始まりの(ⅰ)

「ご迷惑をおかけしました」


 保健室の戸を閉め、悠は誰もいない廊下へと出た。

「しまったな……寝すぎた……」

 突如として保健室に現れた乃瀬エリカ。彼女が去ると同時に意識を失ってから、実に数時間が経っていた。とっくに昼食の時間は過ぎてしまっている。

 始業式のある今日は午前中で学校は終わっているので結果的にサボることになってしまった。

 悠が目覚めると、担任の月村鏡が様子を見に来た。体調のことをいろいろ聞かれたのだが、今は眩暈も頭痛も落ち着いている。乃瀬エリカや昔のことを思い出そうとしなければ何も問題なかった。

 話が終わった時にはすっかり日が傾き始めてしまっていた。瑩が持ってきてくれたらしいカバンを持ち直し、保健室に背を向け廊下を歩き始める。

 照明の付いていない東向きの廊下は薄暗く静かだった。

 午前中で学校が終われば、わざわざこんな時間まで残っている物好きな生徒もほとんどいない。休みの無い運動部は絶賛汗水垂らして頑張っているが、文系などの部活動は基本的に休みだ。放課後にはいつもは聞こえてくる吹奏楽部や軽音部の奏でる音色も今日は無い。

 無音の校舎内は、まるで別世界のように錯覚してしまう。

 手持ち無沙汰でポケットからスマホを取り出して開く。すると、悠と瑩と千鶴の幼馴染メンバーしかいないグループチャットにメッセージが一件入っていた。


『悠の鞄を届けに保健室寄ったんだけど、まだ寝ていたから先に帰るわね。起きたら連絡ちょうだい。亜紀ちゃん、ちーちゃんと四人でお昼ご飯食べに行こ!』


 可愛らしいスタンプに挟まれた瑩からのメッセージの受信時刻は今から四時間以上も前だった。現在時刻は午後二時を過ぎており、ランチタイムはとっくに終わっている。

 なんだか申し訳ない気持ちになりながらも急いで返事を打つ。


『悪い、今起きた。今日はこのまま帰るわ』


 するとすぐに既読が二つ付いた。あまりの反応の速さに悠は目を丸くする。

『おう、おつかれ。無理せず休めよ』

 最初に千鶴からの返信が来た。

 適当なスタンプを返し、画面を消してポケットにスマホを戻す。そして再び廊下を歩きだしたのだが、ポケットに突っ込んだばかりのスマホが震えた。

「……ん?」

 ポケットのスマホが連続的に震えた。メッセージを開いてみると、差出人は妹の亜紀からだ。


『 兄さん、馬鹿なんですか?』

『私は姉さんと獅子神さんとこのまま遊んで帰ります。夕飯の買い出しくらいはしておいてください。この唐変木』


 顔文字も絵文字もスタンプもない、なんなら敵意の籠ったメッセージ。

「え……なんで?」

 保健室で見せた兄貴思いの妹の姿を思い出し、頭の上に?を浮かべる悠。返事を返すのも面倒だったので、亜紀のメールは既読無視しスマホを再びポケットに捻じ込んだ。

 放課後にあるはずの喧騒。それらがない空間は自分が一人だということを強く思い起こさせ、嫌なことばかり思い出しそうになる。

 ついつい記憶を深掘りしそうになってしまい、悠は考えるのを辞めた。また倒れでもしたらたまったものじゃない。

「嫌な記憶の方が多かった気がするけど、何も思い出せないってのは気持ち悪いな」

 昇降口で革靴に履き替え、警備員に会釈して校門を抜けた。朝も登ってきた長いS字の坂を下っていくが、丘の上には学園くらいしかないので下校のピークをとっくに過ぎた道には悠以外誰も歩いていない。

「夕飯の買い物もあるし、駅前まで行くか」

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