《七章》

綱渡りではないのですから、そんなに怖がらなくて大丈夫ですよ。……宜しければ手をお貸ししましょうか。

あの時の少年の顔は悲しそうだった。

「すみません……大丈夫です」

誰のことを思い浮かべたのかは、容易に予想できた。また自分はあの男に負けたんだ。どうでもいいことだと思いつつも、この時のことが時折ちらつくことがあった。

少年は仲間をなくしたすぐ後だった。自分の為に身を張ってくれたジャックのことを大事に思うのは当然だ。

でも、あの手を取ってくれていたら……もう少しだけ、優しくなれていたのかもしれない。


「君は本当に知らなかったの? 知ろうと思えば、すぐに分かったんじゃないかな」

チェシャの声が聞こえて、振り返る。彼が自分からこっちに来るなんて珍しい。それよりも唐突に投げかけられた言葉が気になって、手を止めた。

本当の猫のように間をすり抜けて、窓の側に寄った。ガラスに手を触れて、外を眺めている。

「ネタばらしをしよう」

「どうしたの。君らしくないね」

「……そりゃ好きじゃないよ。ネタばらしなんて。それを聞いた瞬間、何もかも冷めてしまうだろう? でもね、目を背けちゃいけないこともある。まぁ、今から話すことがいいことなのか、悪いことなのかは、君次第だけど」

微妙に話が噛み合っていない。無意識的に、少し睨むように見つめてしまったけど、彼は薄汚れた白衣に手を突っ込んで足元を見ているので、気づいていない。

「むかしむかしあるところに、仲の良い少年と少女がいました。二人は近所にある森が好きで、よく遊びに行っていました。そこでは舟に乗ったり、ピクニックをしたり……中でも少年のつくったお話を聞くのが、少女は大好きでした」

これはもしかして……あの子の話か。

「その少女も成長して大人になり、結婚して子供を産み、またその子供が孫を生んで……すっかりお婆ちゃんとなった少女でしたが、あの頃の思い出は強く残っていました。そのお話を聞いた娘達を熱狂させてしまうぐらいには。その話は、娘達の間で膨れ上がるように伝わりました。近所だけに留まらず、規模が広がっていった。その話を聞いた一人が、タケルくんのお婆さんの杏奈さんだった。彼女は小さい頃少しだけ外国に住んでいてね、仲の良かったお友達から聞いたんだろう。あれは少女達の憧れの流行り話だったから。杏奈さんもそれを聞いて、とても焦がれてしまった。年上の特別なお兄様に惹かれた、少女の一人だった。それから時が経ったけど、まだそれを覚えていた。その夢のような話を、タケルくんにも聞かせたんだろう。彼はお兄様ではなく、少女の方に惹かれたんじゃないかな。彼がしっかりと覚えている様子はなかったけど、記憶の片隅には残っていたんだろう。彼がアリスのことを話したり、夢に見たのはそういうカラクリさ。同じ話を聞いたアリスが作った遊園地の存在によって、引き出されたのかもしれない」

「……じゃあ彼女の方も?」

「アリスは、両親が少女の孫だったんだ。アリスの母もその話を彼女に聞かせた。アリスがああいう状態になってからは、頭の中にあるものを思い切り膨らませてしまったんじゃないかな。あの場にいたら、空想ぐらいしかしかすることがないしね。歪んでしまうのは当たり前だよ。でもそれによって、夢のような世界は生まれたんだ。少年と出会うという奇跡も起きた。そういえばジャックもアリスと呟いていたね。もしかしたらこの話を知っていたのかもしれない。もう少し早く教えてくれていたら、もっと早く気づけたかもしれないのに。ほんとジャックって、つくづくズルイよ」

なんだかうまく力が入らなくて、ソファーへ落ちるように座った。

「まぁ流行ったといっても一部の地域だし、奇跡というべきではあるのかもしれない。でも運命の生まれ変わりとか、そんなことはなかった。真相が分かれば、なんてことのない出来事だって思うよね。なのに僕達はこんなものにさんざん振り回されてしまったよ。アリスと少年はかなり年齢が離れているのに、同じ記憶を共有しているなんて、あるはずないからね」

不思議な物語というのはタネが分かってしまうと、こんなにも呆気ないものなのか。自分はその真相が知りたくて、狂うほどに求めていたはずだ。そうすればアリスに嫉妬をしなくて済むから。でも本当はその一方で願っていた。そんな奇跡が起きるなら、自分も信じていいんじゃないかと。それなのに、こんな気持ちになるなんて。

「アリスも彼も、みんな寂しい人間だった。だから共鳴したのかもしれない」

「君も、その一人か?」

その質問に尻尾が揺れた。

「僕達もみんな一緒だよ。そうじゃなきゃ遊園地になんて場所に惹かれないでしょ。求めている時点で、同じ……寂しいんだ。だから僕はこの場所に望みをかけた、一緒に作ってきた。悲しいことがなくなるなら、それでいいと思ったんだ」

呆然とチェシャの後ろ姿を眺めていた。彼は顔を合わせる気がないのか、動く気配はない。

「大切な存在って絶対に必要なのかな。どうして願ってしまうんだろうね。自分の心の中しか分からないのに、誰かと寄り添わないといけないなんて、変だ。……一番近くで見ていたはずなのに、ジャックは僕よりもずっと大きかった。彼のようになれていたら、こんな風にはならなかったのかな。少なくとも、良いことなのか悪いことなのか考えることから目を背けて、全てから逃げるなんてことはしなかっただろうね」

私が何も言えないでいると、くるりと周り、顔の前を横切った。ドアノブに手をかけたところで動きが止まる。

「アーネスト。君とは色々あったけど……ありがとう。一番とは言えないかもしれないけど、確かに君と僕は仲間だったよ」

彼の去ったドアを見つめる。懐かしい暖かさが頰の上に流れた。ここに来てから無縁だと思っていたもの、まだ涙が出る自分に驚いた。

なんとなく、彼とはもう会わないような気がした。それから、一番大事なものを壊しにいくのだろうということも。

私には、まだやらなければいけないことがある。それは一体誰の為に? 分からない。気持ちばかりが焦る。皆を幸せにして、それでどうなる? 本当は、私は分かっているんじゃないか。気がつかないように、見ないようにして、誤魔化していた。

そうか……私が本当に大切にしなければいけなかったのは、一人だけだ。

僕もお前に、さよならを送ろう。

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