保健室で

 始業式は若干のトラブルで開始が遅れたものの、プログラムは恙なく進行し時間通りに終了した。

 お堅い式から解放された全校生徒が、一斉に体育館からクラスがある本校舎へ大移動を始める。

 体育館、と言っても普通の体育館ではない。競技場のような巨大ホールは多重構造になっており、二階と三階には座席まである。高校の体育館にしては豪華なものだ。

 そんな体育館の喧騒とは無縁な別棟。今は誰もいないこの建物の一階の保健室で織笠悠は一人目を開いたまま大人しく横になっていた。

「……」

 目が覚めたら保健室のベッドだった。

 理由ははっきり覚えている。突然の頭痛と眩暈に意識を失ってしまったのだ。

 数刻前までいた養護教諭には『起立性調節障害』、簡単に言えば『立ち眩み』じゃないかと言われた。久しぶりの学校で、体力が戻り切っていない中では別段不思議な話ではないらしい。

 だが悠は自分が倒れた原因がストレスだとか病み上がりだからとか、長いこと立っていたからだとか。そんなことではないのを分かっている。


『乃瀬エリカ』


 記憶に一切存在しない異国の同級生。

 悠が不在だった四ヶ月の間にきた転校生や留学生だったのならまだしも、千鶴が言っていた『文化祭』は去年の9月。悠も参加している。

 そこに、彼女の存在などなかった。

 いくら他人に興味がない悠とは言え、四ヶ月学校に通っていなかっただけで人形のように綺麗な少女の存在自体を忘れるわけがないだろう。

 なんとか去年の短い高校生活の記憶を思い出そうとするが、その度に起こる頭痛と眩暈に悠は襲われ記憶に靄がかかってしまう。

「くそ……今朝から何か、おかしい……」

 どうも最近の記憶がはっきりせず、思い返そうとする度に頭痛に見舞われはっきりと思い出せない。

「……考えるだけで頭が痛くなる」

 症状は落ち着いたものの、体は怠くて上体を起こすのさえ億劫だった。

「なんなんだよ……気持ち悪い」

 あれこれと考えるだけで目が回る始末。

 悠は大人しく目を閉じ、しばらく無心になった。


 そうしてしばらく休んでいると、保健室の戸が開き見知った顔がゾロゾロと入ってきた。

「兄さん!!」

 声のする方へと顔を向けと、妹の亜紀が顔を青くして一目散にベッドへと駆け寄ってきた。彼女と一緒に幼馴染の瑩と千鶴もいる。二人ともどこか心配そうな顔をしていた。

「よかったー、ちゃんと人肌の色を取り戻してる」

「この野郎、ビックリさせんなよな。ゾンビみたいな真っ白顔で痙攣して意識失うから大騒ぎだったんだぞ」

 今にも泣きそうな亜紀とは打って変わり、瑩と千鶴は心底安堵した様子である。

「……悪かった。心配かけたな」

「本当ですよ! そんなに体調が悪いのなら隠さずにちゃんと言ってください! 無理してまで学校へ行けなんて思っていないですから!」

 朝、家を出る前のやり取りを亜紀は気にしているのだろう。無理して兄を学校に行かせたのではないか、と。

「大丈夫だって。ちょっと立ち眩みしただけだから。少し休んだら落ち着いたよ」

 まだ重たい上体をなんとか起こし、亜紀の頭を優しく撫でる悠。

「ほ、本当ですか? 兄さんは昔から自分のことも蔑ろにしがちです……どうか、無理だけはしないで下さいね」

 いつも凛々しくしっかり者の亜紀。だが、今だけは年相応の普通の女の子に見えた。それだけ心配をかけてしまっていたということに、悠の胸がチクリと痛んだ。

「引き籠りすぎて体鈍っちまったんじゃねぇか? また前みたく亜紀ちゃんと一緒にウチの道場こいよ。お前ならいつでも大歓迎だぜ」

 悠は中学まで亜紀と一緒に、千鶴の実家がやっている柔術道場に通っていたのだ。亜紀は今でも運動の為に週末に通っているのだが、悠は高校に上がると同時に行くのを辞めてしまっていた。

「麻紀姉さんのシゴキは鬼だからな……遠慮しとく」

 中学三年の冬にあった痛い思い出が蘇る。

「ちーちゃん家の道場って、今は麻紀さんが継いでるんだっけ?」

「あぁ。親父がもう歳だし腰やっちまってな。去年から大学卒業して暇してた姉貴が師範代してんだわ。姉貴に代替わりしてからよ、親父の時よりも門下生が増えてんだぜ? アレ、見てくれだけは抜群にいいからなー」

 そんな、いつもの他愛ない雰囲気の何気ない会話。それだけでもやもやした悠の気持ちは徐々に晴れていった。重くなっていた体も軽くなり、眩暈も落ち着き気分も良くなっていく。 

 しばらくの間、そうして気心の知れた友人たちと雑談をしているとチャイムが学校中に響いた。

「あ、予鈴の鐘ですね。私たちはそろそろクラスに戻りますが、兄さんは保健の先生が戻ってくるまでどうか安静にしていてください」

「俺も眠てぇし、このままサボるかー」

 千鶴が悠の隣の空いているベッドのカーテンを開けると背中からそこに倒れこんだ。

「はーい。ちーちゃんは馬鹿言ってないで行くわよ。それじゃあね、悠。あんたの鞄は放課後にでも持ってきてあげるから」

「わりぃな、瑩」

 亜紀、そして瑩に連行される千鶴を送り出す。

 三人が居なくなると、他に誰も居ない保健室は再び静けさを取り戻した。

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