2「散×歩」
テレビに映るお天気キャスターの声に耳を傾けながら、小さくなった目玉焼きを一口でほう張った。普段から昼夜逆転の生活を送っていたから、こうしてちゃんとした朝食をとるのはいつぶりだろう。
「佐々木さんどうぞ」
私が食べ終わるタイミングを見計らって、淹れたてのコーヒーが目の前に置かれる。時間を気にせずコーヒーが飲めるのは、在宅業務の特権だ。上達したその腕前を褒めると彼女の尻尾がいつもの三倍大きく揺れる。これが嬉しいときの感情表現。
フェンリルを拾ったあの日から、彼女は供に暮らす住人となっている。
だけど最初はフェンリルをここに置くことを断るつもりだった。今まで一人暮らしにも関わらず、自分のことなど二の次にして仕事ばかりやってきた私が、誰かと共同生活なんてできるわけないと思っていた。
そんなダメな私に代わり、家事全般をやってくれるという申し出に加え、モフモフの尻尾がさわり放題になるという特典までついてきたことで、渋々ながらも首を縦に振らずにはいられなかった。つまり、私は自分に負けたのだ。
「朝ご飯ありがとう。それじゃ私は部屋で仕事するから」
「はい! その間に私は家事をやっておきますね!」
元気に答えるフェンリルに対して、私は懐疑的な視線を送った。確かにフェンリルはよくやってくれている。やってくれているはずなんだけど、どうしても気になることがあった。
「フェンリルさ、洗濯のとき私の服の匂い嗅いでるよね?」
「…………」
「目を反らすな目を。なんであんなことしてるのさ」
「親愛なる佐々木さんの匂いを嗅ぐのになんの理由が必要ですか? いや必要なんかありません!」
「反語否定したら説得力あると思うのか? いやない! そういうの、変態っぽいからやめてよね」
「はい……」
残念がるその様子は、神話に出てくるフェンリルとしての威厳なんてものはなく、ただの犬だ。
こんなやりとりは洗濯に限った話だけでなく、食事のほうも色々と料理を覚えて作ってくれることは助かるんだけど、フェンリルとしての特性なのか肉料理中心だったりするし、これはもう少し色々と教えたほうがいいかもしれない。
◆
「んんっ~……」
ずっとパソコンに向かっていた身体をほぐすため大きく伸びをする。関節が小気味いい音を立て、全身に疲労が溜まっているのがわかる。
モニターの時刻はとうにお昼を過ぎており、どうりで小腹も空いて集中力も切れてきたわけだ。
何か持ってきてもらおうかと考えていると、これまた見計らったようなタイミングでフェンリルが入ってきた。
「お疲れ様です佐々木さん。甘い物持ってきましたよ」
「さっすが気が利くね」
「いえいえ。午後のお仕事も頑張ってくださいね」
フェンリルが持ってきてくれた茶菓子を食べると、疲れていた脳が活性化していく。それをコーヒーで流し込みもう一仕事といきたいとこだったけど、なぜか部屋の隅にフェンリルが鎮座している。
チラチラと気にしてその姿を確認する度に、満面の笑みで返してくれた。
「あのさ……」
「心配しないでください! 洗濯と掃除と夕食の仕込みはさっき終わらせましたので、佐々木さんは気にせずお仕事してください!」
「あ……えっと、ありがとう」
ダメだ気になる。さすがにフェンリルから私に喋りかけたりはしてこないけど、その視線はひしひしと伝わってくる。まったくわくわくしない授業参観のような感じで、集中力が霧散する。
予定していた時間を大きく超えてしまったが、とにかく区切りのいいところまで進めてPCの電源を落とした。
すると、音もなく背後に立っていたフェンリルに気づかず、心臓が飛び出るかと思った。
「休憩ですか? 休憩ですね! なら私がとびきりのコーヒーをお入れしますよ!」
「コーヒーは大丈夫。それよりもフェンリル外の空気吸いに行かない?」
「はい……?」
きょとんとするフェンリルを余所に、出かけるために着替えてから外を指さす。
「散歩」
◆
もう少し厚着をしてきたらよかったかもしれない。時折強い風にさらされて思わず身を縮めてしまう。まぁ、歩いていればそのうち暖かくなるだろうけど。
途中すれ違った余所の犬を威嚇して、勝ち誇った様子はやっぱり犬だ。
「あれぐらいでビビるなんて、所詮は犬畜生ですね!」
「お前が言うな」
リードでつながれた先、小さくなってもなお存在感のある尻尾が揺れている。散歩するとは言ったものの、あのサイズで外を連れ歩くのはさすがにマズいんじゃないかと後から気づいたが、そこは魔法で適当なサイズにまで縮んでくれた。おまけにリード付きで。なんでもありだな魔法。
「空が広いですねー!」
「やっぱりこっちの姿の方が落ち着く?」
「そうですね。人間の姿は魔力を使いますし……でも、佐々木さんのお世話が嫌だってわけじゃないですからね!」
「わかってるわかってる」
心なしかリードを引く力が強い気がする。
不器用ながらいつも身の回りをしてくれているし、これぐらいの気晴らしならいつでも付き合ってやってもいいかも。
「佐々木さん体力なさすぎですよ」
「私はっ……インドアなの……」
家からほど近い公園の一角、息が上がったまま一歩も動けない状態だった。ついついフェンリルの速度に合わせていたら、ものの数分でこの体たらく。暖かくなるのを通り越して、全身が熱い。
前言撤回。散歩はほどほどにしないと身体が持たない。
「あの佐々木さん」
ようやく呼吸が戻ってきた頃、いつの間にか人間の姿に戻っていたフェンリルは私の隣に座り、なにやら真剣な表情。どうぞと促すとその身を乗り出してじっと私を見つめる。
「私、佐々木さんに迷惑かけてますか?」
迷惑と聞かれて、思い当たること。少し考えて思いついたことを口にした。
「私の服の臭いを嗅いでたこと?」
「それはもうしませんよ……多分」
「そこはちゃんと否定してよ」
うなだれていたたフェンリルがハッとして「そうじゃない!」とさらに顔を近づけてきて、私は思わず視線を逸らしてしまう。
フェンリルの聞きたいことはなんとなくわかる。茶化してしまったことを悪いとは思うけど、こういうのは面と向かって言うのはどうも恥ずかしい。
私とフェンリル、種族が違うというか次元が違うというか、そもそもそんな二人が一緒に暮らすことで、相容れないことが浮き彫りになってくるのは当たり前だ。だからってそれを迷惑だなんて考えるわけがない。当然のことなんだから。
あれこれ考えている間も、フェンリルは私の言葉をじっと待っている。
「フェンリルはさ、やりたいようにやればいいと思うよ。私もそうするし。その上で何かあったらちゃんと話せばいい。私はそう思ってる」
あー、これはやばい。今度は別の意味で身体が熱くなってきた。
我慢できなくなり、恥ずかしさを紛らわすように勢いよく立ち上がった。
「それじゃ、佐々木さんの匂いも嗅いでいいんですね!?」
「それはダメ」
「それがダメなら、他にはこんなことやあんなことなら……ぐへへ」
どんなことを考えているのか、フェンリルは腰をくねらせながら頬を染めている。
悪寒か寒気か、身体が芯から震え上がってしまう。
汗をかいたまま長居しすぎた。早いとこ帰るとしよう、私たちの家に。
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