【そのフェンリル忠犬につき】
加糖
1「人×犬」
「佐々木さん、やってほしい仕事があるんだけど」
淹れたばかりのコーヒーに口をつけようとした瞬間だった。上司の申し訳ないような半笑いのような、とにかく形容しがたい表情に嫌な気しかしない。
「やってほしいのはテキストの修正。とりあえずざっと読んでみてよ」
言われたとおり送られてきた膨大なテキストデータに目を通していると、ほのぼのとした作風なのは理解できたが、悪い予感は的中していた。テキストの内容はほとんどが会話劇で構成されており、おおよそシナリオとしてしての体をなしていない。
ト書きの追加その他の修正を加味すると、それなりの時間がかかる計算になる。そのことを上司に伝えたまではよかった。
「ダークファンタジー……ですか」
あのテキストは外注が途中まで書いたものらしいが、どうやら元々予定していた作品の方向性とはまったく違う物ができあがってしまい、その修正が私のところに回ってきたようだ。まるで人ごとのように語る上司に、空いた口が塞がらない。
「二ヶ月ほどで終わらせて欲しいんだけど、できるよね?」
修正というよりはほぼ新規で作るしかない状況。しかもフルプライスサイズときた。おまけに外注への報酬は払い済みだから、元のシナリオもある程度使ってくれという謎の意地。一体あの文章にどれだけの金銭を払ったっていうんだ。
二ヶ月でどうにかしろとは、随分と無茶苦茶言ってくれる。
「できるよね?」
上司からの威圧に、考えていたことが腹の底に黒い塊となって落ちていくのを感じる。いっそ思っていることを全部はき出せれば楽になったかもしれない。でも、私にはそんな勇気も立場もないのはわかっている。
「はい……」
精一杯振り絞った声は、蚊の鳴く音よりも弱々しい。
デスクに戻ると口をつけていなかったコーヒーはすでに温くなっていて、もう一度温めるのも面倒くさい。空っぽだった煙草の箱をゴミ箱へと投げ捨て、私は席を立つ。とにかく一度風に当たりたい気分だった。
◆
地元に帰ってきたときには、駅前の店からは明かりはほとんど消え失せ、街灯だけが私を照らしている。
憧れだったゲーム業界。シナリオライターとして携われることが決まった時、天にも昇る気分だった。だから、老舗ゲームメーカー【ソフトハウス・ヴァン】に就職して、これから充実した毎日が続くものだと思っていたけど、現実とのギャップに立ち止まってしまうまで、そう時間はかからなかった。
「私、この仕事向いてないんだろか」
他に歩いている人がいないことをいいことに、大きなため息と一緒に呟いた。あきらめて楽になりたい。最近ではそんなことばかり考えている。
ふと、道の真ん中で一匹の子犬が倒れているのをが見えた。車に轢かれでもして、ずっとあそこにいるんだろうか。近づいて確認するとまだ息はあるようだが、このままだと長くは持ちそうにない。
そんな子犬の姿に胸の奥がチクリとする。
ただ単に、私の考えが甘かっただけだ。それにまだ私は二五歳、周りから言わせればまだ若い方でやり直すチャンスもある。
だけど、大学を中退して親の反対を押し切り、ようやく手に入れたチャンスをうまくいかないからって理由で投げ出していいものじゃない。もう二度と、こんなチャンスは巡ってこないかもしれないのに。
胸の痛みはどんどん大きくなり、流れる血潮の熱さが私を突き動かしていく。
やっぱりまだ諦めたくない。
「だから、お前も諦めるな」
子犬を抱き上げ、アパートまでの夜道を全力疾走で駆け抜ける。手当たり次第に薬と包帯を用意して手当する。時折、苦しそうな声で鳴くけれど、背中をさすり祈ることしかできない。
「頑張れ……」
あれだけひどかった胸の痛みは、いつの間にか消えてなくなっていた。
◆
小さな光が私を囲んでいた。光はどんどんと大きくなり、暖かさが私を包み込む。その光に触れると、モフモフとした心地よい手触りが指先に伝わってきた。
もっとこの心地よさを味わっていたいのに、誰かかが私を呼んでいる。その声に耳を傾けると、ゆっくりと意識が覚醒していく。
寒さで目が覚めた。まだ目の前がぼーっとして頭の中は微かに霧がかっている。やっぱりさっきまでのは夢だったようで、どこを見渡してもここは私の寝室だった。床には洗濯できていない衣服が散らばり、ホックの外れたカーテンの隙間からは燦々と輝く朝日が見える。
「遅刻だ……! って今日は土曜日だったか……」
安堵したのもつかの間、もっと大事なことを思い出す。昨日保護した子犬、途中で寝てしまっていたようでその安否はわからない。身体が冷えないようにと巻いていたタオルの中身、そこに子犬の姿はなかった。
「モフモフ?」
何度触ってもモフモフとした感触。そこにいるのは子犬のはずだったのに、なぜこんなにもモフモフとしたものになっているのか。ていうか、めちゃくちゃさわり心地が良い。夢中になって何度も触ってしまう。
するとそれが逃げるように動いた。どうやらこれは何かの尻尾のようで、繋がっている本体へ視線を上げていくと、目の前には大きな犬が私を見下ろしていた。
「おはようございます。人間さん」
犬はワンと鳴は鳴かなかった
寝室には奇妙な光景が広がっていた。体長二メートルほどはあろう体躯にツヤツヤの毛並み、さらには人語まで話す大きな犬とこうして対面している。
「ちなみに、私はフェンリルです」
「フェンリル? 狼でもなくて?」
「はいフェンリルです」
たしか北欧神話のやつだっけか。そっちの知識は全然だ。後学のために今度調べておくのも悪くないかもしれない。ちょうど本人も目の前にいることだし。
ビビリまくっている私は、とうとう現実逃避を始めてしまった。
「危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました。人間さんに拾って言っただけなければ、どうなっていたことやら」
喉を鳴らしながら頭を低く下げた。それだけで安物のベッドは軋みをあげる。
「でもまた、随分と大きくなったね……」
「おかげさまで徐々に魔力が戻ってきましたので、本来の姿に戻ることができました。この姿があれでしたら、人間の姿にもなれますよ」
突如としてフェンリルの全身が光に包まれると、犬型のシルエットが縦に伸び手足が生え、最期に頭の形ができあがる。
光の中から現れたのは、可愛らしい女の子だった。どんなもんだと言わんばかりに、人間の姿になっても残っている尻尾が激しく動いている。
「ははっ……」
その瞬間、ぷつりと緊張の糸が切れた。一度に色々な事が起こりすぎて頭が考えることをやめてしまった。身体に力が入らないと思った直後には、そのままベッドに倒れ込んでしまう。溜まっていた疲労もピークに達していた。
「だ、大丈夫ですか人間さん!?」
「……とにかく無事でよかった」
私はフェンリルのモフモフとした尻尾に埋もれながら、もう一度眠りについていく。
これやっぱり、夢じゃなかったみたいだ。
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