第16話
「あなたのような美しい人を待っていました」
彼は言いました。
その声は良く響く低くて甘い声で、私の胸はきゅんとなりました。
「私もあなたに出会えるのを待っていたような気がします」
自然とそんな言葉がついて出ました。
両腕を回しても届かないほど彼の幹は太く逞しく、抱きしめているのに、抱きしめられているような感覚になりました。
耳を当てるとキャラキャラと樹液の流れる音がします。
見上げると深い緑を揺らして彼が微笑んでいます。
ああ、ずっと彼のそばにいたい。
出会った瞬間から私は彼のそばから離れられなくなりました。
そして幸せなのに同時に不幸でもありました。
嬉しいのに同時に哀しいのです。
もしかしてこれが切ないという気持ちなのでしょうか?
これが恋というものなのでしょうか?
そうであるならば、これが私の初恋でした。
私が初めて恋した相手は人ではありませんでした。
私はここに住みたいと思いました。
古い家と広い敷地の持ち主は思ったより早く見つかりました。
都内の一等地に暮らすその人はただ同然で家と土地を私に貸してくれました。
親の反対を押し切り私は仕事を辞め、都心から離れた山の麓に引っ越しました。
贅沢さえしなければしばらくの間暮らしていける貯金はありました。
贅沢といっても何もないこの田舎では贅沢のしようがありませんが。
生活に必要なものはバスに乗って30分ほど揺られたところにあるスーパーで済ませました。
私は毎日彼のそばで過ごしました。
敷地に生えていた雑草はそのままにしておいたら白い小さな花を咲かせました。
一面白い花畑のようになり、花たちは何が可笑しいのかいつもクスクス笑っています。
心地よい音楽のようでした。
私も一緒に転げ回って笑いました。
朝は好きな時間に起き、1日中彼のそばでおしゃべりをしたり歌ったり踊ったりして過ごしました。
彼は私が踊るのを見るのが好きでした。
そして日が落ち眠くなったら寝ました。
ここには絶対的存在がありませんでした。
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