少女とその哀傷

INKIPITO

 硬い椅子を引き、45度の机に向かう。固定されたインク壷には、いつの間にか蒼いインクが入っていた。金の月が入ったペンは羽のように軽い。私は透明なペン先をインクに浸すと、遠眼鏡を覗き込んだ。



 少女がいる。骨と皮ばかりにやせ細った少女。少女はたくさんの管に繋がれ、白いリネンに横たわっている。窓辺の花瓶に、二輪のコスモスが生けてある。両親らしき男女が涙にくれている。幼い少年が、骨ばった腕をぱちぱち叩いて首を傾げている。少年と、目があった。

「ママ、だれか………



 ブツリと音がして、突然目の前が真っ暗になった。蒼色の蝶がぼんやりと光ってこちらへ飛んでくる。鼻先に止まる。蝶と目が合う。


 こんにちは、しるしびと


 蝶の声が聞こえてくる。


 かごをもたないしるしびと、ちゃんとかのじょをしるしてね


 蝶はそのままずぶずぶと私の頭に入り込んで、記憶の奔流となる。

 生まれた。管に繋がれた。遊んでいる。寂しい。苦しい。ケーキだ。美味しい。また苦しい。痛い。痛い。遊んでいる。検査。手術。遊んでいる。羨ましい。羨ましい羨ましい羨ましい!


 痛みと苦しみに満ちた人生が頭の中にねじ込まれる。誰に言われずともわかる。これはあの少女の人生だ。

 私の前に、どこからともなく青年が現れた。私の苦しむ様を見ている。苦しみに満ちた大きな目が私を見ている。青年は薄い唇を開き、何事かつぶやくとどこかへ消えた。あとに残るのは消毒液の香りだけ。少女の一生と、彼の香りが妙に重なった。


 私は紙にペン先を置いた。消毒液の香りを閉じ込めるように、筆を滑らせる。

 

 

 少女の世界は、消毒液の匂いに満ちていた。


 

 ペンがさらさらと動き、蒼色の飾り文字が描かれるのを感じる。彼女の物語を始めるのに、これほど相応しい言葉はないだろう。



 ピンクと白の産婦人科、パステルカラーの小児科、たまに行く薄暗い家。それから近所の図書館。少女の知る世界はこれだけで言い表せてしまう。



 いつの間にか、私の隣に彼女が浮いていた。胎児のように体を丸め、目だけはしっかり前を向き、僕の脳裏に流れる映像を見ているようだ。ペンが動く。



 いつ醒めるともわからない微睡みを彷徨いながら、少女は自らの短い人生がゆっくり流れていくのをぼんやり見ていた。


 音が遠くなる。


 闇の中、骨と皮だけの腕が浮かび上がる。点滴の跡だけ赤黒く、曲げのばしするたびに腱が浮き出てキシキシとなる。およそ生者の腕とは思われない、骸骨のような腕である。腕からあばらの浮き出た薄い胸が生えている。生白い腹が続き、鳥の脚のような二本の足を進めると、ひたりひたりと音がする。


「汚い……汚い体」


 少女の声はくぐもって消えた。水の中の声はきっとこんなふうに聞こえるに違いない。


「あ!」


 少女の口からポコポコと泡が出た。泡は昇って、キラキラ光る。静かな蒼い光が差し込んできたのだ。塵と泡が絡み合って宇宙を漂うようだった。


 小さな泡を追うように、少女は手を伸ばした。


 体温のない手を白い蝶がすり抜けていった。黄色い蝶が続いた。青いの、紫の、思いつく限りのすべての色の蝶がひらひらと舞っている。鱗粉が飛び散り、光となって消える。蝶は続けて何匹も少女の体をすり抜けた。蝶はひらひらと目の前に来ると、そのまま先の方に飛んでいく。


「まって!」


 少女は叫んだ。いや、叫んだつもりだったと言ったほうがいいかもしれない。彼女の口から出たのは空気を震わせる音ではなく、水面を揺らす泡だった。少女はもどかしそうに走り出す。何度も転ぶ。転ぶたび、唇を噛み締めてまた走る。蝶を追いかける。白い蝶が何匹も何匹も少女の体をすり抜けていった。


 蝶は暗い方へ暗い方へ飛んでいく。それに気付いたのか、少女は走るのを止めた。蝶が数匹、ひらひらと少女にすり寄る。少女はしばらく指の間に蝶を絡ませていたが、やがて不安そうに踏み出し、再び走り出した。骨ばかりの脚が力強く地面を蹴る。


 突然、目の前に、何かを認めて、少女の足がまた止まった。

 血色の悪い爪が張り付いた生白い爪先の下を、深い闇がのったりと流れていた。少女はニ、三歩後ずさったが、いつの間にか実体を持った蝶が少女を押した。そしてそのまま、次々闇の中に飛び込んでいく。


「ここが三途の川なら」


 彼女の口から溢れる言葉はひどく軽かった! 実際彼女の口から立ち昇る泡は雪のように細かいものだった。


「私はここに入らなきゃいけない」


 少女は一歩踏み出した。生暖かい風に目をみはり、すぐに哀しそうな顔をした。


「天国へ行ったら、健康で綺麗な私になれるかな」


 黒い蝶が少女の体にまとわりつく。少女が払った手をくぐり抜け、目から、口から、耳から、体の中に入っていく。顔を掻きむしっている。蝶は存在していないかのように彼女の手をすり抜ける。頭を振る。少女の体がぐらりと傾ぎ、黒い淵に落ちていく。蝶の塊がざわざわと声をあげながら少女を包んでいる。


 ──みつけたよ


 蝶がさやさやと声をあげた。


  ──何をみつけた

   ──あたらしいをとめ

 ──詩抄少女になるおとめ

  ──かあさん、かあさんに

  

    ──海のかあさんに


 少女は、深い、深い闇の中に吸い込まれるように落ちていった。

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