《六章》

空を見上げる。あの時から、辛いときはこうしている。

でもあの人が上から見守ってくれているんじゃないか、とか。誰かとこの下で繋がっている、これに比べたら自分の悩みなんてちっぽけだとか。そんな気持ちで見ているんじゃない。

ぼうっと見上げたその先で願ってしまうんだ。自分もそこに連れていってほしいと……。


劇団に入っていたのは、何年前だっただろうか。

それも誘われて、なんとなくって理由だったと思う。でも少しずつ楽しさを知って、目立つような役を任されることも増えていた。

「はい、じゃあ今日はここまで!」

汗を拭って戻ろうとすると、誰かに呼び止められた。

「りょうくん! 良かったら、この後ご飯行かない?」

「あ、ごめん。ちょっと帰ってすることあるから」

「そっか……じゃあまたね」

ヒロイン役の彼女は、眉尻を少し曲げた笑みを浮かべて去っていった。

今度の舞台で俺と彼女は恋人役だ。恋のエピソードが絡むので、必然的に距離が近くなる。だからなのか、必要以上にプライベートでも仲良くしようと、誘われることも多くなっていた。彼女もある意味女優なのだろう。役にのめり込むタイプの。

それでも向けられる好意を超えた眼差しには、嫌悪を持ってしまう。それは彼女だけが原因ではない。ヒロインだけあって、やっぱりそれなりに人気なようだ。俺がこの役ってだけで気に食わない奴もいるみたいだし。

そういう奴らからの目が鬱陶しいから、わざわざ自分から地雷を踏みに行くこともない。俺はきっぱり、役の中って割り切ってるしね。

「はぁ……」

しかしこう気をつけたとしても、初めから抗いようのない、暴力にも近い感情は生まれた時から自然に刻まれてしまっているんだろう。

陰口には慣れた。でもあまりにも続くとさすがに疲れてくるし、気も滅入ってくる。

確かにこれを止めさせるだけの説得力も、演技力も備わっていないのは認める。だから言われても仕方のないことだと、無理やり納得させていた。そんなこともあってか、最近は特に身が入らない。無理やり台詞を発しているみたいだ。

役だから、演技だからと割り切ってみたところで、相手役の彼女を好きになれそうもないし、あっちはあっちで諦めようとしないから悪循環だ。関係のない人間に勝手に恨まれているのも厄介。

やりがいなんて感じられなくなっていて、もう辞めるべきかと考えていたら、辺りに人はいなくなっていた。

「帰るか……」

外に出ると、まだ隣のホールの電気がついていた。この劇団専用というわけではないが、稽古場が近いので、他の劇団の人達からは羨ましがられているらしい。

中に入ってみたけど、人はいなかった。電気の消し忘れか?

劇場の扉を開いて、シンとした客席を見つめる。それからなんとなく、誰もいない舞台に立ってみた。

「……っ」

迫るようにこちらに向いている椅子。舞台からだと、思っているより客の顔が見える。

「……わ!」

俺の立っていた位置に、スポットライトが当てられた。丸い光が体全体を照らして、ライトの熱さが顔に集まる。

「ハハハ、ごめんごめん」

ホールの電気がついて、上から男が降りてきた。

「ちょっと確認してたらお前が来るからさ、暇だったし遊んじゃったよ」

「……ごめん、邪魔した」

「いやいや本当にもう終わりだから。あ、一緒に帰っていいか? それともまだ練習する?」

「ううん、しないよ……」

苦笑いで返して、舞台から降りる。

「そっちはそろそろ集中稽古だろ。お前と会うのも難しくなるな」

「……そうだね」

「あれ、そんな寂しくないって? はは、照明のおっさんなんか興味ねーか。でもあいつ……監督は根詰めるとお前らにまで被害及ぶから、体調管理は気をつけろよ」

このおっさん……佐藤さんは自分が入った頃には、もう裏方のリーダーを任されているぐらいのベテランだった。若々しく見えるけど、これでも四十は越えてるらしい。なぜか本当の年は教えてくれない。

皆のアドバイザー……というよりは田舎の親父みたいな存在で、自分も度々世話になっている。

彼の笑った顔を見て、どこかほっとした。俺はやっぱり寂しかったのかもしれない。

家に帰る頃にはモヤモヤが晴れていて、少し暖かい気持ちになれていた。


舞台をやり遂げた後、次はオリジナル脚本でと言い渡された台本を受け取った。そこに載っていた役と名前を二度見する。

その役は、喋り方が女性寄りの男性だった。これは賑やかしとか、ウケ担当のような役割なのだろうか。今まで真面目な役ばかりだったから、こんなのは初めてだった。嫌がらせか? 間違いか?

少し待ってみたけど、間違えたなんて声は聞こえてこない。

読み込んでみると、ウケを狙ったような役ではなかった。脚本を書いた人からは、女性には出せない、中性的な部分が魅力の男性だと言われた。冴えない主人公の、師匠的な存在らしい。

自分に合っているかは分からないけど、ヒロインの相手役よりはマシかな。以前なら演技じゃなくて顔で選ばれたとかさんざん言われてたから。今回嫉妬されたりはないだろう。

そしていざやってみると、自分と似ていない役だからこそか、演技にも身が入り、思っていたよりも好評だった。

初めはそれで良かったのに、また別の問題が生まれることになる。

この役になったからって、明るくなれるわけじゃない。無口な自分は変わらなかった。それなのに、変な視線を感じることが増えた。

まさかと思って流していたけど、だんだんそれは明確になっていく。女性からは頼れる姉さん役と言うのが受けたらしく、プライベートでも助言を求めてきたり、相談されることが多くなった。

男性側からはきわどい衣装が原因か、セクハラまがいのことをされることが増えていた。

せっかく役は楽しいと思えていたのに、以前よりも精神面や身体面が疲労していた。

「あの……佐藤さん」

「おう、久しぶりだなりょう」

上から舞台を眺めて、缶コーヒーを煽る。この人はいつも、この位置から俺を見守ってくれているんだ。

そのまま舞台上を見つめながら、辞めようかなと口にした。

「……そうか。でも、なんとなくそんな気はしてたな」

不器用に笑ってから、こちらの頭をぐしゃっと撫でてきた。

「俺は辞めろとも、辞めるなとも言わない。とにかく……自分らしくいられるっていうのが一番大切だよ」

「……俺はどれが自分なのか、分からなくなってきました」

「まぁ、そういう時もあるよ。お前もまだ若いし」

この日は答えが出せなくて、うやむやなまま過ごしていた。

でもだんだんと誤魔化しきれなくなっていた。今までなら大丈夫だったことも流せなくなって、演技中に吐き気を催しては、練習を止めてしまうことも多くなっていた。

体は限界だ。縋るように佐藤さんのところに行ったとき、俺は無意識にただ優しい言葉をかけてくれるものだと思っていた。でもあの人は厳しかった。

役には罪はないって……そんなのは分かってる。俺はただ……。

苛ついて、もうあんたのところなんか行かないと、叫んで帰ってきてしまった。明らかな逆ギレってやつだ。

「……クソッ」

意地で最後までこの役を演じきった。最終日、衣装を脱ぐとともに、辞めると言い放った。

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