第三章 感染

第1話 信じられない

 何もかもを失うという事は、悲劇であるとともに、大抵の物語では始まりを意味する。

 つまるところ、誰かの悲劇は他人のエンターテイメント足りえる。

 その悲劇の中心たる主人公に同調し、感覚を共にすることで、自分もその悲劇を味わうのだ。

 そして、主人公とともに奮起して失ったものを取り戻したり、新たな、失ったもの以上の何かを掴んだりすることで、カタルシスを得るのだ。

 物語とは、初めからそのように筋書きを作られている。

 だから人は思うのだ。

 「今は苦しくてもいつかは報われるのだ」と。


 そして、そして誰もが気付かないふりをしているのだ。

 「それは物語だけの話である」という事を。


          ■


 最近、非常に疲れるのが早い。

 朝起きるのも一苦労だ。

 元々メイフィは朝が強い方ではないが、最近はそれが更にひどい。

 そして、仕事をしていても、つい、ぼーっとしてしまう。

 理由は分かっている、まともな食事が出来なくなりつつあるからだ。

 あれから寮について訊いて回って、入寮の手続きまではすぐに出来たのだが、入寮は月単位で行われるため、特別な事情でもない限り、月の途中では入寮出来ないことになっているらしい。

 特別な事情に「入社」というのがあったので、私は入社したばかりです、と主張はしたのだが、入社既に四週間経っていれば、入社直後とは認められないようだ。

 その基準がよく分からない。

 その規則に順守する姿勢は、まるでヴェルム次長のようだ、などと心の中で思った。

 メイフィは窓口課カスタマーに来てからは、ずっとヴェルムに付いていたが、彼は本当にいかなる時も隙がなく、また、行動にブレもない。

 まるでそうしろと命じられたゴーレムのように、ただルール通りに仕事をするだけだ。

 冗談の一つもない。

 たとえ客先で怒鳴られようとも、怒ることもなければ落ち込むこともない。

 ただ、いつも平坦な感情で、淡々と喋るだけだ。

 だから、そんな彼に泣きつくことも躊躇われる。

 これがシャムレナやリーナなら、食費がないと泣きついたら、おごってくれたり、寮に掛け合って早期に入寮できるよう話を通してくれたり、給料の前借を融通してもらえるよう話してくれるなど、何かしてくれることが期待できるのだが、彼にそんなことを期待するのは無駄な気がする。

 おそらく「給料日が前から分かっているのに、何故計画通り消費をしなかったのだ?」などと言われる気がする。

 あくまで、「気がする」なのだが、それは多分、間違っていない。

 別に彼女だって贅沢をしたわけではない、普通に使っていたら、思ったよりもお金がかかっただけだ。

 だが、他の誰でもなく彼には理解してもらえなそうだと思う。

 何しろ彼はおそらく完全に計画通りにしか、お金を使わなそうなのだから。

 窓口課カスタマーの仕事は、兵装課リュークス諜報課ラクシルに比べるとかなり楽だ。

 ただ、ヴェルム次長の後について行けばいいだけだ。

 初日には思わず感情を露にしてしまったが、それ以降は特にそんなこともなく。

 とりあえず後ろで笑っていて、話を聞いて勉強していればいいのだなと理解した。

 帰り道に分からなかったところを訊くと、即答してくれるので、これで正しいのだろう。

 ただ、最近は頭の回転も遅くなっており、話の内容すら覚えていないこともある。

 それでも、私生活に関してまで小言を言われるのを避けたいと思い、なるべく空腹であることを隠して元気にふるまっている。

 ただ、窓口課カスタマーは体力がそこまで減るわけではないのだが、頭はとてつもなく消費するので、困りごともある。

 イルキラ魔兵商会の融資はあの後すぐに認められ、契約の調印と、担保の受け取りのために再び出向いたときも、道中眠ってしまった。

 到着時にヴェルムに起こして貰ったが「今は仕事中だ。睡眠は仕事外で取れ」と注意された。

 それだけで小言もなく、帰りにはこの前と同じ食堂に連れて行ってくれた。

 もしかすると優しい人なのかもな、と油断してしまった。

 その帰りには満腹感でやはり熟睡してしまい、帰ったら長々と説教をされた。

 これはもう全面的に自分が悪いと認めざるを得ない。

 「一度目は許す。だが、同じ注意を二度もさせるな」というのは、本当、分かるから何も言い返せない。

 知らないのは上司が悪いから指導する。

 知っているなら部下が悪いから叱る。

 当然の事だ、何のいいわけも出来ない。

 ともあれ、食事をさせてくれたので、これで後数日、もうミルクしか残っていないが、何とか生きて行けそうだ。

「預かった宝石は兵装課リュークスの金庫に預かって貰いたい。任せてもいいか?」

 そう言って宝石用ジュエル手提金庫セーフティーボックスを手渡す

「あ、はい。でも何で兵装課リュークスなんですか? 窓口課カスタマーにも金庫ありますよね?」

 どうしてメイフィに頼むのかは分かっている。

 彼は兵装課リュークス課長のシャムレナが苦手なのだ。

 だが、そうまでして苦手な兵装課リュークスの金庫に置いてもらう必要があるのだろうか?

 置いてもらう以上、取りにも行かなくてはならない。

 だとしたら、自分たちで自由自在に開閉できる窓口課カスタマーの金庫に置いた方がいいだろう。

窓口課カスタマーの金庫なら、私でもお前でも開け方を知っている。となれば、もし私、もしくはお前が裏切れば盗まれてしまう。今回の案件は巨大だ。だから、手提金庫セーフティーボックスの鍵は我々で管理したまま、事情を知らない第三者に預かってもらった方がいいだろう」

「はあ……分かりました」

 言っている意味を理解しないまま、メイフィは兵装課リュークスに金庫を持って行く。

 だが、歩いている途中に、ヴェルムの言った意味に気づいてしまった。

 遠回しにではあるが、つまり「お前が盗むかもしれないだろ?」という事だ。

 「金庫の開け方は私でも知っている」などと自分も含めてはいるが、自分で盗むことを想定するはずがない。

 という事はメイフィが盗む可能性があるから、兵装課リュークスに預けよう、と言いたいのだ。

 だったら金庫の開け方を教えるな、と言いたい。

 窓口課カスタマーに入って一週間程度で金庫の位置も開け方も教えてくれたから、信用されていると思っていた。

 ちなみに兵装課リュークス諜報課ラクシルの金庫は場所すら知らない。

 だから、上司は多少苦手だし、仕事はそれほど楽しくはないが、もう窓口課カスタマーで行こう、と思ったものだ。

 まあ、あれで悪い人ではないし。

 聞けば答えてくれるし、悪い部分は指摘してくれる。

 一緒にいて楽しくはないけれど、少なくとも大切にされていないとも思えない。

 そう、思っていたのだ。

 それが一転して、信用されていないと宣言されたようなものだ。

 腹も立つ。

 しかも使い走りにされている。

 このまま行かずに、断られたと言って戻ってやろうか?

 いや、そうなるとまた自分の数少ない利用価値がなくなり、そのうち解雇されるかも知れない。

 悔しいが頼みに行くしかない。

 まあ、兵装課リュークスは二週間いたことのある部署だから、前に一人、乗り込んだ時とは違い、別に行くのに抵抗はない。

 まあ、ただ、シャムレナに失格の烙印を押された後などで、なるべくならしばらく会いたくはなかったのだが。

「失礼します」

「おう、メイフィじゃねえか! よく来たな? やっぱりここにまた赴任されてきたのか?」

 メイフィの姿を認めるグレーの髪に褐色長身の軍服。

 シャムレナは勢いよく立ち上がり、嬉しそうに寄ってきた。

「こ、こんにちは、お久しぶりです」

 その勢いにメイフィは、多少怯えてしまう。

 あ、そう言えばこの人は──。

「久しぶり! んーーっ!」

「んぁっ!」

 勢いよく抱きしめられ、思い切りキスをされる。

 これだけは慣れようがない。

 メイフィのファーストキスは彼女に奪われ、それから何度も奪われているのだが、それでもやはり慣れることはない。

 一度は身を捨てる覚悟をした自分の貞操やらファーストキスがどうとか、そんな乙女チックな感情はもはやないのだが、なんというか逆なのだ。

 何の嫌悪感もなく、どちらかというと気持ちよくなってしまう。

 なんだかそれを拒否したいものの、受け入れたいと思っているこの自分の気持ちが嫌なので、出来る限り避けたい。

「で、どうした? 本当にあの野郎がうちの課に回してくれたのか?」

「いえっ! そうじゃなくって! その……お願いに、来たんです!」

 喜ばれているところを本当に申し訳ないが、自分は別に配属されたわけではない。

 いや、それよりも配属をこんなに喜んでくれるのは、話が違うのではないだろうか?

「お願い? 何のだよ?」

「その……これを、兵装課リュークスの金庫に預かってもらえませんか?」

 メイフィは持ってきた手提金庫セーフティーボックスを持ち上げる。

「何だよこれ?」

 シャムレナはそれをひょい、と摘み上げて、振ってみたりする。

「今日、お客さんから預かった、金剛石ダイアモンドです。次長が兵装課リュークスに預かってもらえと」

「はあ? なんでだよ?」

 その名前を出せば不機嫌になることは分かっていた。

 だが、言わなければ説明のしようもなかった。

「この手提金庫セーフティーボックスの開け方は窓口課カスタマーが知っています。その上で窓口課カスタマー以外の金庫に預かってもらうことで、万全の守りの体制にしたいのではないかと。あくまで私の推測ですけど」

「ふーん。あの野郎の考えてることが分かるようになったのか?」

「いえ、正直何考えているのかさっぱり分かりません。ですが、聞けば教えてくれるので、いつも聞いています」

 シャムレナが不愉快になると分かっているが、訊かれたことは正直に答えよう。

 彼女はしょっちゅうキレるが、理不尽に暴力を振るう人間ではないことは知っている。

「まあいいや、追い返すとメイフィが役立たずってことになるんだろ? それは預かってやる」

「ありがとうございます!」

「それはそうと、だ……」

 シャムレナはメイフィに身体を寄せて来て、メイフィはキスを警戒する。

「お前の希望はもちろん、うちの課だよな?」

「え? あれ?」

 親しげに、それこそ、はいと言った瞬間にキスする勢いで身を寄せて来るシャムレナに、自分との認識の齟齬を見つけ、身を反らしつつも疑問を呈してみる。

「私、兵装課リュークスには無理だと言われたと聞いたんですけど」

「は? そんなこと一言も言ってねえよ! 絶対にうちに寄こせって言ったはずだぞ?」

 キレるシャムレナ。

 彼女が嘘を言っているようには見えない。

 むしろ、嘘なんて吐けそうにない人だ。

 だとすると──。

「あの野郎、人の言葉を曲解して伝えたがったな?」

「ああ、そうかも知れませんね。よく考えたら『失格だ』とは一言も言ってません。『腕力がないから即戦力にはならない』とだけ言われました」

「確かに言ったな? だが、それは言葉の一部分だけを切り取っただけだ! いいか? 私はメイフィに来て欲しい! それだけ覚えておいてくれ。あんなくそ野郎の事なんか信用するな!」

 半ばキレ気味に真正面で言われると、その怒りがこちらにも伝わって来る。

「分かりました。もう信用しません!」

 最近になってやっといい人かな、と思い始めたが、やはり駄目だ。

 あの上司あいつは信用出来ない。

 自分は出来る限り奴から離れたい!

「じゃ、これは預かっておくからよ。いいな? きっと戻って来いよ?」

「分かりました。では」

 メイフィは別れの挨拶をして、兵装課リュークスの部屋を後にした。

 とりあえず、大きく息を吸い込んでみる。

 一呼吸をして落ち着いて考えれば、まあ、あのヴェルム次長なら、どうせ自分が次の部署で手を抜かないように誉め言葉をカットしたのだろう。

 あの人ならやりそうだ。

 そのおかげで諜報課ラクシルでも頑張ったし、窓口課カスタマーでも頑張っている。

 結果的にいい効果を上げることが出来た。

 それは自分にとっても嬉しいことだ。

 理解している。

 それは、十分理解しているし、そういう人だと分かっている。

 なのに、どうして自分はこんなに腹を立てているのだろうか?

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