邪宗門秘曲

 邪宗門の表紙をはたりと開いた。少し日に焼けた小口から花の香りが漂う。乙女は数頁繰ると、クリーム色の紙をそっと撫でた。


「われは思ふ、」


 本に当てた乙女の指先からパッと光が散る。瞳と同じ柘榴の光だ。ひばりははっと息をのみ、目をこすりこすり乙女を見た。乙女はくすくす笑うと、目を丸くしてはっと口を押さえた。


「ああ、貴女があんまり素直だからよ」


 拗ねるような声音で言って、ため息一つ。髪を揺らして背筋を伸ばし、ねむの花びらのような唇を震わせる。


「われは思ふ、末世まつせ邪宗じやしゆう切支丹きしりたんでうすの魔法まはふ


 まほう、ひばりは呟いた。


 実際それは魔法であった。

 髪がふわりと持ち上がり、頭がくらくらするほどの麝香じゃこうの香りが立ちのぼる。銀のバレッタが霧散し、花のように広がる黒髪を光らせる。柔らかい革靴が赤い光に包まれた。


黒船くろふね加比丹かひたんを、紅毛こうまう不可思議国ふかしぎこくを、」


 ぱっと光が散り、黒エナメルのシューズが現れる。赤い光の欠片を映したそれは、螺鈿らでん散る漆細工。白い絹の靴下にサテンの細リボンが光る。胸元に赤いベルベット。乙女は広がる赤リボンを煩わしそうにして、本を持ち上げた。うたは続く。


色赤いろあかきびいどろを、匂鋭にほひときあんじやべいいる」


 ベルベットを止める銀のガラス玉。淡く赤薔薇が燃えている。スカートが膨らみ、翻り、黒いカーネーションのように咲く。そっとそのスカートに触れたひばりは丸い目を更に丸くした。つまみ上げたスカートは確かな厚みを持ってそこにある。


南蛮なんばん桟留縞さんとめじまを、はた、阿刺吉あらき珍酡ちんたの酒を」


 ごく薄い蒼の縞の入ったブラウスを、黒いコルセットが留める。鈍い金色の金具を繋ぐ黒い紐がキュッキュと鳴る。艷やかな髪は一本のほつれ毛も許さぬように編み込まれ、ワインレッドの小花が集まったバレッタの、古金の花芯が鈍く輝く。


 乙女はふ、と息を吐くと、立ち上がってくるりと回った。スカートがふわりと浮いてペチコートのレースが覗く。乙女は白絹の透き通る手袋でスカートの一片をちょっとつまみ、首を傾げて、またひばりの隣に腰掛けた。彼女が動くたび、妖精の粉がふわふわとあたりに舞う。


「本当はね、最後まで読めば幻灯が見れるのよ。着替えるだけなら一連で済むから……」


 ひばりはまじまじと乙女を見た。そして自分の青白い入院着を見た。


「それ……本物なの?」


「ええ。楽しいでしょう?」


 乙女はどこか含みのある笑顔で言った。


「私も、できるの?」


 ひばりは幼い子供のように聞いた。乙女が身を乗り出す。


「もちろん。本を開いて、想像するの。素敵な服を着た自分の姿を」


 詩の性格によって制限はあるのだけどね、と重い生地を撫でる乙女。ひばりは上の空、という様子で、


「素敵な服……私、私何も知らない」


 憧れに目を光らせながら、もどかしいように言った。僅かな苛立ちと、悲しみがひばりの顔をよぎる。乙女は微かに震えるその頬をそっと撫でた。


「いろんな人の服を見ればいいわ。詩抄少女はみんな御洒落さんだから」


 ひばりはまっすぐに乙女を見た。その目は”先”を考えようとしない──”今”を見つめる幼子のそれだった。現在しかないのだ、と声に出さずに叫ぶひばりから目をそらした乙女が囁いた。


「私が一つだけ、一つだけ覚えている"彼"の詩を、あなたにあげる」

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