記憶(ⅱ)
彼の足元に、中年の女性『だった』モノが血を流して倒れている。それも一人ではない。数名の施設職員が体を裂かれ絶命していたのだ。
「……」
あまりの恐怖に思わず声を上げそうになる。だが、彼の脳裏に浮かんだのは一つだけ。
「――、?」
彼女の名を口にする。
何があったのかわからないが、震える足で地獄と化した施設に入っていく。人の死体が転がっている方向へ、足音を殺して進んだ。
一階には施設職員の死体が三つと、エレベーターホールでバラバラになっていた警備員の服を着ているモノがあった。その背後にあるエレベーターは四階で止まっている。
一呼吸するだけで肺が血の匂いで満たされるようだ。
「ッぅ」
胃から込み上げてくる物を涙目になりながら堪える。
バラバラの肉片から目を反らし、二階へと続く階段へと歩を進めた。
二階の四号室。そこが、彼女の個室だ。
階段の段差を一歩一歩、10秒以上かけて登っていく。というよりも、それ以上速く動けなかった。革靴が床を叩く音すら立てるのが憚られる。
二階の踊り場に着き見えてきた光景は、一階よりも凄惨なものだった。
入口近くの大人たちはまだ形をとどめていた。だが二階の廊下には肉の塊や、散乱して壁や天井にまで撒き散らされた臓物や血肉。そうなってしまう前の原型をとどめているものを探す方が難しいほど。
まさに地獄だ。
「……」
あらゆる感情が彼の中から消失していた。今はただ、半開きになった四号室の戸しか映っていない。
一歩進む度に、体温が下がる。呼吸が乱れる。
嘘であってくれ、という儚い希望が霧散していく。
血で濡れている四号室の戸をゆっくりと引いた。
戸から中に入ってまず最初に見えたのは、正面に見える短い廊下。玄関の靴入れの上に置かれた観葉植物は倒れ、靴は散らかっていた。
土足のまま、麻痺した理性を働かせて廊下を進み部屋に続く戸を押し開ける。
ワンルームの室内は荒れていたが、外のような地獄ではない。
クローゼットは開かれ、物は部屋に散乱していた。小型のちゃぶ台の上には、高校数学の教科書とノートが置かれている。
「嘘だろ……」
そこに彼女の姿はなかった。ある意味で安心したと同時に、彼女の安否がわからないことによる恐怖は更にましていく。
「――ゆう、くん?」
一切の音が死んでいた部屋で初めて耳にした音。
それはベッドの下から聴こえた。
「……ヤ、ヤ ? 稍夜!」
ベッドメイクがされているマットレスを持ち上げると、空洞になった収納スペースにスマホを握りしめ、小さくなって震えている彼女の姿があった。涙で目は紅くなり、ハイネックの白いシャツと黒い短パンは血で赤黒くなっている。
「悠くん……悠くん……!」
少女は嗚咽を漏らして彼の胸に飛び込んできた。長く綺麗な黒髪は血で固まり、瞳は絶望に染まっていた。
「――っ稍夜、お前血が! 怪我は!」
少女が無事だったことに安堵し、彼女を力強く抱きしめた。
「う、だ、大丈夫。これは私を庇ってくれた喜多川さんの……」
喜多川さん、とは警備員のおじさんのことだ。思い出したのか、彼女は胸を押さえながら小さくえずいた。
「いったい、何があったんだ。こんなの、こんなことって」
少女の背を優しく摩りながら、震える手を優しく握りしめた。
「……わからない、の。とつぜん停電したと思ったら悲鳴が聞こえて……一階に様子を見に行ったら先生たちが、黒い男に――殺されていって。逃げようとした子も、同じ、よう、に――」
過呼吸になる少女を落ち着かせながら、抱きしめる力を緩め、そっと抱きしめた。
「みんなに、逃げて! って言う間もなくみんな……わたし、怖くなって一人隠れて……うぅ、ごめんなさい。ごめんなさい」
自分だけ逃げてしまった罪悪感に苛まれている小さな背中を摩る。
「稍夜は何も悪くないだろ。悪くない」
悪いのはこの惨事を引き起こした者だ。
こんなことがあっていいはずがない。なんの罪もない者を虐殺していい理由などどこにあるというのか。
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