赤トンボ戦闘

青キング(Aoking)

赤トンボ戦闘

 山々の葉は紅く色づき秋の深まった農村地域に、いたずら息子を抱えている家が一軒あった。

 その家の家長は大分厳格な正次郎という男は、常日頃いたずら息子を叱っていた。

「おい、吉郎。何を庭で座っている」

 吉郎は背後から父の正次郎に咎められ、咄嗟に虫かごを股の中に隠した。

「父さん、おいらは何もしてねえ」

「隠したもんを見せてみろ」

「うるさい。おいらは何もしてないやい」

 父が当然のように悪いことをしたと決めつけてかかるので、吉郎は顔だけを向けて言い返した。

 正次郎の度量はあまりにも小さく、すぐに怒髪天をついた。

 吉郎の肩を激しく掴んで、引き剥がすように息子を後ろに倒した。

 隠していたものが正次郎の目に留まる。

「虫かごに触るな」

 吉郎の声を無視して、父は虫かごを拾い上げて中を観察する。

 竹ひごで編まれた虫かごの中には、茜色のトンボが入れられている。

 正次郎の額に不機嫌の皴が刻まれる。

「俺は生来虫が嫌いなんだ。虫なんぞ、握りつぶしてやる」

「そんなのダメだよ、父さん」

 息子の制止も意に介さず、虫かごの蓋を開けて腕を突っ込む。

 危険を感じたのか隅に逃げた赤とんぼを、籠の中を縦横無尽にまさぐる手が捕らえた。

 トンボは呆気なく胴体から真っ二つに握り殺された。

「ああ、僕のトンボ」

 父は無情になって、虫かごを打ち遣る。

「俺の気を損なうのも大概にしろ、このドラ息子が」

 制裁を加えた後のように、吉郎を振り向きもせずに家の中に戻っていった。


 吉郎も女房も寝静まった深更に、父の正次郎は書斎で行燈を傍に置いて、帳簿に筆を走らせていた。

 夜をかけて記帳していたためか、筆を止めて疲れてきた目頭を押さえる。

「近頃、疲れがたまりやすくなったな」

 ぼやく正次郎の指に、半ば開けていた窓からふらふらと赤とんぼが飛んできてとまった。

正次郎は舌打ちをし、「汚らわしい」とトンボごと手を払った。

トンボは手を離れて、開いた帳簿の中央に足をつけた。

「ええい、鬱陶しい」

 帳簿の両端を持って、漆喰の壁へ投げつける。

 トンボはもろとも投げられる寸前に飛び立ち、壁と帳簿に圧し殺される難を逃れる。

 ばさりと帳簿が壁に当たって床に落ちるのに目もやらず、正次郎はトンボに憤激を露な睨みを向けた。

 従容とトンボは書斎内を飛び回る。

「おちょくりやがって」

 正次郎の虫に対する嫌悪が高潮に達すると、彼の腕が忌まわしきトンボにぐっと伸ばされる。

 だが彼の手はトンボに危機を及ぼすにはあたらず、ひらりと躱された。

 正次郎は侮辱された気分になって、余計に伸ばす腕に力を籠める。

 再びトンボは襲ってくる無骨な魔手を躱して、正次郎の周りを飛び進む。

「俺の前から消え失せろ」

 片手で捕らえるのは無理と判断して、藪蚊を叩き殺す要領で両手に挟むようにトンボを追いかける。

「よしきたっ」

 格闘の末ついに正次郎はトンボを叩き殺した。

 力を示した優越感に、彼は寸時浸った。しかしすぐに両掌の圧潰した死骸から漏れ出てくる気色の悪い粘質の体液に顔の皴を寄せた。

 窓を大きく開けて身を乗り出し、掌をはたいた。

 記帳作業を邪魔されて続ける心境ではなく、床に就くため正次郎は書斎を出た。


 筋金入りの虫嫌いの正次郎は、村役場に勤めている。

 赤とんぼの姿を畦道左右に広がる稲田にしか見なくなった。

 村役場への道を一人歩く正次郎に、強い陽光が照り付ける。

「まるで夏だな」

 額に巻いていた手ぬぐいを解いて、顔中にから噴き出してきた汗を拭く。

微風が稲を揺らし、かさかさと音を立てる。

 正次郎が額に巻き直そうとした手ぬぐいの先端に、どこから飛んできたのか赤とんぼがとまった。

「げっ」

 正次郎は疎ましき存在を目の当たりにして、露骨に憎々し気な声で呻いた。

 トンボを追いやろうと、手ぬぐいを振り回した。

 振り落とされまいとトンボはしがみついている。

 正次郎は敵が退散しないことが苛々と腹に据えかねて、回らない頭で一策を講じる。

 片膝を上げ、手ぬぐいの先端を上げた膝に叩きつけるように振り抜いた。

 トンボはあっさりと手ぬぐいから身体を離す。

 しかしトンボは日和らずに、正次郎と対峙した。それが合図であったかのように、左右の稲田から二匹組の赤とんぼがそれぞれ殺到する。

 編隊トンボの挟撃に、腕っぷしで抑え込んできた正次郎もたじろぐ。

打つ手なく正次郎の両脇腹に、編隊を組んだトンボは張り付いた。

「この野郎、服にくっつくな」

 正次郎は荒々しく身をよじらせて、トンボを振り払おうと苦闘する。

 先程手ぬぐいから退却させられたトンボも、正次郎の鼻頭にとまった。

「やめろ。そこから退くんだ」

 無為にあがいたところでトンボは留まり続ける。

 その時、正次郎は天啓のように名案を思い付く。

 すぐさま浮かんだ名案を実行に移し、つと絣の襟の合わせ目から腕を出して、勢いよく広げた。

 はらりと彼の着ていたものが落ちると、トンボは巻き添えになって地面に背をつけた。

 正次郎は落ちた服の方へ振り向くと、生地全体を余さず踏み荒らした。

 鼻頭にとまっていた一匹は、相手の膂力による仲間の惨死に、怖気を震って稲田の隙間と逃げ帰っていった。

 鼻頭の不快感がなくなって敵の敗走を知ると、正次郎は我に返って服を踏み荒らす足をゆっくり下ろした。

 服を拾ってトンボがとまっていた表の生地を見てみると、敵の体液が染み込み胴体は骨灰となって付着していた。

 瞬時に嘔気を催して服をその場に投棄する。気分悪いまま役場への道を再び歩き出した。


 正次郎は夜遅く役場から寓居へ帰り着くと、框を上がって茶の間へ声をかけた。

「誰か、まだ起きてるか」

 仕事の帰りが遅い正次郎のことを彼の妻子は気にせず、すでに寝室で床に就いてしまった。

 茶の間の囲炉裏端に冷や飯の入った飯櫃を用意してくれていただけでも、優しさがあるというものだ。

 冷や飯を食わされるとはまさにこのことだな、と自分の一人の室内で軽口を飛ばすくらいの気力は残っていた。

 胡坐で囲炉裏端に座って、飯櫃を引き寄せた。櫃の上に置いてあった箸を手に持ち蓋に手をかける。

「ぎゃああ」

 蓋を開けると大量の赤とんぼが櫃を埋め尽くしていた。

 彼は櫃の中に盛られていた怪異な生き物に狼狽えのけ反り、飯櫃を囲炉裏へ放り捨てた。

 囲炉裏に打ち遣られた櫃からは、うじゃうじゃとトンボが外に出てきた。

 何千匹を超えるだろう認識不能な数のトンボは、正次郎を取り囲むように飛び回る。

 正次郎は眼孔をひん剥いて、頭を抱え大声で慨嘆した。

「俺になんの恨みがあると言うんだ」

 大群で飛び回るトンボの鳴らす羽音が、彼の声をむなしく消し去る。

 打開策を考えあぐねた正次郎は、闇雲に回るトンボの障壁に拳を打ち込んだ。しかし彼の拳の軌道を予期していたように、障壁に穴ができ拳を避ける。

 一打でダメならと何打も拳を打ち込むが、全て空を切る。

「くそっ」

 憤懣をぶちまけるように正次郎は、力任せに床板を踏んだ。

 梁と柱が軋んで、僅かだが家全体が動揺する。

 それと同時に堅牢なトンボの障壁も揺れて、数匹が他と接触して弾きだされ所々に穴があく。だが弾きだされたトンボは、すぐに大群に加わり障壁の穴を埋めた。

 唐突に正次郎は家の振動により一部が崩れて穴を修繕する一連の敵の動きに、状況を翻す光明を見出した。

 正次郎は膝を追って屈み、足裏とふくらはぎに力を籠める。

 蓄えた力を一気に解放して、彼は上に真っ直ぐ跳躍した。

「これでどうだっ」 

 重力に引かれて下降し、両足を着いて床板を低い音で軋ませた。

 大地震の如く家全体を激烈に揺るがした。

 外側からの振動にトンボの障壁は耐えきれず、呆気なく崩落した。

 敵の包囲を打ち破った正次郎はほくそ笑み、崩れて床に散乱した敵の姿を見下ろした。

 立て直しを図るのが絶望的なトンボの大群は、損傷を被った戦闘機のようにふらふらと開いていた窓から飛んで退散した。


 家庭では妻にも子にも厳格な正次郎だが、その反面勤め先の村役場では勤勉な男性職員として評価が高い。

 そんな職住正反対な彼の息抜きは、幼少の頃より腕を磨いている剣道だ。

 週末になると家から少し離れたところにある寂れた神社で、一人黙々と竹刀を振り続ける。

 無心での素振りを終えて、ほうと息を吐く。

 社殿の周りに繁る鬱蒼とした雑木林をつむじ風が吹き抜けて、木々の葉を揺らす。

 風に身体を撫でられると同時に、正次郎な怪異な気配を感じ取った。

 境内と社殿を渡す敷石の右手に立つ樹齢幾百年の神木が、ざわざわ葉音を鳴らす。

「げっ」

 正次郎は神木の葉叢から現れた敵軍に、辟易して呻いた。

 神木の葉叢から現れた敵軍の赤とんぼの大群は、正次郎と数歩離れた位置で群れ集まり何かの形を成していく。

 赤トンボの大群は凝集して、正次郎より背高の人型に変成した。人型の手だと思われる先には竹刀を模して細長く出来ている。

「今度は何を仕掛けてくるって言うんだ」

 これまでの奇怪な赤とんぼの襲撃に、正次郎は憎悪の前に不可解を禁じ得ない。

 そうこうしている間に人型は、中段に構えた。

 ぴしりと構える敵の姿に、正次郎の静かな戦いの炎が徐々に燃え立った。

「いいだろう」

 勝負に受けて立つ意思を一言で伝えると、正次郎も中段に竹刀を構えた。

 両者は相手を見据えたまま、一足一足にじり寄り、剣先が触れ合う。

 人型が隙のない動きで上段に切りかかる。

 正次郎はそれを受け太刀して力を横に流した。返す刀で胴を狙う。

 彼の竹刀に、人型は滑らすように身を横に動かしながら受け流す。

 互いに後退り敵の次の手を、見破ろうと対峙する。

 少しの間読み合いが続き、つむじ風が騒がしく感じるほどの静寂が訪れた。

 しばらくして、人型が小さく正次郎に近づいた。

 人型の接近する歩みは段々と速くなり、正次郎は出所を窺って迎えうつ。

 人型は大上段に振り上げる。正次郎は瞬時に間合いを詰めて突きを繰り出す。

 熟練した正次郎の技術が人型の技術を上回り、紫電一閃の突きが決まった。人型の喉に竹刀がめり込んで、そこから数匹のトンボが脱落する。

 次の瞬間、人型はばらばらに崩れてトンボの大群が敷石に散乱する。

 これ以上の攻撃を加えられるのを恐れて、トンボの大群は境内の外へと逃げ帰っていった。


 赤とんぼの大群から剣道を挑まれ勝利してから、かれこれ一週間が過ぎた。

 彼の暮らす村では、役員が日々入れ替わって村の門の見張りをしている。

 赤とんぼによる襲撃の警戒を解きかけていた正次郎はこの日、村の出入りを見張るお鉢が回ってきた。

 門の見張りを行うための村内の一画に木材で組まれた望楼で、正次郎は日が暮れかかる頃合いに番に就いた。

 不誠実な者は望楼で惰眠を貪って一夜を明かしたり、知り合いを連れて望楼で酒肴を嗜んでいたりする。

 しかして正次郎と言う男は元来真面目な性格であるから、村民の誰もが嫌がる見張り番も一睡もせずに全うする。

 彼が見張りに就いて数時間が経過した頃、闇も深まって夜空に星が散見しだした。篝火に照らされる彼の眉間に皴が寄る。

「でかい雲か」

 正次郎は遠く山々の稜線から、巨大な影が出現したことに気付く。

 影は段々と大きさを増し、村に近づいてくる。

「げっ」

 正次郎は影を形成している正体がわかり呻いた。

 村の上空を覆って翳りを落とし始めた時には、影の形状は明確に判ぜられた。影は巨大飛行艇を模造した赤トンボの大群である。

 飛行艇は正次郎のいる望楼へと接近する。

「ぎゃああああああああああああああああああああ」

 さしもの正次郎も、相手が飛行艇では太刀打ちできない。望楼に飛行艇が突っ込んで、骨組みのことごとくをへし折った。

 正次郎は望楼の上から落下して、地面に背中を強烈に打ち付ける。痛みに喘いで、彼は気を失った。

 

 正次郎が次に目覚めた時、彼はまだ地面に仰向けになっていた。

ぱちぱちと焚火の爆ぜるような音が、ふと耳についた。

彼が身を起こして元望楼の建っていたのと同じところを見ると、何千匹何万匹の赤トンボの大群が劫火にくるまれて燃え盛っていた。燃えるトンボの大群の傍には、望楼が崩れ落ちるまで篝火に使っていた鉄製の籠が倒れていた。

 正次郎は呆気に取られながら、忌まわしき敵手の最期を見届けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤トンボ戦闘 青キング(Aoking) @112428

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る