そして――

 鐘が店内に響いた。喫茶『ルプス』の敷居を跨いだ者がいることを告げる鐘だ。

 現在の時刻は午後四時半。午後のティータイムが過ぎ、暇を持て余していた喫茶店のマスター日下部聖士は読んでいた夕刊から顔をあげた。

「よぉ、調子はどうだ? その様子じゃ散々だったみたいだが」

 完全に凝り固まっていた筋肉をほぐす為、両手を挙げて伸びをする。首を一回してからカウンターに立った。

「……バカみたいに疲れた。身体中が筋肉痛で死ぬほど苦痛だよ」

 学生鞄をドサっとカウンターに置く。脚の長い椅子を引いて腰掛けた織笠悠は、カウンターにそのまま突っ伏した。

 今の彼は右腕をギブスでガチガチに固定して肩から布で吊っている。

「はぁ……また根も葉もない噂が広まるんだろうな……」

「それはご愁傷様だな。これまでの振る舞いのツケを払ってると思えよ」

 顔を上げないまま唸っている悠の傍に、聖士はそっと淹れたてのコーヒーを置いた。


『ガーデン』から帰還して早くも一週間が経った。

 未だにあの時の傷は癒えてはいない。

 悠が世界間の移動時にかかる負荷により意識を失った直後、首以外が満足に動かない状態で気が付いたらベッドの上だった。

 消毒液の落ち着く匂いと、規則正しくリズムを打つ心電図。首を左に傾けると、隣のベッドには包帯でグルグルになっている稍夜がいた。『ガーデン』では高熱と火傷でかなり苦しそうだったが、今は穏やかな表情で寝息を立てている。

「半日でお目覚めとはね。おはよう、織笠くん」

 声に、悠は首を百八十度回転させる。

 デジャブか、始業式の保健室の時と同じようにベッド脇でエリカがパイプ椅子に腰を掛けていた。読んでいた文庫に栞を挟み、備え付けられているナースコールを押す。

「ここは……」

「ルプスの診療所よ」

 安堵からか、悠は目を閉じ一度大きく深呼吸をした。

「帰って、きたのか……そうだ、『ラグナロク』は……」

「君たちが世界の繋がりを断ってくれたお陰で、命令を受けていた『ラグナロク』は機能停止。あと少し遅かったら私もシオリも殺され、皆殺しにされていたかもね」

 上品に笑うエリカだが、笑えない冗談だった。

「そうか……終わったんだな」

「ええ、とりあえずは。基地の被害はかなり甚大だけど、今回の一件でこちらの人的損害は無かったわ。ありがとう、織笠くん。君には貸しができたわね」

 その後、診療所に飛び込んできた褐色の女性、シオリから一通りの検査を受けた。

 軽度の裂傷や打撲はシオリの治療により完治していたが、右腕はかなりの重症らしく全く動かない。腕の骨が粉々に砕け、筋肉もズタズタ。普通の治療では直せない状態だったらしく、原形を保っていただけ奇跡とのことだった。

 キョウヘイという『発現者』と相まみえ、右腕だけで済んだのは寧ろ幸運だったのかもしれない。

 そうして、疲労困憊な体はどういうわけかまったく動かずに一週間の間寝たきり生活を強いられたのだった。

 今朝になってようやく動けるようになり家に帰ったものの、一週間も音信不通で戻ってきたと思ったらボロボロな悠の姿に妹の亜紀と幼馴染の瑩はブチ切れて泣きじゃくる始末。二人に付き添われる形で登校してみれば、初めましてのクラスでは注目の的だった。始業式から一週間経って初登校したのにその姿なのだから当然だ。

 しかし、どうやらエリカの力で「織笠悠は交通事故にあった」ということになっていたらしい。クラスメイトは、悠にビクビクしながらも何かと親切にしてくれた。

 ――というわけで、一日中他人の優しさに触れ過ぎた悠の精神はこうして摩耗してしまったのだ。

 重たい頭をカウンターから上げ、左手でカップを取りコーヒーを一口。

「……で? んな疲れ切った体でわざわざウチに来たってことは、アイツになにか用なのか?」

 何かを察している聖士は、再び夕刊に目を落としながら尋ねた。

「乃瀬の奴、今日は登校してなかったからこっちにいるんじゃないかと思って」

「俺はあいつの御守り番じゃないぜ、いちいちエリカがどこにいるかまでは知らねぇよ」

 夕日の差し込む店内はコーヒーの香りと、優しいクラシックが流れている。悠も聖士も、それ以上何も語ることはなく、しばらくはゆったりとした時間だけが流れていった。

「日下部さん、あんたは何で戦ってるのかって考えたことってあるか?」

 と、沈黙を破ったのは悠だった。

 少し離れたところで夕刊を読んでいた聖士は顔を上げることなく短く唸ると、

「何でか、か。そりゃ戦わなければ俺たちは死んでいたからだろうな」

 淡々と、そう告げた。

「10年前の『屍送り』が無ければ、俺たちは今も皆それぞれがヒッソリと表舞台には立たずに生きていただろうよ」

 聖士は読んでいた夕刊を畳むと、年寄臭くゆっくりと腰を上げた。

「『ガーデン』に身内を奪われなかった奴はいない。俺も、エリカもな。だから、これまで必死こいて抵抗してきた。だが、それもお前たちのお陰でそれも報われたよ」

「それじゃあ、これからあんたらはどうするんだ?」

 二つの世界を繋いでいた存在がなくなり、戦う目的は無くなった。それならば、このような反組織を動かすこともないだろう。

「いくら『ゲート』がなくなったからと言っても、『ガーデン』の脅威が完全に無くなったわけじゃねぇよ。これまで通りさ、俺たちは俺たちが生きていく為、この世界の為にも抗い続けるだけだ」

 それだけ言うと、聖士は店の奥。『ルプス』の基地へと続く従業員通路へと向かいながら指を弾いた。

「その一杯はサービスな。普通の来客はないようにしといたから好きなだけ話していいぜ」

 喫茶店のマスターは手をヒラヒラさせながら、店を後にした。

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