第4話 慟哭

 何も分からないまま、会議室に連れて来られたメイフィ。

 正直疲れた、もう帰りたい。

 いや、もう帰るのも億劫だ。

 ここで寝ていいのなら眠りたい。

 私の身体に価値がないと言ったこの人なら、私が目の前で寝ても何もしないだろう。

 本当に疲れているのだ。

 何の解決にもならなくていい、もう逃げ帰って眠りたい。

 帰って寝て、後の事は後で考えたい。

 身体も心も限界だ。

「これを食べろ。糖分の補給になる」

 ヴェルムに手渡されたのは、果実に粉をまぶして砂糖で固めたような菓子。

「アルラ領の名物らしい。土産として、課に配ろうと思っていた」

「課に? ヴェルムさんが?」

 疲れているメイフィですら聞き返す。

 ヴェルムは出張が多いが、一度も土産など買って来たことがないし、誰からもそれを期待されていない。

 そんなことをしてくれる人間などと、誰も思っていないからだ。

「……こうでもしないと、お前は栄養補給をしないだろうからな」

 ため息を吐くヴェルム。

「え?」

 つまり、メイフィの空腹、そして栄養不足に気づいていて、だが、それを指摘せず、みんなに土産を配ることで、メイフィにも糖分を摂らせようとしていた、ということか。

 おそらく、あれだ、その、合理的な理由があるのだろうが、今は頭が回らないので何も思いつかない。

 まあいい、食べてもいいと言われて我慢するほどの理性はとっくにない。

 それは口に入れると、とても甘かった。

 砂糖の強烈な甘さのせいでせっかくの柑橘のほのかな旨味のある甘みが損なわれている。

 買って食べるかと言われれば食べないと思う。

 だが、その甘味が、疲れた体内に染み込んでいくような気がする。

「落ち着いたか?」

 それで体力が回復したかと訊かれれば分からないとしか答えられないが、落ち着いたかと訊かれれば、それは間違いない。

「はい」

 微笑んで答えるメイフィ。

 ヴェルムがいつもより優しい気がする。

 食べ物エサを与えられただけで、好意を感じ、少しでも好意を持ってしまう自分を単純だな、と思う。

 だが、彼の次の言葉には、優しさを感じはしたが、それ以上に深刻さも感じた。

「──これはお前に何の落ち度もない。異変に気づいていながら、ただの空腹によるものだと勘違いしていた私のミスだ」

 この人は、何を言っているのだろう?

 ヴェルムは自分にミスがあればすぐに認める人ではある。

 だが、この人がミスなどすることはありえない。


「メイフィ、お前は傀儡諜報員パペットエージェントの呪い術式に感染している」


「は……い……?」

 この人は、何を言っているのだろう?

 何か、深刻なことを言っている気がするのだが。

 糖分を摂ったとはいえ、そんなに急に頭は働かないのだ。

 メイフィはただ、ヴェルムの言葉を、聴いているだけだった。

 その言葉は脳裏をすり抜けて、ただ流れ出ていった。

 あれ?

 この人は今、何と言った?

 確か、私に関する重要なことを言った気がするけれども。

 傀儡諜報員パペットエージェント

 それは、どこかで……。

「え……?」

 思い出した。

 それは、窓口課カスタマーに来て初めての仕事。

 初めて客前でキレてしまったこと。

 そして、レイナという女性にキレられて、何かを撃たれたこと。

「あ……あの時の!?」

「そうだ。奴らはこちらが保管している金剛石ダイアモンドをお前を使って盗み出す計画だったのだ」

 呆然と、ただ呆然とすることしか出来ない。

「おそらくあのレイナという女もあれは演技だ。『何かしでかしかねない』女を装ってあの場にいたのだ。お前がキレなくても何か難癖をつけてキレるよう、命じられていたのだろう」

 メイフィを使って金剛石ダイアモンドを盗む。

 自分が誰かに操られている?

 いや、そんなことは……ない……わけでは、ない。

 操られているという記憶はない。

 だが、記憶もない。

 自分に記憶がない時に、自分が勝手に動いていた、という事実だけがある。

 私が、操られている。

 遠くから、誰かも分からない奴に──!

「……っ!」

 ぞくり、と背筋が冷たくなる。

 誰か分からない。

 男かも知れない。

 盗賊時代のあいつみたいに、いやらしい奴かも知れない。

 恐怖。

 利用されたという事実は、一瞬で恐怖という感情に昇華する。

 憤りなど、全く感じない。

 ただ、とにかく恐ろしい。

 自分がどうなるかも、分からない。

 これは現在進行中の出来事だ。

 用済みの者は、どうすると言っていた?

 放置すれば、どうなると言っていた?

「私は……どうなりますか?」

 その答えは知っている。

 だが、この気怠げな身体が、心が、あれは自分の聞き間違えだったのではないか、と訴えて来る。

 ああ、もしかするとそうかも知れない、そんな気がして来た。

 だから、他人の口から聞きたい。

 嘘なんて言わないこの人から聞きたい。

「……あの専務によれば、自律出来なくなる、と」

「…………!」

 確かに、そう言っていた。

 何しろ、それを聞いていたのだ。

 それでキレたのだ。

 間違えるわけがないではないか。

 何を期待していたのだ。

 そうか……。

 ここ最近妙に感覚が遠いのは、空腹のせいではなかったのだ。

 徐々に、失われていっているのだ。

 自律が、私を私足らしめている自我が。

 考えたくはない。

 だが、それは考えなければならない。

 あの専務は、感染した人間の末路はどうなると言っていた?

 自分では動けなくなり、操作し続けなければならなくなる。

 その前に自殺させることをお勧めする。

「────」

 これ以上は、考えることを停止してしまう。

 これは自分で習得した精神調整法。

 「嫌なことを思い出す前に考えるのを止める」ことで狂わずに、泣き叫ばずに済む。

 家族の事を考えると、こみ上げてくる感情から精神を護ることに、これは役立った。

 それをまた、こんなにすぐに使うことになろうとは思わなかった。

 考えたくはない、考えると泣き叫んでしまいそうだ。

 いつもなら即決して、行動を開始する目の前のヴェルムも、何も言わない。

 自分はどうすればいいか、教えてくれない。

 つまり、つまりだ──。

 つまり、私はもう、助からない。

 どうしようも、ない。

 ──やめろ、考えるな。

 私は、近い将来、自分では動けずに、また考えることも出来なくなる

 ──考えるな! それ以上は何も考えるな!

 動けない、考えない、肉の塊になってしまう。

「あ……あ……」

 せっかく、生きようと思ったのに。

 家族が殺された後、何度もあの親分かその娘を殺して、そのまま殺されようかと思ったけれど、やっぱり生きようと誓ったのに。

 やっと、やっと最近、その呪縛から逃れるようになってきたのに。

「ああ……あぁぁぁ……」

 こんなところで、こんな風に、人として生きることを放棄するしかないのだろうか。

 これではまた家族と同じ、他人に利用されて殺されるだけの犬死ではないか。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

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