キミに、ボクの味を覚えてほしくて



 どちらからか、分からない。

 分からないうちに――――畳の上に置いた手と手が重なり、指と指が絡み合っていた。

 りょうが静かに漏らす息がそのまま俺の鼻腔を満たし、肺まで流れていく。


 それ以外に何もしない、ただ――――ただ、唇だけに流れる時間。

 暖かくて、甘くて……ひたすら、美味しくて・・・・・

 離れられない。離れたくない。

 瞑った目の中がチカチカと明滅し、火花の散るような熱さが脳を灼いた。

 何も――――現実感がない。

 閉じた目の先に、怜がいる。

 カラダ中の神経を賭した唇の先に、怜がいる。


 ――――ふわふわとした時間とき、その終わりを告げたのは。

 ――――俺の、腹の中から響いた――――間抜けな音だった。


「っ……ふぁ……」


 唇を伝って届いた低音は、怜に届いてしまったか……離されてしまった。

 でも、その表情に刺す釘じみたものはなく、ただ困ったようにくすくすと笑っているだけで。

 薄桃ピンクの唇も、火照ったように上気した顔もゆっくりと離れていき、指も解かれていった。

 こんな、頓珍漢な幕切れになった事が……あまりにばつが悪くて苦笑もできず、頭に乗せていたタオルで顔を覆った瞬間、どっ、と顔が熱くなって変な汗が噴き出てきてしまう。


 俺は、今――――本当に、怜と――――。


「……ボクは、おやつ・・・じゃないよ?」

「っ……!」

「ふふっ。お腹空いたね。台所、借りていいかな? ボク、何か作るよ。何食べたい?」

「ちょっと、待った!」

「?」


 立ち上がりかけた怜を制して、座らせる。

 色々、諸々、言いたい事もあったけれど――――。


「先に、俺、も……シャワー、入らせてくれ」


 絞り出せたのは、たったそれだけのたどたどしい言葉だった。


 居間を出る寸前、ぎこちなく振り向くと。

 怜がテレビの方に視線を向けながら……そっと唇に指を当てて、落ち着かなそうにしている姿が見えた。

 


*****


 居間の片隅でドライヤー片手に髪を乾かしている間まで、ずっと心臓がもやもやして落ち着けない。

 あの目隠しもへったくれもないシャワー室に入った時点から……ほんの数分前まで、怜があそこで湯を浴びていた事実と残り香が妙な背徳感を煽ってしまって。

 いっそ停電でもしてくれたら、こんなみっともなく慌てる顔を見せなくて済むのに――――と、何度も思ったが、現在の現実は非情だ。

 風も雨も強まっていくが、雷の落ちる様子は無い。

 テレビに映る芸人のネタ話も、全然頭に入ってこない。

 何度も、何度も、色々と払い飛ばすようにしつこく髪に熱風を当てていると、お盆を手に怜が入ってきた。

 俺が入浴している間にちゃぶ台の上は、すっかり片付いていた。


「お待たせ。……色々使っちゃったけど、良かった? 調味料少ないよ……何だい、あの焼肉のタレは。適当に炒めて済ませてるね? さては」

「あ、ああ……うん。相変わらず、凄いな……お前さ」

「? 何が?」


 怜が作ってくれたそれが、食卓に置かれる。

 ひとつは、鶏と玉子の二色そぼろ丼。

 半分は味のしみていそうな鶏ひき肉のそぼろ煮、もう半分はムラも焦げもなく鮮やかに黄色い、炒り玉子。

 アクセントに載せた三つ葉の緑が際立っていて、思わず胃袋がきゅう、と窄まるようだ。

 立ち上る香りも――――炊き立ての米と、かすかな生姜の香りが入り交じって、何ともいえない。

 もう一品は、とろろ昆布としめじの澄まし汁だ。

 椀の底まで澄んで見えるような汁の中に、とろろ昆布が泳いで、上には小葱こねぎが散る。

 そして小鉢には白菜と人参の浅漬けが盛られている。

 ほんの数十分で作ったとは思えない、立派な食膳だった。


「……炊飯器の音、聞こえなかったけど……」

「ああ、土鍋で炊いたんだ。実は炊飯器使うより早いんだよ。ほら、冷めちゃうから食べてよ、早く」


 怜の、期待するような表情が向けられる。勧められるままに、まず澄まし汁を一口。


 ――――美味い。

 言う通り、うちにはロクに調味料なんかない。

 醤油、砂糖、塩、味噌、それと隣の婆ちゃんに貰った小瓶の料理酒。

 まともな調理に使えるのはそれぐらいしかないのに、しっかりとした醤油の味と、まろやかな甘さ、つるつると口の中に滑り込んで来るとろろ昆布の食感、しっかりと立ったしめじの薫り。

 俺は、感想すら言えないままお椀を置いて、そぼろ丼を手に取る。


 ――――これも、とんでもなく美味い。

 煮込むように作った鶏そぼろは、生姜の風味がしっかりと沁み込んでいて、体の芯から暖まる。

 その反対側、玉子のそぼろはふんわりと仕上がって、ほんのり甘くて、鶏そぼろの生姜の辛さ、醤油の味付けと絶妙に絡み合っていた。

 下に敷いた鍋炊きの白米も、いつも済ます炊飯器のそれとはまるで違う。

 米粒がしっかり立って、ねっとりと甘くて……まるで米の一粒一粒が喜んでいるようで、おかずも何もなくてもこれだけで何杯でも食べられそうだ。

 そんなのに生姜の利いた鶏そぼろの汁がしみているのだから、たまらない。

 気付けば、半分ほどまで平らげてしまっていた。


 怜と一度だけ目が合い、照れを隠すように梅の花型の飾り切りまでされた人参の浅漬けを口に運ぶ。

 これもまた――――鶏そぼろの甘辛さで染まった口に、シンプルなしょっぱさが鮮やかに広がる。

そこで、ようやく……口に、出せた。


「……美味しい」

「ふふっ、良かった。おかわりあるからね。どうぞ、召し上がれ」


 俺が感嘆を言葉にすると、怜も椀を取り、ゆっくりと食事を始める。

 足を崩して座る俺とはまるで正反対に、正座の姿勢のまま、きっちりと背筋を正して。


「本当は、桜でんぶがあると彩りも良かったんだけどね」

「……俺、あれ嫌いなんだよ」

「え、そうなんだ? どうして?」

「……あれ、甘すぎてさ。ご飯に載せるのが抵抗がある。食えないほど嫌いじゃないんだけどさぁ……」

「そうなんだ……ちらし寿司とかも?」

「ああ、俺だけ桜でんぶ無しで作ってもらった。……あとは、アレだ。ブロッコリーもダメかな」

「……冷蔵庫に入ってたよ?」

「それな……。もったいないし、かといってなかなか手が伸びないし……その内、ガーっと炒めてどうにかするよ」

「あくまで食べる方向なんだね。……ボク、キミのそういうところ好きだよ」

「っ……!」


 好き、という言葉に米粒が変なところに入りかけた。

 何とかむせずに済んだものの、咳払いをしてどうにか体勢を立て直す。


「逆にお前は無いのかよ、嫌いなモノさ」

「ん? ……メロンかな。食べられないよ」

「なんだそのブルジョア」

「いやいや、嫌いなんじゃなくて……喉が痒くなるんだ、ボク。まぁ、好きと言えるほど食べてもいないんだけどね」

「当たり前だ、贅沢者」


 ――――思えば、こうやって人と笑いながら食卓を囲むのも久しぶりだ。

 唐突に思い出してしまう。

 俺には、もう血の繋がっている人間がいない事を。


 それでも、つらさは何もなかった。

 怜の作ってくれた料理と、向けてくれる笑顔。

 それだけで……今はもう、十分すぎるほど幸せだった。


「……おかわり、くれ」

「はい、もちろん。……ちょっと待っててね」


 米粒一つすら残せず、すっかり平らげてしまったどんぶりを差し出すと、怜がそれを受け取り、嬉しそうな表情で台所へ向かった。


 強まっていく暴風雨にも、もう何も感じない。


 ――――待った。

 肝心な事を忘れていた。


 普通に考えて、ここに一晩泊まるんだよな。



 ――――俺は、どこで寝る?








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