じて漂ってきたのだろう。この匂いを敏く嗅ぎつけた鳳蝶あげはちょうが度々飛来する。

 鳳蝶の仲間には決まった道筋を行き来するという不思議な習性を持つものが多い。この道筋のことを蝶道という。人間の目には(少なくともぱっと見た程度では)どこに道が通っているかは分からない。蝶が通ったのを見て、あぁそこに道が通っていたのかと後で気づく。蝶は蝶にしか見えない道を持っている。

 蝶に限らず、動物たちは皆、人には見えぬものを見、人が嗅ぎ分けられない匂いを嗅ぎ分け、音を聞いているのだろうと想像する。その動物たちの見る色とりどりの世界に思いを馳せると、日頃見ている景色はあくまで一つの見え方でしかなかったのだと思え、大変面白い。


 柏餅を食べる。消費期限ぎりぎりまで待った餅には、柏の葉の爽やかな香りが移り、美味い。風呂には菖蒲の葉を浮かべる。春は終わり、今日は端午の節句。夏の気の立つ日。

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