誕生

 世界の底に、紺青こんじょうの蝶で出来た夜の神殿がある。長く伸びた柱はざわざわと波打ち、歩を進めるたびに床が沈む、生きた神殿。神殿の入り口には、しんとした光を放つブロンズの大門たいもんがあり、刻まれた無数の人間の顔が入らんとする者を睨みつける。


 神殿の奥深くに、一人の女がた。


 蝶に飾られた長椅子に艶めかしい肢体したいを投げかけ、溢るる黒髪は鱗粉で青く輝いている。骨太の体はまるで西洋人のようであったが、その柔らかな体の節々に現れるえくぼはまさしく日本人のそれであった。


 ぱっと蝶たちが舞い上がった。


 空中でぶつかり、鱗粉が散り、脚が落ちる、脚が落ちる。紺青の空気の中を、腰元のようにもお小姓のようにも見える影が黒い塊を引き連れ、ひっそりと歩いてきた。


 しゃらり、と黒髪が揺れた。紅の代わりに毒を挿した青緑の唇が、ゆっくりと開く。


「新しい娘が來たのかえ」


 首肯。


可哀かあいそうな子ぢや」


 女が目を伏せた。切れ長の目を縁取る睫毛の上に、蒼銀の雪が落ちる。女は頭を振って立ち上がると、手を大きく振って蝶を払った。


「お退き、お退き、子供らや」


 桜色の指に当った蝶が落ちる。落ちた蝶たちが女の手の中に集まり、輝く。渦巻きながら宙を漂う。


御前おまへはどんな娘かね」


 床が沈む。床が沈む。床が沈む。長い髪を引きずりながら。女は指を伸ばし、黒い塊の、額のあるべき場所に指を触れた。


「寂しい子──ethanolの香が聞こえるね」


 黒蝶のヴェールに包まれた、骨ばった青白い額が顕になる。閉じていてもわかる大きな目、細い鼻が姿を見せる。先程落ちた少女であった。


「誰より欲が強い子、魂の片割れを探しているの」


 蝶の塊はぐねぐねと形を変えると、思い出したように本の形をとった。暗くなりつつある紙面に、女の指で光る文字が刻まれていく。月、竹、手、雲雀ひばり……踊るような字が刻まれていく。


「御前は早くに呑み込まれるだろうね、御前の夢は余り強すぎるから」


 女の指が最後のページをつまみ上げた。女は満足げに微笑むと、ざあっとページを捲っていく。捲られた頁が白くなる。時々逃れようとする文字は抓まれ、本の中に戻されて白くなる。


 最初の頁が白くなり、表紙も侵食されんとする頃、ふ、と眼前が暗くなった。


「さて、ここからは詩抄少女わたしらの秘密だから、記人は覗くでないよ」


 笑いを含んだ柔らかい声を聞きながら、私はまた、周りのカリカリと鳴るペンの音が戻ってくるのを感じていた──。

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