オープニング・2

「なんでアンタがここに居るんだぁ? “霧沢エリカ”さんよ?」

「あらあら、解りきっている事をわざわざ聞くのはよくありませんわよ“塩崎ヘレン”さん? もちろん、私が貴女達のガイド役のエージェントだからですわ」


 ざんばら髪の少女が見上げるようにして長身の店員の顔を覗き込む。呻くように発せられた金髪の少女の問いに、エリカと呼ばれた黒髪の女性がにこやかな笑顔のまま答えた。

……ずももも、と二人の間の空気が不穏な歪み方をするのを幻視して、赤みがかった茶髪の少女が天井を仰いだ。


***


……話は20分ほど前に遡る。


 ヘレンは1ヶ月前の事件でオーヴァードに覚醒し、UGNのエージェントとして採用された少女……雨鈴由乃を連れ、無事に学園島の港へ到着していた。この辺りの海は一年を通して穏やかで、FHの破壊工作も殆ど無い為、基本的に海路における安全面の心配は無いと言って良い。ただ、稀にレネゲイドの影響で巨大化した海棲生物が船に接触する場合があり、去年もそれで島に来た新入生が海に転落した事があったという。一応、その方面の警戒はしていたのだが。


「今回はそれも要らなかったな。トラブルが無いのは良いことだけどさぁ、ドでかいイカってのをちょいと見てみたかった気はするなぁ」

「わ、わたしはそういうのいいです……。それでえっと、これからどうするんですか?」


残念ながら同行者の賛同は得られなかった。隣の由乃の問いに、ヘレンは予め頭に叩き込んでいた予定表をひっくり返す。


「あー。現地ここのガイド役のエージェントと合流する。そのガイド役ってのの店がこの港湾ブロックにあるから、そこに集合って話さ」

 島を初めて訪れる由乃に、当然案内役は必要だろう。ましてや普通のオーヴァード学生ではなく、UGNエージェント待遇での入学ともなれば、説明すべき事柄も少なくないのは想像がつく。面倒くさかろうに、と由乃を少々気の毒に思いつつヘレンは振り返ったが――ふと、思ったことが有ったので口を開く。


「しっかしさぁ。……お前、暑くねぇかその格好?」

「?いえ、これでもちょっと肌寒いですけど……」

「マジか……」


 先にも述べたとおり、今は4月初旬で時刻は正午過ぎ。今日は天候にも恵まれ、暖かな日差しの下で柔らかな春風が優しく頬を撫でてくるような過ごしやすい日だ。天気予報によれば例年より気温は高めで、この先一週間はこんな陽気が続くらしい。事実、ヘレンは暑いので上着を脱いで肩に引っ掛けている。だというのに、由乃は服の上から冬物のダッフルコートをしかしかと着込み、マフラーとタイツまで完備していた。見ている方が暑くなりそうな出で立ちだが、本人にはまだ不足らしい。


(シンドローム発症の弊害つっても、こんなケース初めてじゃねぇの?)


 感染・活性化したレネゲイドウィルスが人間の精神――理性や感情に強い影響を与えるのは周知の事実だが、それ以外にも肉体的な影響が出るケースが有る。有名なところではキュマイラシンドロームやエグザイルシンドロームを発症したオーヴァードに、不可逆の外見変化……いわゆる異形化が発生するといったものだ。精神的な影響同様、このような肉体的影響も発症者が日常生活を送る上で障害となる為、UGNではそのケアについて研究を進めている。


 雨鈴由乃については、温度の認識機能が正常に働かなくなっており、特に高温側を感じ取りにくくなっているらしい。物理的にセンサーが狂っているのか、精神的な変化の影響で脳が情報を誤認しているのかはまだ不明だが、今の彼女は極端な『寒がり』だ。


(オーヴァードは熱中症ごときじゃ死なないけどよ……夏はともかく冬が思いやられるな)


モコモコの毛糸の塊と化した冬モードの由乃を想像して――不覚にもちょっと可愛いと思った――頭を振る。現実問題、由乃はそれ以上の問題を抱えている。


「まぁいいさ。それじゃ、さっさと集合場所の店に行こうぜ。飯も食いたいしな」

「お店、レストランなんですか?」

「喫茶店だってさ。軽食ぐらいメニューに有るだろ」

「そうですね。じゃあ早速向かいましょう」


カモメが舞う快晴の空の下、旅行かばんを引きずって、2人組が歩き出す。


***


 港湾地区の北側。市街中心部にほど近い通り沿い。港から徒歩15分。赤いレンガ風の外壁と猫を象った看板が目印。金色のノブを回し、チョコレート色の扉を開ければ、ドアベルがちりんと音を立てる。きしりと僅かに音を立てる木床を踏みしめ入った店内では、5、6卓程度の机と椅子、木製のカウンターと茶器棚、そして何より色とりどりのティーセットが出迎えてくれる。席に座り老年のマスターに注文を伝えれば、その日の気分に合わせたブレンド紅茶と、美味しいお茶請けを楽しめるだろう。落ち着いたアンティーク調の雰囲気が良いと一部女子学生に評判。女性店員の制服がヴィクトリアンメイド風で可愛いと一部男子学生にも評判。紅茶カフェ『眠り猫スリーピングキャット』とはそういう店であった。……なお、これらの評価は後に知った内容を含んでいる。


 昼下がりの柔らかな陽光が差し込む『眠り猫スリーピングキャット』のフロアには現在、4人の人物が居た。一人目、店長たる白髪の老マスター。店内の有様にも動じず、淡々と茶の用意を進めている。二人目、フレンチメイド風の給仕服を身に着けた長い黒髪の女性。ニコニコと笑顔を浮かべて来客を出迎えている。三人目、その店員を名状しがたい表情――あえて言うなら、なるべく会いたくないなと思っていた相手に不意に遭遇した時のような表情――で見つめている金髪の少女。脱いだ上着を右肩に引っ掛け、飾り気のない旅行かばんを脇に置いている。四人目、その二人の間で所在なさげにオロオロしている少女。つまりは自分、雨鈴由乃だ。

そうこうしているうちに、数秒だけ止まっていた両者の口火が再度切られた。


「アタシは、上海支部でご活躍中の筈のアンタがなんでこんな辺鄙な島でメイドやってるのかってのを聴きたいんだがねぇ……」

「そう言えば塩崎さんと最後にお会いしたのは三年前でしたから、知りませんでしたか。私、一昨年アカデミアに転入しましたの。ここのキャンパスはとっても素敵ですから、貴女も気に入ると思いますわよ☆」

「そいつは結構なこって……」


どんどん声に力が無くなっていくヘレンに対し、霧沢と呼ばれた女性店員は上機嫌なままで続ける。


「そちらの方が雨鈴由乃さんですね? はじめまして、霧沢エリカと申しますわ。貴女達のここでの生活をサポートするよう頼まれておりますの。よろしくお願いしますわね」

「あっ、はい。こちらこそよろしくお願いします!」


 見る者の心を溶かすような柔らかい笑みに、物怖じしていた由乃も心で身構えていたのを解く。ぴょこん、と頭を下げるこちらに対し、微笑ましそうな笑顔を浮かべ、エリカは続けた。


「せっかちな塩崎さんの為にも、さっそく本題を始めてしまいましょうか。こちらがお二人の学生証と、必要な書類諸々。校則の類は事前に……」

「あーおい待て待て待て」


少しだけ焦った様子でヘレンが始まりかけた説明を止める。


「さっきから疑問だったけど、なんでアタシまで入学するみたいな流れになってるんだよ?アタシはこいつの付き添いでここまで送って来ただけだぞ?」


 胡乱げな表情を浮かべながら、パタパタと手を振って訂正を試みる彼女に、エリカはわざとらしく小首を傾げて「でも……」答えた。


「貴女も含め2名を入学させるから是非よろしく、と藤崎さんからは言われているのですけど」

「はぁ!?」

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