月に吠える
少女の目が開いた。
少女は何度か目を瞬かせると、重たそうに体を起こした。背中にかかる寝乱れた髪が揺れる。緩く波打つ髪は煙のようで光に透き通っていた。
それはまさしく──まさしくあの少女であった。ただ、その姿はずいぶん変わっていた。骨ばった体はしなやかな筋肉と女らしい柔らかさに包まれ、落ち窪んでいた目は明るく輝いている。一番変わったのはその眼の色だった。深く水を湛えた湖のような蒼色が、栗色の睫毛に縁取られている。その姿のどこにも、あの老婆のような様子は見られなかった。
少女は小さくあくびをすると、部屋の中を見回した。
枕元に白い本が置かれている。少女は少し首を傾げると、本に触れないように床に降りた。
赤い煉瓦に縁取られている漆喰の塗られた壁は古びてはいるが優しい白色。蝋が引かれた板張りの床は塵一つなく磨き上げられ、朝の光に温められている。小さな化粧台、大きな姿見、低い机に臙脂のソファ、すべて手入れが行き届いている。
「目が覚めたのね」
カチャリと軽い音をたててドアが開いた。墨色の髪の乙女が上品な薄藤色のスカートを翻し入ってくるのを見て、少女は怯えたように後ずさった。乙女はひらりとソファに腰掛けると、不思議な笑みを浮かべた。
「私は『邪宗門のがある』……『邪宗門』を纏う詩抄少女。貴女は?」
乙女の瞳はその風貌に似合わない深い臙脂色をしている。薄暗い部屋のルビーのような瞳に光が差し、金の虹彩が輝く。影に立つ少女はおずおずと口を開いた。
「じゃ、しゅうもん……? 詩抄少女……?」
「ああ、まだ本を開いていないのね」
乙女はふわりと立ち上がると、少女の手を取った。怯えて手を振りほどこうとする少女の手をそのまま、白い本に押し付けた。
──室生君、なんと言っても君を──みよすべての罪は──おわああ、ここの主人は──ばくてりやの──ばくてりやの──れえすの──雲雀──かたき地面に竹が生え──
文字の奔流が本から溢れる。青草の匂いとおしろいの匂い、肉が腐ったような甘い匂いが文字に絡まって部屋中に広がる。文字が花のように部屋中に広がった。雌しべとなった少女はその眼を大きく見開き、本をしっかり抱きかかえ、回りながら辺りを見回す。
「何……何?」
流れが、弾けた。
白い光に包まれた部屋に、薄墨のような影が流れる。影はその密度を増し、なよなよとした青年の姿をとった。実体を持ったかのように見える青年が伏せられたその大きな目を見開き、少女を凝視した。その胸元に輝く本が抱きしめられているのを見た青年が心底愛おしげに白い本の表紙を撫でた。青年はぼろぼろと文字のかけらになって本の中に吸い込まれ、わずかに残ったかけらも強い光に燃やされるかのように掻き消えた。
白い光が花びらになってほろほろと崩れると、少女はぺたりと腰を落とした。その腕の中の白い本──否、もうそれは白い本ではなかった──の表紙は黒地に白い山のような物が描かれ、背表紙には踊るような文字でこうあった。
『月に吠える』
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