迷ひ家のパンケーキを君へ
*****
村に碧さんが帰ってきた事は、翌朝には誰もが知っていた。
秋の祭りには必ず現れて欠かさず、秋の風物詩を大いに盛り上げ、かつ楽しむ“謎の美女”……と、ずうずうしくも本人が名乗っているそうだ。
飲み比べ大会でも上位常連、それこそまるで“鬼のように”強いとか。
いつも酔ったせいではなく満足したからとシラフのまま途中でリタイアするせいで、碧さんの酔った姿を誰も見た事がないのだと。
しかし、そんなどうでもいい事ばかり考えてしまうのは――――この傷ができたせいだ。
昨日の今日で治りはしないし、笑いかけるたびに少しだけ頬が痛む。
縫うような傷でもないけど、簡単に済ませるには少し深い。
治るまでは少し骨だ。
腕の方も別段重傷ではなかったし、ペンや箸を持つぶんには支障もない。
一番の問題は――――こっちだ。
「咲耶……」
話しかけても、隣の咲耶は浮かない顔をしたまま目を伏せて歩くだけだ。
二、三度呼びかけてようやくこっちを向いたけれど、いつもの、普通にしていても微笑んで見えるような輝きはない。
今朝、俺の顔を見るなりもちろん驚かれた。
大判の絆創膏を頬にべったりと貼り付けていれば、当然そうなるだろう。
あの後、村会へ報告の電話を入れたのもあり――――“三本脚のリカちゃん”との関係を疑われ、正直に話すしかなかった。
咲耶にもらった御守りを肌身離さずに持っていなかった、とは嘘でも言えなかった。
落としてしまった、なんてのもまた同じだ。
かといって妙な勘の働く咲耶に、嘘を盛りすぎるとすぐバレる。
御守りを持っていた事。三本脚のリカちゃん人形と対決した事。――――御守りが効果を及ぼさず、珍しく傷を負った事。
そう伝えた時の咲耶の顔はとても辛そうに曇っていた。
あの夏の日、神社で話していた時に俺がとうとう直視できなかった表情も、きっとそうだったんだろう。
――――柳の事も、平田の爺ちゃんの怪我も、そして今の俺の事も。多分……背負ってしまおうとしているのだ。
「ボクの……せいだ。ごめんね、キョーヤ君。ごめんね……」
「……理由、何か浮かばないのか?」
「何も……」
訊いておいて、だが……そもそも、“御守りが実際に力を発揮し、怪我や病気や事故を防いでくれる”なんて方がおかしいんだし、咲耶もその力の出所を全て説明はできない。
それが急に使えなくなった理由なんて――――本人に分かるわけもないし、知っていそうな人間すら見当もつかないだろうな。
せめてこの村の誰かが説明できればいいのだけど――――少し調べて、聞き込んでみたところ、咲耶のような事ができた人はいなかったのだそうだ。
「……気にするなってば。俺が避ければ済んだんだし、柳だって腹冷やして寝たから風邪ひいたんだよ。……そうだ、今日、空いてるか?」
「え……?」
「久しぶりにさ。行かないか」
*****
五限目を終えて、ぷらぷらと歩いている内に咲耶は行き先を察したようだった。
役場から少し歩いた所にある、この村で唯一の喫茶店、“純喫茶マヨヒ”。
流石にもう氷旗は下ろされており、とうとうこの村が夏ではなくなったのだとあらためて分かる。
少し後ろを歩く咲耶は未だ浮かない顔のままで、俺や柳、八塩さんが何を言っても響かないようだった。
どこかから漂ってくるすっかり開いた
雲が空高くにできるようになって、広くはなくても深く見える秋の
「……キョーヤ君。気持ちは嬉しいんだけどさ……やっぱり、ボク……」
「だから、そういうのは無しだ。俺が来たかったんだよ。……ほら、入るぞ」
逡巡する咲耶の手を引いて、重い扉を開いて久々のそこへ入る。
ドアに着けられた小さな鈴の音はおとなしくて、店内には暖かくて香ばしいコーヒーの匂いが立ちこめていた。
またしてもお客は一人もいなくて、貸し切りの状態だ。
淡く軋む床を踏み慣らし、観葉植物の脇を抜けると、カウンターの奥から店主――――“ユキ”さんがどこか含みを感じる微笑みとともに、出迎えてくれた。
「あらあら、いらっしゃい、七支くん、怜ちゃん。よく来てくれたわねぇ」
「どうも、お久しぶりです。夏ぶりですかね」
「そうねぇ。……聞いてよ、七支くん。柳くんてば、この間いきなり来て“冷ぶっかけうどん一つ、大盛りで”なんて言うのよー。このお店を何だと思ってるのかしらね? 出したけど」
「何で出せるんですか!?」
「たまたま最近作るのにハマってて……手打ちよ。食べていく?」
「いえ、いいですまた今度」
店主、ユキさんの今日の服装は水色の着物の上に割烹着、明るめの茶髪は高い位置でお団子に結い上げられ、サイドの髪が一束ずつひらりと落ちて、輪郭にかかる。
BGMは懐かしい――――聴いた事はなくても懐かしさを感じるような音飛びや、プチプチと雑音の入り交じるジャズミュージック。
きっと、音源はレコードだ。
針をなすりつける都合上、レコードは痛む。その結果音は飛ぶし、紙をこするような雑音も混じってくる。
でも、きっとそれは――――俺でもわかるような、“味”なのだろうなと思う。
咲耶を促してテーブル席に座り、つかの間聴き入っていると、ユキさんが水とおしぼりを運んで来てくれた。
「ご注文は? ……って、何、どしたの。今日はずいぶんおとなしいのね、怜ちゃんてば。テストの点でも悪かった?」
「い、いや……ごめんなさい、ユキさん。何でも無いです……」
「ふぅん……。あ、そうだ。せっかくだし、試していかない? テレビ見てて、作ってみたくなったものがあるのよ。せっかくだし食べていきなさいな。それで、飲み物は?」
「俺はコーヒー、ブレンドで。咲耶は?」
「あ、うん……ボクは、ココアがいいな。暖かいの」
「はいはい、合点承知。それではしばしご歓談をー。あ、七支くん……甘いもの苦手、とかないわよね?」
「? ええ、好きですけど……」
「それなら安心ね。では、出来上がるまで少々お待ちくださいな」
注文を終えて、しばし会話を繋ごうとしてもまるで手応えがない。
一応返してはくれるものの、どこか気が入っていない咲耶の様子は、ひたすら不安を募らせる。
何が起こっているのか分からない、という事実がそうさせているんだろう。頬を動かすたびに新鮮な痛みが襲ってきて、その度に俺が顔を引きつらせているのがまずいのかもしれない。
やがて、何度目かの“一時しのぎ”の、沈黙を作るまいとする話題を探した時。
目の前に、“それ”が置かれた。
「えっ……」
その時、咲耶の目は驚きに見開かれて、表情も確かに一瞬、ほころんだ。
「はいはい、お待たせぇ。純喫茶マヨヒ、“シェフの気まぐれ風パンケーキセット”なぁんてね。……本当に気まぐれで作ったのだけれど」
木のプレートの上に薄く焼かれたパンケーキが二枚重ねられ、その上にハーフカットのイチゴをたっぷり載せて生クリームが添えられた、窓の外に見える風景に似つかわしくない一品だ。
パンケーキ部分には焼きムラもなく均一に焼き目がつき、それがイチゴの“赤”を絶妙に引き立てる、褐色の舞台になっていた。
「……作ってて思ったけど、これって手は込んでるけど“ホットケーキ”よね? どうなの、何か違いがあるのかしら? 七支くんは食べた事あるの?」
「いえ、一応学校の近くに店はあったんすけど……いつも並んでたし、一緒に入れるようなツレもいなくて。何気に人生初っす」
「そぉ……。まぁ、私も見よう見まねで作ったものだから、改良していくわね。冷めないうちにおあがりなさい」
そう言って、飲み物を置いてユキさんは盆を抱えて厨房に戻る。
だが、咲耶はココアに一口、口をつけたっきりで……手を付けようと、しない。
腹は立たないまでも、いつまでもそんな顔を見ているのも、辛い。だから――――意を決して。
「咲耶。こっち」
「え? ……え!?」
一口に切り分けたパンケーキをイチゴと一緒に刺して、生クリームをまとわせ、咲耶の口の前に運ぶ。
「食べないなら、俺も食べないぞ」
「え、ちょっ、待って……キョーヤ君、これって……!?」
「わ、わかった……た、食べる食べる! 食べるから、だから……!」
「ん」
あくまで、フォークを下げないまま……更に、咲耶に促す。
ああも言った以上、下げられないものもあるからだ。
そこから更に――――数秒。咲耶は落ち着きなく店内を見回してから、ようやく口を開けて……俺が差し出している一口を、
口に収めきれずはみ出したホイップクリームが唇の端にくっついて、ぺろり、と舐め取ったのを見て。
口の中に広がっただろう甘さで、その表情がじんわりと緩んだのを見た時。
ようやく、俺は――――今、自分がした事が何だったかを思い出し、心臓が裂けそうになってしまった。
今の。今のって――――いわゆる、“あれ”だよな?
「……ボク、食べたよ。キョーヤ君も食べなよ。おいしいよ、これ」
ろくに返事もできないまま。今度は俺の方が顔を上げられないまま、次の、自分のための一口を取った。
沈黙を誤魔化すように放り込むと……確かに、美味しかった。
甘みを少し抑えたケーキ本体、雪みたいに振りかけられた粉砂糖、イチゴの甘さ――――これは、生だけじゃなくコンポートも混ぜてある。
甘酸っぱさとホイップクリームが口の中で、ふわっとしたパンケーキと混ざり合い……思わず、二口めにすぐ手が伸びた。
合間に挟んだコーヒーも、やはり、美味しかった。
香りの立ち方も、酸味もトゲもない豆の風味がおだやかなコクをまとって、甘さに傾き過ぎた口の中を、引き締め直してくれるみたいで。
もしこの店が街中にあったとしたら――――連日盛況、間違いない。
ぱくぱくと食べ進んでいる咲耶が、やがておもむろに手を止め……残り三口ほどになったうち、一口をフォークに刺し、今度は、俺と同じように――――
「キョーヤ君」
「……待って」
「待たない。ごめん、心配かけたね、これでおあいこさ。ほら。……あーん」
――――これは、死ぬ。
まっすぐ見て、促すように差し出して来たフォークをかすかに揺らす咲耶から、目を逸らせない。
逸らせないまま、どこからかユキさんの視線を感じるが探す事すらできない。
この“あーん”返しに、逆らえない。
意を決するまで、数秒。
その間にも、咲耶の方が赤くなっていって――――唇が、“早くして”と蠢いたのが見える。
あわあわと震える口に意思を伝えて、開けて……迎えにいくまで、更に数秒。
触れる寸前。
――――ちょろんっ、という電子音が真横から聴こえた。
弾かれたように振り向くと、そこには。
「……ふむ、よく撮れておる。
あのハイカラ女、碧さんが。その手に――――間違いようもない、あの機械を。
出たばかりの最新機種のスマートフォンをしっかりと手にして、立っていた。
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