第3話 兆候

 ここ最近、メイフィは調子が悪いのだが、今日はいつもに増して調子が悪い。

 頭がボーっとする。

 感覚すら、遠くなっている気がする。

 こんな調子は初めてだ。

 女子である以上、逃れられない体調不良というものはあるのだが、それともまた違う。

 ここまで体調が悪いと、やる気すらも削がれてしまう。

 空腹とは、こんなにきついものなのだと、初めて知った。

 振り返れば自分は何と恵まれていたのだろう。

 これまで空腹を感じることはあったが、空腹でも何も食べられないという事はなかった。

 ああ、本当に、何もしたくない。

 はっと気が付くと寝ていたのか、ぼーっとしていたのか分からない時がある。

 そうなると当然失敗が多い。

 ヴェルムはいつの間にか出張に出かけたらしい。

 その出張は自分も行くはずだったのだが、置いて行かれたらしい。

 それにすら気づかなかったのは、さすがにもう仕事になっていない。

 仕事を放棄した、と言われても何の反論も出来ない。

 帰ってきたらまた、小言を言われるのだろう。

 まあ、それは仕方がない、全面的に私が悪いのだ。

 だが、この際だからもう言おう、限界だと。

 今の体調では仕事なんて出来ません、と。

 叱られるだろう、小言も言われるだろう、それも仕方がない。

 報告・連絡・相談をしろと、あの人が言ったことだ。

 「報告したのなら、後の責任は報告された上司にある」と言った以上、何とかしてくれるかも知れない。

 それはもちろん、仕事のことだけで、体調は自己管理だとは思う。

 だが、そんな事はどうでもいい。

 とにかく、何とかして欲しい。

 あの人なら何とかしてくれる、気がする。

 ああ見えて結構優しいのは分かってきたので、自分から切り出せば助けてくれる、だろう。

 全ての思考が希望的観測だが、そうでなければ、今の状況を一刻も早く誰かに助けて貰わなければ、どうしようもなくなっている。

 だから、メイフィの思考は全て短絡的になっている。

 本当に自分はどうなってしまったのだろう?

 ふと、気づいたら廊下を歩いていた。

 自分が何故、廊下を歩いているのかもよく分かっていない。

 どこに行くつもりなのだろう?

 この廊下は、諜報課ラクシルのそばだと思う。

 だけど、自分の歩いている方向は、窓口課カスタマーの方だ。

 つまり、窓口課カスタマーにいたはずの自分は、いつの間にか、諜報課ラクシルから窓口課カスタマーに向かう方向に歩いている。

 こんな馬鹿げたことがあるだろうか。

 これではただの徘徊者だ。

 諜報課ラクシル窓口課カスタマーの隣ではない。

 結構離れている。

 にもかかわらず、何も覚えていない。

 そう、何故ここに来たのかも、覚えていないのだ。

 諜報課ラクシルへの気がかりと言えば、なくはない。

 兵装課リュークスと同じく、諜報課ラクシルも実は自分にいい評価をしてくれていたのではないだろうか、という事を一度確認しに行きたいとは考えてはいた。

 だが、今行こう、などとは全く思ってはいない。

 無意識に行こうとしてしまったのだろうか?

 あれ? 今、何時だ?

 外がもう暗い。

 一体今まで、自分は何をしていたのだろう?

 諜報課ラクシルには行ったのだろうか?

 全く覚えていないし、とりあえず仕事中でもあるし、一旦窓口課カスタマーへ帰ってから──。

「どうした、まだ帰っていなかったのか?」

 背後からの声。

 声で、ヴェルムと分かっているが、振り返ってその姿を確認する。

 あれ? 確か出張に行っていたのでは?

 こんなに早く帰ってくるものだったのか?

 いや、本当に、早いのか?

「あ……えっと……」

 何を話していいか分からない。

 自分が何故ここにいるのか分からない上、何かを話そうにも言葉が出てこない。

諜報課ラクシル、リーナに用事か?」

 用事ではあるが、別に仕事中に抜け出していくほどの事でもない。

 それに、私の用件はこの人ヴェルムに知られると少し気まずい。

「あいつは有能だが用件に入るまでに時間がかかる。仕方がない、私も一緒に行こう」

 ヴェルムはメイフィの答えを待たず、諜報課ラクシルに入っていく。

 自分はどうしてここにいたのだろう?

 本当に、自分の評価を聞くためだけのためにいたのだろうか?

 別にそこまで人の評価を気にする人間だっただろうか?

「リーナ、用事だ。用件だけ聞け」

 ヴェルムがいつものように無遠慮に奥の衝立に話しかける。

『早かったね、もう行ってきたんだ』

「何のことだ。どうしてお前が私の出張を知っている?」

『次長さんじゃないよ、メイフィちゃんだよ。さっき呼びに行って戻ってくるまですぐだったから』

 私が?

 呼びに行った?

 誰を?

 いや、という事は、さっきまでここにいた?

 覚えていないし、何の記憶もない。

「何だ、私を呼びに行ったのか? それはちょうどよかった。お前は体調も良くないようだから。用だけ済ませて、今日は帰れ? これはさっきも言ったはずだ」

 いや、そんな事は聞いていない。

 この人は何を言っているのだろう?

「聞いて、いません……」

 聞いていないことは聞いてないと言うべきだ。

 上司にも勘違いはある。

「いや、確実に言ったが?」

 だがそれはあっさり否定された。

 聞いていないのに。

 いや、だが、それを強く主張できるほど、今の自分の知覚に自信はない。

「それで、私に何の用だったのだ?」

「…………」

 何の用だったのだろう?

「言わなければ、分からんぞ?」

「そう、言われても……」

金剛石ダイアモンドだよ』

 メイフィが口ごもっているので、リーナが助けを出した。

『メイフィちゃんが、さっき預かった金剛石ダイアモンドを持って来いと言われたって言ってたからさ。それは例えメイフィちゃんの頼みでも、渡せない、次長さんを連れて来てくれって言ったんだ。これはね、例え次長さんが文句を言っても、ボクの責任で預かってるものだから、返却は絶対本人にって決めてるんだ』

 金剛石ダイアモンド

 あれ? おかしい。

 何かがおかしい。

「うむ、まあ、リーナのセキュリティは理解しているし、今後もそうして欲しいと思っている」

 目の前で起きている事実は、自分の知る事実と、全く異なっている。

「だが、金剛石ダイアモンドを持ってこい、などと私は言っていない。メイフィはどうして持ってこようとしたのだ? 理由は?」

 メイフィを睨み、問い詰めるように訊いてくるヴェルム。

 いや、確かにそれが事実なら、自分が問い詰められても仕方がない。

 だけど、そんな事実はないし、いや、それよりも──。

「あの……金剛石ダイアモンドって、兵装課リュークスの金庫に預かってもらってるんじゃなかったんでしたっけ……?」

「…………?」

「私、昨日預けに行きましたよね? それがどうしてここに?」

 何を言っているんだ、というヴェルムの表情。

 自分は何か、おかしなことを言っているのだろうか?

 そのまま考え込むヴェルム。

『メイフィちゃん、それはちょっとおかしいよね?』

 答えてくれたのは、衝立の向こうだった。

『君は兵装課リュークス金剛石ダイアモンドがあると言った。うん、それがただの勘違いとか、聞き漏らしならよくある誤解だよ、ボクも次長さんに責めないであげてって言ってあげるよ。──だけどね?』

 リーナの言葉は穏やかで優しい。

 まるでメイフィを言い諭すような言い方で、けれども、鋭い。

『じゃあ君は、どうして諜報課ラクシル金剛石ダイアモンドを取りに来たんだい? それはもう勘違いじゃないよね?』

 穏やかな口調、だけれど、そこに発生した純然たる矛盾を、鋭く指摘している。

 それが事実なのであれば、別に諜報課課長リーナでなくても指摘するだろう。

 メイフィだってそうする。

 だけれども、そもそも、私は今、初めて諜報課ラクシル金剛石ダイアモンドがあると知ったのだ。

 初めて、聞いたのだ。

 そんな私が、金剛石ダイアモンドを取りに、諜報課ラクシルに来るわけがないだろう。

 何?

 何が起こっている?

 駄目だ、もう頭が回らない。

「そうか……やはりな……もっと早く気付くべきだった」

 ヴェルムがつぶやく。

「リーナ、邪魔したな、明日にでもまた話す。メイフィ、来い」

 そして強引にメイフィを連れ、部屋を出る。

 メイフィはふらつきながらも、引かれた手に従って歩き出した。

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