灰色の魔女(ⅱ)

 二人の視線が交わったのが合図だったかのように、瑩が先に動いた。倒れそうになるほどの前傾姿勢になりながら、右足で地面を力強く蹴る。

「ッ!」

 とてつもない瞬発力で、両者の間にあった20メートル程の距離が一気に縮まる。悠が動こうとする間も無く、瑩は彼の懐に入り込んでナイフを持った右手を突き出した。

「クソ!!」

 混乱する悠の思考とは対照的に、殺意を浴びた悠の身体は本能で動いていた。突き出された彼女の腕を綺麗に払い除ける。だが、タイミングが少し遅かったのか、鋭く尖ったナイフの刃先が悠の右頬を薄く切り裂いていった。咄嗟にナイフの軌道をずらせていなければ、悠の首には風穴が空いていただろう。

 鋭い痛みが夢ではないことを証明する。紛れもない現実だ。

「え!?」

 悠は、自分でも何故今の不意打ちに対処できたのか理解できていなかった。

 中学まで柔術を嗜み、千鶴に巻き込まれて荒事に慣れている。とはいえ、今の動きは自分の意識に反して体が勝手に反応したように感じた。

 しかし、悠長に状況を考えている暇など瑩は与えてくれない。容赦の無い斬撃の嵐が悠に再度降りかかる。連続して振られるナイフはどれもが急所を的確に狙ってきていた。軌道を目で追えないほどの連撃を、悠は紙一重で躱し続けていく。

 そんな当の本人は無理に動き続けて心臓が破裂しそうだった。早鐘を鳴らし続ける心臓と悲鳴を上げる頭痛で悠は顔を歪ませている。

「くッそ!! 万年体力測定底辺の瑩ができる、動きじゃないだろ!」

 なぜ避け続けられるのか。悠には理解不能だった。頭で考えるよりも先に体が勝手に危機を察知し動いているとしか思えない。急に身体能力が向上したわけもなく、体が動きに付いてこられていないのは明白だった。呼吸は無理な動きで荒れに荒れている。一息するのさえやっとの始末だ。

 酸欠になりかける悠に瑩は呼吸する暇などは与えてくれない。彼女は精密機械のようにただただナイフを振るい続けた。

「瑩! おい! どうしたんだよ! やめろッ!」

 酸素の足りない頭でクラクラになりながらも叫び続ける間、悠は何が起こっているのか考える。しかし、答えなど出るはずもない。ただ一つ言えるのは、瑩の姿をした者が悠を殺そうとしてくることだけだ。幼なじみが自分を殺そうとしてくるという悪夢が悠をジリジリと追い詰めていく。

 何度もナイフを受け流した際、交差した瑩が素早くナイフを逆手に持ち直し突き刺してきた。止まない頭の痛みと呼吸の乱れからか、最初は難なく避けられていた斬撃への反応が一瞬遅れてしまった。

「――やばッ!」

 刃先が届く寸前、悠は機械を纏った瑩の右腕を受け止めた。しかし、女子高生とは思えない力に押し負け、そのままの勢いで組み伏せられてしまう。衝撃で太い刃先が彼の左胸に浅く突き刺さった。

「ッッ! くっそ!!」

 考えるより先に勝手に動いてくれていた体は最早限界に達している。

 瑩の腕を折りそうなほどの力で対抗する。が、お構いなしに瑩はナイフを押し込もうとしていた。女の子の細い腕からはとても想像がつかない力だ。

 瑩は空いていた左手もナイフに沿え、両腕でナイフの柄にいっそう力を込めていく。刃が悠の肉をゆっくりと抉っていった。

「あ! 塋! 正気に、戻れっての!」

 生気のない彼女の紅い目が悠の恐怖心を一層募らせる。

「抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺、抹殺」

 マスクの奥から吐かれ続ける言葉はまるで呪い。『コレ』は、もはや彼の知っている華園瑩ではない。親しい人間と同じ姿をした化物だ。

「くっ、そ!!」

 一瞬でも力を抜けば殺される。そんな極限の状況で、


“コツン”


 路地裏に一つの軽い足音が響いた。

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