灰色の魔女(ⅰ)
――あまりのリアルな痛みに、織笠悠の意識は覚醒した。
息は止まり、呼吸ができない。
「――――ッげほ、げほ!」
頭痛と眩暈、全身からは嫌な汗が吹き出している。無意識に左手は胸を押さえていた。
今朝見た夢とまったく同じ。紅い月に、見たこともないはずの廃墟。そして、黒髪の少女に殺されるという悪夢。
「ま、またか……」
リアルだった。本当に自分が体験した出来事のように、はっきりとした夢だった。まるで、記憶。
靴底に砂利道の感触。頬に感じる風の冷たさ。ピリピリと緊張した空気感。刺された胸の痛み。
どれもが、本物に思えるほどだ。
「……なんで、こんなところにいるんだ?」
紅くもない、白く輝く月下。夜闇の支配する路地裏に悠は制服のまま立っていた。駅前の雑居ビルの隙間を縫うようにして続く景色には見覚えがある。奏風駅前の繁華街からそう離れていない場所だろう。だが、駅前の賑わいとはほど遠い。開いている店や人の通りはいっさいなかった。
いつからこんな所に立っていたのか、悠にはまったく覚えがなかった。最後の記憶は、疲れ果てて夕食後にそのままベッドに倒れた所まで。眠った記憶は無かったが、出歩いた覚えもない。これではまるで夢遊病である。
路地裏は月明かりが辛うじて入り込む程度で街灯もない。真夜中にこんな気味悪い道など誰も通らないだろう。
いつまでも頭に残っている悪夢を払い除けるように頭を振ると、悠は路地裏の闇に背を向け回れ右をした。
――その時だ。
何かの気配を背中に感じた。瞬時に研ぎ澄まされていく神経、毛穴が開き産毛が逆立った。
誰かに見られている。不快な視線。全身へと悪寒が走る。それは昼間、路地裏で一瞬だけ感じた気配と同じだった。
気配がするのは路地裏の闇の先。何者も近づけさせないような、悪夢を思い起こさせるほどのプレッシャー。
「……誰か、いるのか?」
思わず振り返り、路地裏の方へ向き直った。車一台が通れる程の道の先は異様な雰囲気を放っている。
月明りさえ入らない闇の先に目を凝らすが何も見えない。それでも何かの気配だけが前方にあるのは確実。
「――……抹殺対象……捕捉」
闇の中から、声が、した。
ゆっくりと浮かび上がってくる人の形をした影。それを捉えた瞬間、悠の身体は奥底から震え始めた。彼の本能が、目の前に居る存在に恐怖しているのだ。
「あ……瑩?」
だが、暗さに慣れてきた悠の目が捉えたのはよく知る存在。幼馴染の華園瑩だった。俯き気味で顔はしっかりと確認できないが、間違いなく彼女である。
気配の正体が瑩だと解った途端、力んで握りしめていた悠の拳から力が抜けていった。力み過ぎていたのか、爪が皮膚に食い込み出血している。
しかし、未だに恐怖心が拭えず足が固まって動けない。
「――瑩、お前」
――何故、こんな夜中にこんな辛気臭い場所にいる?
――隠しきれない禍々しいその殺気は?
「――」
喉まで出掛かり飲み込んでしまった悠の言葉に、瑩からの返答は無い。彼女は顔を若干俯せたまま、ゆっくりと近づいてくる。
路地裏に反響する足音。一歩進むごとに、厚底のブーツが地面を踏みしめる。
そして、悠は気が付いた。気が付いてしまった。
彼女が身に纏っている黒いマントの下は、見覚えのない黒いセーラー服。中学高校と制服はブレザーなのでその制服は見たこともない。それだけではない。彼女の細い腕や脚は仰々しい装置で覆われ、口元にはガスマスクのようなものをつけているのだ。
「なんだ、その格好……」
幼馴染の異常な姿を完全に捉えた途端、
「――ツっ!」
不鮮明な映像が、一瞬だけ目に走った。
今見ている光景とは別物の、ノイズだけが脳内で断片的に再生される。
「頭、が、ッ!」
しつこいまでの頭痛が悠を襲った。これまでの痛みの比ではない、今にも頭が爆発しそうな激痛だ。
悪夢で見た『死』と同等の苦痛に、立っていられなくなる。
近づいてくる瑩は、ゆっくりと右手を持ち上げた。その手には、夢で見た黒髪の少女が持っていたような大型のナイフが握られている。
傷の無い胸が痛んだ。
「――」
瑩は明らかな殺意を持っている。
震えが悠の全身を駆け巡った。傷一つない自分の胸を手で押さえ、その間にもどんどんと瑩は近づいてきている。
「――俺は、とうとうおかしくなっちまったのか?」
乾いた笑いが悠の口から漏れた。一度に起こった出来事を脳が上手く処理しきれない。許容量を越えた脳が現実を拒否したがる。
瑩が近づいてくる程に、頭痛が引っ切り無しに催てきた。頭の中に響くノイズ音に気持ち悪さが一層酷くなるばかりだ。
俯いたままだった瑩が、ゆっくりと顔を上げた。
瑩の瞳は赤く発光し、いつもの眼鏡もかけていない。まるで別人。顔面は青白く、一切の生気を感じない。それでも、彼女は間違いなく、華園瑩の姿をしていた。
「瑩……いや……お前は、誰だ?」
いつも明るく笑顔の瑩は、そこにない。
「コレヨリ――対象ヲ、排除スル」
呆然と立ち尽くしていた悠が聞いたのは、いつも明るい彼女とは無縁の言葉。
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